今回こそTwitterで一言感想を書いていこうと思っていたのですが、結局まとめて読むのでまたもやこちらに書いてます。やはりおおむね感想という名の私信です。(実際はもはや独白かもしれません)
記事の感想記事というのは、何やらコンテンツの再生産のようにも思われますが、そうは言ってもインターネットなので大丈夫だと思います。(?)
と、例によって昨年末から書いていたものが今になって書き終わりました。というわけでGo! Go! Go!
(言及NGな方がおられましたら削除いたしますのでお気兼ねなくお申しつけください)
解散に至るまでの流れを読んで、色々と思い返すことがありました。仙台公演二日目昼後のお葬式感は、記憶が脚色された今でも、笑ってしまうぐらいに暗い雰囲気でしたね。「そんなこと言うなら解散せんでいいのでは」と心のなかでツッコミを入れてしまった記憶があります。
私自身も解散を消化するにあたり、いろいろと考えた覚えがあります。あまり外野から推察しても意味はないのですが、彼女たちの本職は役者であるところ、例年のツアー実施を前提とすると、毎年一定期間、特定のユニット活動に注力せざるをえない状況が存在することが、はたしてプラスになるのかどうか、なんていう視点があったのかなと思っています。
商業的な要素も絡んでいたのでしょうか。単にライブに客が呼べるかだけではなくて、今後どのような展開を図るのか。新曲なしでライブを続けるのも現実的ではないような。とはいえ、新曲を作るにしても、タイアップにかけられるのか。またもや、色々と苦難が伴うようには思われます。
と考えたところで、結論としては活動休止でもなく、活動縮小でもなく、「解散」としてはっきり区切りをつける必要があると判断した(された)理由があるわけで、「辞めたいときに辞められる」のは、それはそれで望ましいことだとも思います。ともあれ結論に至るまでの議論については、また20年後ぐらいに明らかになったら楽しいなと思っています。
上映会に7人が来るのは違うのではないか、との感情は個人的に非常によく分かります。私もそう感じていました。いや、そうなったらそれはそれで嬉しかったとは思うんですが、「1年で集まるならそもそも解散する必要もなかったのでは……?」という感情が先行してしまっていたでしょう。それこそ、何だかよく分からないといいますか。同窓会をするには早いといいますか。誰もが渇望している(と思われる)WUGちゃんねる忘年会ですら、実現するとしても時間が空いてからのほうがいいなあと思っていました。特に基準もないですが、なんとなく、少なくとも2~3年はほしいなと。
言い換えると、カルミナさんの動画は素直に見ることができました。もう解散から2年が経過していたからです。勝手なものですね。あとは、(この企画に限った話ではないですが)「7人にとってWUGでの活動は良い思い出である」感じが見て取れたからです。これは、7人の中でWUGとしての活動が(紆余曲折はあれど)ポジティブな記憶として残っていることに加え、7人の中で当該活動がしっかりと過去のものになっているように感じられたので、特にわだかまりなく視聴できた、ということです。
亡霊としての数あるワガママの一つであり、結局偶像化でしかありませんが、彼女たちには解散を後悔してほしくない気持ちがありました。また、言えば言うほど自己憐憫ですが、過去を糧に前向きに進んでいる7人と、ある種の過去にとらわれているワグナーことわたくしの対比構造があってほしいと思っていたのでした。それが私なりの解散の消化の仕方でした。
そうごちゃごちゃ考えていくと、一歩目の問の立て方が間違っているのではないか、という気もしてきます。「どうして解散するのか」ではなく、「どうしてユニット活動を続けるのか」に本質があるのかもしれませんね。
わたくし、ロード・オブ・ザ・リングの知識はPS2のゲームしかないのでトンチンカンなことを言いそうで恐縮。
と予防線を張りつつ、現在「亡霊」と自称しているのは、ユニット活動期にWUGちゃんを追いかけていた、かつ今も後ろ髪を引かれている人々であると理解しているところ、光のワグナーのみが亡霊化していると捉えられる気もします。
調べてみると、光のエルフは暗闇のエルフと比して能力が高いそうですね。祝と呪は紙一重と言われますが、仮に光のワグナーのWUG力が、暗闇のワグナーより高いとして、実はその代償に光のワグナーは亡霊化する咎を背負っているのかもしれません。という設定の二次創作が読みたくなりました。
