死に物狂い

他人から影響を受けやすい人間のフィクション日記

音楽にsadがのっている

 本格的に冬到来、年末進行で忙しくなる今日このごろ。こんなときはWUGちゃんのことを考えるのがぴったりですね。というわけで本記事は『Wake Up, Girls! Advent Calendar 2023』21日目の記事です。昨年に引き続き参加させていただきます。

(企画御礼 to ておりあ(@_theoria)さん←本年もありがとうございます)

 

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 昨日はわにのこさんのご担当でした。

waninitabi.hatenablog.com

 

 明日は吉野刹那さんのご担当です。

(覚え:後にリンクを追加する)

 

 なお、過去のWUGベントカレンダーではこのような記事を書いていますのでよければどうぞ(宣伝)。

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それではやっていきましょう。

 

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 WUGの音楽にはsadがのっている、と言ったのはたしか鷲崎健(敬称略)のはずで、それがWUGを刺さる人には刺さる作品にしている理由の一つなんだと、そのような文脈であったかはわからないが、このように曖昧なのは、私がその発言を知ったのがいつかのフクヤマニメの夜にばったり居合わせたワグナーから聞いた時だったからで、だけれども当時その言葉を聞いて確かにそうなのかもしれないなと得心したのを、今になって思い出したのだった。

 

 きっかけは例によってVTuberの配信を見ていた時のことだった。WUGちゃんねるリスナーの亡霊はVTuberの配信を見がちとの説があるが、それはさておき、ホロライブIDのこぼ・かなえるである。彼女が歌ったKANA-BOONの『シルエット』を聞いて感じたのは、透き通った歌声とは裏腹の物悲しさであった。

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 それは純粋な悲しみではない。悲しみだけではない。前向きさがあったり、将来への期待もあれば、そこに伴う不安とがないまぜになって、しかし根幹にあるのは悲しさなのであろう。曲自体が悲しいのか、それとも歌詞から受け取るストーリーか。人によってはエモいと呼ぶのかもしれない。おそらく音楽理論的には説明がつくのだろうが、そのような専門的知見は横に措くとして、耳にした時に生まれる感情をシンプルに表現しようとすれば、やはりそれは物悲しさ、ということになるように思われる。なお、KANA-BOONがなんだか最近悲しいことになっている、という話ではない。

 

 

 ところで、『シルエット』を聞いて思い出したのは、多田李衣菜の『Twilight Sky』である。

 

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 たそがれ時を寂しいと思うのはなぜだろうか。それは有史以来、地球上で論じられてきたお題目であり、答えはどうであれ寂しいものは寂しいものでよい。そのうえで、夕焼けの寂しさや悲しさが人々に受け入れられるのは、その後に朝日が登ることが前提となっているからである。次に始まりがやってくる前提の終わりはむしろ喜ばしいのであって、夕焼けに気落ちする人がいる一方で、それを好ましく思う人が少なくないのは、そういうことであろう。

 

 

 というようなことを考えながら、ある日に『なかま歌』を聞いた。

 

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 様々な楽曲のエッセンスが詰まっている一品だが、聞いて惹起された感情はやはり物悲しさであった。やはりもやはり様々に理由があろう。ただ直接的な理由の一つには、『花ハ踊レヤいろはにほ』を想起としたという点がある。

 

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 となると、どうして花ハ踊レヤいろはにほは物悲しいのかとの話になり、それは作編曲者にも聞いてみたいところではあるが、それはこれからの君が見たいということで一旦措いておくとして、回り回って冒頭の言葉を思い出したのであった。

 

 WUGの音楽にはsadがのっている。

 

 当時の発言がどのような文脈だったのかは三度やはりでさておくとして、語義そのままに受け取ったときに、sadがのっていると聞いて挙がるWUG楽曲はどれだろう。ほとんどすべてがそうなのではないか。逆に言えば、悲しみのない楽曲がどれほどあるだろう。1曲1曲を見ていくのもよいが、それをするには余白が足りないので、個人的に特にsadを感じる曲を考えてみよう。私の中には明確に2つある。

 

