死に物狂い

他人から影響を受けやすい人間のフィクション日記

『ハジケテマザレ』を読んだ

『ハジケテマザレ』を読んだ。本当に面白かった。

 

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 文芸好きで金原ひとみ(敬称略)を読んだことがない人は少ないだろうと思うのだが、そう言う私は読んだことがなく、厳密に言うと芥川賞受賞当時に『蛇にピアス』を手に取ったことはあるものの、当時まだ少年だった私は「なんか怖くない……?」と読むのをやめたしまったのである。だって舌にピアス入れるんですよ? 『蹴りたい背中』が学生主人公で相対的に読みやすく、その後に目を通したからかもしれない。以来、金原ひとみの作品が書店で平積みされているのを見かけても、読んでみようとまでは思わず、歳を取っては定期的に読んでみようとは思って見てみると、なんだかセックスか暴力かみたいな話で、やっぱりちょっと読むのしんどいかもと早々に撤退を決め込んでしまうのである。しかし、金原ひとみはインターネットで定期的に話題になり、往々にしてそれは文学賞のコメントからフランクなおもしろお姉さんとして紹介され、やっぱりいっぺん読んだほうがいいよと心の中で積極的な推奨を受けて、いざとページを開いてみるのだが、やっぱりやっぱりそこにフランクでおもしろな物語などなく、やっぱりやっぱりやっぱりしっかりと体力のある時に読まないとあかんでと本を閉じてしまうのであった。

 

 そんな中で昨年に『文学2022』というアンソロジーを読んだ。

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 ここで『ハジケテマザレ』に出会ったのである。コロナ禍により派遣切りにあった真野を主人公として、バイト先のイタリア料理店フェスティヴィタの面々が織りなす物語は、決してないであろう世界を現実感を持ってあるように見せてくれる。お察しのとおり、徹頭徹尾明るくて快活で頭を空っぽにして読める物語とまでは言えず、もとい初っ端から(ほとんど読んだことがないのに勝手にそうであるとする)金原ひとみっぽさに襲われることとなる。例えば冒頭の真野のルッキズムに関するぐんにょりした独白(真野は概ねぐんにょりした独白を繰り広げるのだが)を見ると、

私も前に「かわいい……」と呟き「初見の人ならともかくバイト仲間にまでかわいいって言い続けられる気持ちがわかりますか?」と完膚なきまでに己の無自覚なルッキズムを拒絶&軽蔑されていたため、それ以来うっかり出そうになる「かわいい」を何度も押し止めてきた。男性客に「かわいいね」、「女性客にあの子かわいい……」と嘆息混じりに言われ続けている人の気持ちなど私に分かるわけはないのだけれど、そこは想像で補いごめんと謝った。私だってまじルッキズム撲滅死ねそれに縛られてる私も死ねと常日頃から思っているにもかかわらず、彼女のそばにいるとかわいいの力はすごいと再確認させられるばかりだ。

(p8~9)

というように自意識の荒々しいうねりが押し寄せてくる。もうここで好き嫌いが分かれそうな気もするが、何か面白そうだなと思える人にとってはきっと読んで良かったと思える物語であるだろう。

『文学2022』を読んだ当時、『ハジケテマザレ』は短編完結作品だと思っていた。それだけで完成していたからである。一方で、もっと読みたいといったもったいなさもあったところで、本書を見つけたときには驚いたのである。連作だったんだと喜びを持って手に取り、気づけば読み終えていた。本書は表題作を含む4つの短編から成るが、どれを読んでも面白いのはそれだけをもってなかなか感動的な体験である。

 会話劇とも解される本編は、軽やかな文体でするすると展開し、読者としては時に声を出して笑いながら、そこから感じられる軽さに気持ちよくなってしまう。マナツに思いこがれる横山に対する談として、

「マナツさん的に、横山さんはないんですか?」

「ないって何? この世にないってこと? そういう意味なら別にないけど」

(p67)

と、一蹴する姿には大きく吹き出して笑った。そのほか一部の男性に対する視線が厳しく、それは彼らのあかんところが目立つからでもあるのだが、とはいえそこまで言わんでもと思う一方で、そう言われても仕方がないかと思ったりもする。

 

 このように、会話を読むだけであれば、個性あふれる人々による永遠の青春ハートフルストーリーに見えなくもないが、物語全体に何となく暗い影が落とされていて、その原因はこの世界がコロナ禍にあるということと、主人公かつ語り部である真野が社会的には不安定な立場に置かれていることによる。派遣切りにあってフェスティヴィタへとたどり着いた真野は、30歳も見えてくる中で、客観的には「ぬるま湯」とも称されるフェスティヴィタに居心地の良さを感じているが、将来への不安にさいなまれる。真野自身もそうなのだが、読む側としても、彼ら彼女らのやり取りを笑顔で見ていながら、頭の片隅には、真野は今後どうなるのだろう、どうするのだろうといった心配が常に残っている。

 コロナが蔓延し、緊急事態宣言が出されて、在宅勤務が増えたあの期間において、私が覚えたのは時間が止まったかのような感覚だった。社会全体が停滞しているようで、もう二度とあの頃の日常は戻ってこないのではないかと悲観的になり、心身ともに幾ばくか不安定にもなった。ぬるま湯と呼べる環境は、それに似ているところもあるのではないかと思う。前にも後ろにも進んでおらず、物事が動いていない。

 どこにでもいないような人間が集まるフェスティヴィタにおいて、真野はどこにでもいる普通の人間であり、属性的には読者と最も近い位置にあるだろう。我々が持つような悩みを抱え、我々がそうするように一応はもがこうとする。そして、真野を取り巻く人々は、そんな真野の普通さを肯定する。

 コロナ禍という非日常から社会が立ち戻ろうとするのに合わせて、真野もまたぬるま湯から脱することとなる。結局真野は普通でない人々によって救われたと言えるか。フェスティヴィタの日々自体が非日常の産物であり、それが真野の前から消えたとも捉えられるし、あるいは非日常がついに日常になったとも言えるだろうか。もっと言えば、日常自体がそもそも非日常であるということを訴えかけられているようにも思われた。いつのまにかカレー探求者となったブリュノの、真野に対する適当な一言が端的にそれを表している。

「そうですよ、普通は尊いし、普通は貴重だし、普通はむしろ普通じゃありません」

(p204)