WUG三大定期と言えば
①I-1clubは解散していない定期
②アニメのWUGちゃんは解散していない定期
③コンテンツとしてのWUGは終わっていない定期
の3つですが*1、③がパチスロで体現された今、残るは①と②です(残るは?)。I-1を描いた作品といえば漫画版のスピンオフ(未読)だけとの認識ですが、他にもあるのでしょうか。
今から改めて展開するのは実際上難しいんだろうなと思いつつ、I-1メンバーのアイドルに対するモチベーションの源泉はあまり明らかではないなと感じており、そういった点の深堀りはあったら嬉しいなと思うところ。白木さんの想いとか、組織としてのI-1の厳しさとか、そういったことはアニメ作中で見え隠れする一方で、I-1メンバー各位がそれらに食らいつこうと頑張るのはどうしてなんでしょうね。あとはよろしくおねがいします(丸投げ)。
懐かしく見返しました。贔屓目なのは否めないとしても、なんであんなに面白い番組に仕上がっていたんでしょうか。
楽しい空間を作ることへの一致団結感は、見ていて常に気持ちが良かったですね。お互いに「きっと面白くしてくれるだろう」と信じている感覚。演者と番組スタッフ間の信頼関係と言うのが正確な表現かは分かりませんが、番組としてスペクタクルなテーマを持っているわけではないのに、「今回は何が起こるんだろうか」と楽しみな気持ちにさせられる時間でした。(2025年ぐらいをめどに一夜限りの復活を果たしてほしい)
shion-up-eternal-wugner.hatenablog.jp
熱意のこもった文章は長くなりがちですが、短いからといって、イコール熱意が薄いとはなりません。それが表現の面白いところと思います。とはいえワグナーの文章は長い。いや、オタクの文章は、と言うべきでしょうか。
パチスロ化については第一報の後、あまり明確な動きがなくやきもきしていたところ、無事発表されてまずは安心した覚えがあります。そこからはあれよあれよという間に今に至る。「パチスロ化してよかったな」と思える現状がとても幸せだなと感じています。
現地レポはひたすらに「ありがたい!」の一言。私は配信勢でしたが、まさに肉眼で見るべきライブだったと感じました。
「青山さんの」ということではなく、「ソロデビュー」という手法それ自体に対して、完全に外野ながらあまりポジティブなイメージは持っていなかった(ソロデビューする目的がよく分からず気づいたら活動終了している印象があるため)のですが、本件について言えば変に心配する必要もないのかなと感じるところです。商業的に成功する見込みがあるからこその動きだとは思いますが、「アーティスト性」的な何か(不明瞭)と、よいバランスを保って押し進めて行ってくれそうな気がしています。もちろん根拠はありません。
ソロイベ動画の蔵出し、やはりありがたい限り(率直な御礼)。同じ光景を様々な視点から見られるのってすごい贅沢だと思うんですが、また一つあの日の新たな視点が加わったことで、記録の解像度が一段階上がった気がしています。余談ですが、世にアップされているソロイベ解放区動画をディスプレイ上に並べて、できるだけ開始時間をあわせて一斉に再生すると、多視点的に当時を追憶できて楽しいことに最近気がつきました。
キャラソンに係る永遠のテーマの一つだと思います。それらを聞いたときに生じる素朴な疑問。「どうしてこの人たちは歌ってるんだ?」。特に、作品に「歌」という表現が関わらない場合、ただただメタ的な何かにしかなりえない気がします。一方で、WUGのようなアイドルものだと、それはそれで読み解きにややこしさが生じるんだなあと思いました。
私はシリーズ2は内面描写(=キャラソン)、それ以外はソロ曲と何となく捉えているのですが、いずれにしても解釈が難しいのは、ソロ曲と捉えた場合であるように思われます。というのは、作中において、WUGちゃん一人ひとりがワグナーからどのような人間だと認識されているのかは、実際のところあまり明らかではないように思われるからです。例えば、菜々美が光塚ファンであることは、作中のワグナー内でどの程度周知の事実なのだろうか、みたいな話です。(作中で語られてましたっけ……)
そう考えると、「ワグナーから観たWUGちゃん」の視点はまだまだ掘り甲斐のありそうなテーマだと思いました。やるしかない。