 一つは『地下鉄ラビリンス』だ。こんなに楽しい曲はない、と今もなお思う。ライブで聞けば身体は動き、心も動く。さあライブを見直してみよう。WUGちゃんとラップバトルをしよう。楽しいね。でもどうして悲しいのだろう。曲の終わりがあんな感じだから? それはそうかもしれない。やっぱり曲のストーリー性にも引っ張られてはいる。

 街に出てきた、新生活への期待と不安。地下鉄ラビリンスはその2つで織りなされている。見知らぬ風景、これまでとは違う環境で生きていく。その目的は夢を叶えるため。アイドルの文脈で聞くことが想定されているとしても、実際上はそれに限られない。人生を送るにあたって、誰しもが同様の想いを抱きうるだろうし、そして古来から存在するイベントでもあり、普遍的なものである。有り体に言えば、親元を離れるときの感情。それを自分と重ねて聞けば、共感が生まれ、あるいは人生の瑞々しさみたいなものが感じられる。だから地下鉄ラビリンスは楽しい。けれども、その瑞々しさはやがて失われる。そのうち街に飲み込まれていく。全てが日常になっていくのである。

 それをsadと呼ぶのが適切かは議論がある。しかし、どう表現するかはともかくとしても、ある状況がいつまでも続くとは限らない、あるいは続くわけはないという、当たり前と言えば当たり前のことを、深層心理的に思い起こさせるのが地下鉄ラビリンスであると思う(もちろん、そんなことは全ての事象に言えてしまうのであるから、こじつけにすぎないという意見もあろう)。

 

 もう一つは『極上スマイル』である。再びこんなに楽しい曲はない。しかし、極スマにおける笑顔の立ち位置は、必ずしも絶対的にポジティブというわけではない。人生楽ありゃ苦もあるさの延長線上の話で、苦労した分喜びもひとしおだよねと、それで終わればよいのだが、あるいは苦しいときこそ笑おうと根性を示すのでもよいのだが、苦しくても笑おうといった強がりまでを感じるようになると、はたして今この時はどちらの状況にあるのか、と考えるようになるのである。今この時に笑えているのか、そうでないのか。ここに至ると、極スマのテーマは「いつかはいいことあるよ」に様変わりする。楽観的に背中を押すが、後ろ向きな応援でもある。

 

 いずれにしても、共通するのは変化への意識である。ただそれらは根本にネガティブな感情を持っているかで左右され、先述したとおり、全てに対してこじつけることもできる。例えば、

・今がすっごく楽しいよね!→でもこの楽しさは永遠に続かないんだ…

・いつまでもこんな関係でいれたらいいね!→でも卒業したら疎遠になるかもしれないんだ…

といった具合である。

 こうすると、意識する時間軸の違いとの見方もできよう。人生を点で見るのか、線で見るのかの違いである。今はいいけれど、いいことばかりじゃないよねと、結局それは人生そのものである。我々は歳を取るにつれて、死以外の、明確な終わりや区切りと少しずつ縁遠くなっていく。そういったものを意識できるのは、ある意味で若者の特権であり、だからこそ終わりへの過度な意識に対し、ある種の懐かしさを覚えるのであろう。

 震災を一つの軸に持っている関係上、そもそも作品の成り立ちからして、WUGには本質的にsadがある。楽しいだけがWUGではない。そしてそれは一般化しても言えることで、楽しいだけが人生ではない。しかし、だからこそ楽しくもある。これはそのまま極スマで歌われていることだ。だから、WUGの音楽にはsadがのっている。しかし、sadを通してその反対側にある感情を得る。こうして私はWUGに惹かれるのである。

 

 最後に付言すると、作中の七人がファンに対して陽にsadを表することはあったのだろうか。すなわち、真夢はI-1時代を語ったか。藍理は脱退しかけた過去を語ったか。実波は仮設住宅の生活を語ったか。佳乃は、菜々美は。夏夜は、未夕はどうか。言い換えれば、彼女たちはファンにとってどのようなアイドルになったのか(そしてアイドルでなくなったのか)。そのようなことを考えるのもまたよいのかもしれない。