なにごとも遅すぎることはないということで、ご自身の感情を言葉にしていただいてありがとうございますの気持ちです。
好きなものを語ってる人の顔って本当に清々しくていいですよね。何でそんなに楽しそうに喋れるんだろうと思っているうちに、自分の表情も綻んでくる。伝染していくんですよね。ゆゆこたびさんが語る姿を見て、幸せな気持ちになる人もきっといるでしょう。そうしてまた一つ、尊い環境が生まれ出るのではないかと思いました。健康によいらしいので、今後も是非どんどこ語っていただけると幸いです。
おめでとうございます!(単刀直入)
わたくし、遊技機に関する評価軸や、5号機だ6号機だといった業界の趨勢には全く知見を持ち合わせていないのですが、ネット掲示板等で「面白いけど人気は出ないかもな」みたいな評判を見るにつけ、変に納得してしまう自分がおりました。
パチスロ化が発表された一番最初の最初、ディスプレイは付いておらず、非常にシンプルな外観が公になった際に(結局あれは試作機なんでしたっけ)、素人目に見て「大丈夫なんか?」と感じた記憶があります(基本的にパチンコ・スロットと言えば派手なイメージがあったため)。そんな意見をちらほらと見た気も。ただ、その真意としては、遊技機化それ自体に対する複雑な感情もあったにせよ、より純粋に、せっかくならちゃんと良いものにしてほしいなあとの思いが強かったような気がします。
今となっては杞憂も杞憂だったわけで、それはひとえにカルミナさんの尽力によるものと思われますが、このままシンフォギア、マクロス、ひぐらしといった(私のような門外漢でも知っている)作品群にWUGもなってくれないかと思う次第。
我々はいつまでWUG楽曲について頭をこねくり回すのか。少なくとも向こう2,3年は変わらずやってそうな気がします。5年後はどうでしょうか……。
さておき、只野菜摘先生はご自身の中で確固たる制作意図を持ちつつも、解釈自体は受け取り手側に委ねており、その幅のおかげで我々はいろいろな思索が楽しめるところかなと思うところです。
特にoutlander rhapsodyについて、私はFANTASIAの印象が強すぎて、そこから離れることがなかなか難しかったのですが、本記事を拝読して、「そもそもファンタジー要素の強い曲でもなかったな」と改めて認識できました。どうして私は勘違いしていたのか。しかし、そうやって勘違いしていた事実こそが、outlander rhapsodyの懐の深さの現れであるようにも感じました。
outlander rhapsodyを素直に読むと、あかとんぼさんのおっしゃるとおり、対人関係上のいろいろを歌っているように思える一方、WUGちゃんたちのことを歌っているようにも聞こえる。これって只野さんのいつものギミックな気もします。
WUG曲における只野さんの歌詞は、①特定のモチーフを抽象的に表現している(ように見える) ②歌詞単体で独立した物語として成立している ③登場人物をWUGちゃんに当てはめても成立している という三拍子が揃っていると思うのですが、outlander rhapsodyもご多分に漏れずなのではないかと。そしてタイトロープラナウェイも。いっそのこと、そこにセブクラとプラチナ・サンライズをもくっつけて、4曲で一組と考えるとどうなるか……。これはまた一筋縄ではいかなさそうですね(一人で勝手に楽しくなる図)。
本当に3月8日に参加されていなかったのか? と率直に感じました。それぐらい、当時の空気が現れているように思います。現地に至るまでの高揚感、それとともになぜだか生じる不安感。会場の熱気と興奮。どれをとっても不足がありません。拝読する中で、あの日に戻れた気がしました。ありがとうございます。
ところで、昨年血迷って落語(という名の会話劇)を作った人間もここにおりますので、WUG漫才もぜひぜひ。
(なるほど)
『ド』・・・まゆ
『レ』・・・みにゃ
『ミ』・・・ななみ
『ファ』・・・みゅー
『ソ』・・・あい
『ラ』・・・かや
『シ』・・・よぴ
(なるほど)
(満足)
個人的には、曲が始まった時点ではもう安定飛行中で、サビに入ると過去の離陸時に時間軸が戻るみたいなイメージです。伝わらないですね。100人ワグナーがいれば、100通りの絵コンテが描かれうるその可能性を感じました。
改めて土フラを聞くと、ジェット音がフィットしそうな部分がいくつかあるように思います。もしかするとこれはヒントなのでは……?
ッこれは……!?
ついついGoogleマップを開いて辿ってしまいました。そして実感する日本の山がち加減とコンパクトさ。特に陸路の話ですが、どの地域にも概ね高速道路と鉄道は通っていて、一日もあれば大体どこでもたどり着ける。それらのインフラがいつまで保つのかとの懸念はあるものの、ともあれ忘れがちな事実であるように思います。
しかしながら、多くの人(主語大)は一定の範囲内の地域で人生を過ごしていくわけですが、その上で、縁もゆかりもない特定の地域に足を運んでみようと思うのはどういう場合なのか……と、コンテンツツーリズムの話もぜひ機会があればお聞きしたいものです。嘘偽りなく私は素人ですが、興味関心を持っていた時期がございまして……。(とはいえ何冊か書籍を読んだことがあるのみですが↓)
(ご本人的にどうなのかはさておき)こういうのを分析と言うのでしょう。私がやったのはよく言ってやはり「調査」に留まるもの。知識があるから面白いことができるのだと感じました。
良くも悪くもですが、注目されるには何か原因が必要であることを、定量的に認識できました。きっかけなしに知られることは基本的にない様子。当然といえば当然ですね。
コンテンツ的な観点で言うと、何かを誰かに知ってほしいと考えるときには、これまでにリーチしていない人々に対して、知ろうと思ってくれる機会をどれだけ作れるかが大切ですね……。とはいえ、ではどうやってその機会を作ればいいのかで、少なくない人々が頭を悩ませていそうでもありますけれども。
また、現代人には気になったらとりあえず調べてみる習慣が身についているのもよく分かりました(これもまた良し悪しとは思いますが)。
加えて後先で恐縮ですが、本年もカレンダー企画まことにありがとうございました。書くのも読むのも、非常に楽しみながら参加させていただいております。
イルリキウムさんのアイコンを、過去のカレンダー上で何度も観た覚えがあるのですが、全て幻想だったようです。(なんででしょう)
少し前に大阪環状線の発車メロディが一新されたのですが、それらを耳にした際、「あの曲のそこを抜き出してくるのか」と感心した覚えがあります。
ざっと考えるだけでも、こういったメロディを完成させるまでのハードルがいくつか思い浮かびます。①どの曲も極一部だけを取り出しての利用はそもそも想定されていないはずである(ので一部のみ利用した場合には基本的に違和感を伴うのではないか) ②その一部を聴いただけで「あの曲だ」と想起できる必要がある ③その曲を選んだ理由付けも必要になる……などなど。なかなか難しそう。
本企画において③は省かれるものの、①②は依然として存在します。単純にサビを抜き出せば良いというわけでもないでしょう。1曲1曲に対しかなり真剣に向き合う必要がありそうです。そしてそれをやり遂げているのがすばらしいと思いました。
I-1曲は総じておしゃれであり、一体全体どんな車両が駅に入ってくるのか、そもそもどんな駅なのか気になって仕方がありません。あとプラチナ・サンライズの駅には、おそらく銀河行きが止まるような気がします(未来感がある)。
これは三菱アウトランダー
↑ここすきポイント
私は2018年のグリフェスからWUGに触れたのですが、それ以前から追いかけてきた方と比べると、そこにもやはり断絶があるのではないかと思われます。彼女たちがしんどかった(であろう)季節を知らず、仕上がりに仕上がった状態の7人しか見ていない。消費者的には一番良いときに出会えたと言える一方で、良い部分だけを掬ってしまっているなとの感覚もあります。ただ、それを言い出すときりがないので、結論的には深く考えなくてよいのでは、と開き直りつつある今日このごろです。
「神話」と言うと何やら神性を帯びてきますが、客観的に見たときに、活動最終年度のWUGちゃんを取り巻くもろもろの動きが、あまりにもできすぎていたように思われるのも事実です。そして、当時はその「できすぎている」感覚も含めて楽しんでいた記憶があります。それが口伝的に強調されていく(されていっているのかは分かりませんが)につれて、聞き手のWUGちゃん像がどんどん(ともすればある種の虚実性をはらみつつ)肥大化していく感じでしょうか。それは仏典の広がりともどこか通じるところがあるように思われ、面白く感じられますね。(「聖地」をはじめ宗教用語を用いがち(?)なオタク界らしいと言えるでしょうか(?))(ものすごく浅い知識で喋っている)
振り返れば世間的にもいろいろあった一年でしたが、ともあれ今年も一年を終えられたのだと、拝読して安心感を覚えました。続けることではなく、続くこと、あるいは続いていることに意味があるのかもしれないとも感じました。2022年も皆さまにとって幸多き一年でありますよう、心からお祈り申し上げます。
*1:諸説あります