ひきわり算盤

他人から影響を受けやすい人間のフィクション日記

人生はスケッチスイッチ

 人生はスケッチスイッチだ。言ってみたものの、その意味するところはよく分からない。なぜなら、今まさに私の口から発せられた、脈絡のない一言だからである。そこに意味はあるのか。そこに文脈はあるのか。言うまでもなく「ない」、と言えるのはある意味で私の強みかもしれない。時は有給、場はカラオケ。仮に、どこかの思想家が、平日に労働から免れた独身成人男性が行き着くのは風俗かカラオケであると論じていたとすれば、私はカラオケに行きつく方の成人男性である。とかく郊外のカラオケボックスには今日もまた老若男女であふれている。一部の生徒は卒業式を終え、受験を終え、持て余した最後の自由時間を惜しまず投げつけている。老夫婦は仲睦まじくデュエット曲を歌う。マダムグループはかしましくドリンクバーを楽しんでいる。

 そんななかで成人男性が平日に一人赴くのは、いくらカラオケが万物を許容する空間だとしても、やはり浮いている気がしないでもないのだが、カウンターの兄ちゃんは慣れた手つきで、3時間パックをおすすめしてくる。仮に2時間いるなら、3時間パックのほうが安いのである。どうして店にとって得にならないほうをお勧めしてくるのか未だにわからないが、そういえば最近は営業営業していない業者が増えたような気もする。そろそろガス給湯器を変えたほうがいいだろうか、と思って見積もりに来てもらったら、背の高い職人の兄ちゃんは「これまだまだ使わな損ですよ」と出張費も取らず屈託なく言って帰っていった。クレームになるよりもそのほうがいいのかもしれないし、そもそも不必要に仕事を取るような余裕もないのかもしれないが、客としてはよい。

 3時間もあると思うと、次に何を歌おうかなどと迷う必要すらなくなり、2~3曲歌っては寝転がるなどという贅沢もできてしまうのである。視線の片隅で、チャンカワイが歌詞を考察している。部屋が無音になると、隣室の歌声が聞こえてくる。先ほどから演歌と歌謡曲を織り交ぜて、渋い声で歌っている御仁が、おそらく壁を隔てた反対側にいるのであろう。

 そもそも、3時間も一人で歌えるものではない。来るたびにそう思い、帰るたびに忘れるのである。体力的な問題もあれば、ぱっと思いつかないせいもある。一曲5分と考えて、歌いっぱなしで36曲。と、あらためて計算するとそこまで多くないようにも感じられるが、事前にセトリを組んで足を運ぶのであればともかく、まずもってカラオケに来るという選択が非常に突発的な行動なのであって、したがって残念ながら今日のライブのセトリは組まれていないのである。

 そういうときには、昔俺は何を歌っていたのか、と古い記憶を呼び起こす以外に方法はなくなるのだが、そうなれば自ずと2000年代に時間を戻すことになる。平野綾のSuper Driverを歌って頭に浮かぶのはハルヒのOPか、それともPVで車に乗ってる平野綾の姿か。意外と両方な気がするのは、LantisのCMをセットで見ていた記憶があるからだろう。

 歌うという行為には並行的に記憶を喚起する効果があり、そういえばひだまりスケッチがあるじゃないかと、遠くから心のウメスが語りかけてきたのだった。ひだまりスケッチである。ミズハス、元気にしてますか。ただ、ひだまりスケッチの主題歌を一人で歌うのは、実は結構大変な作業だ。複数人で歌唱される前提の曲を一人で歌うのは難しいということだ。こういうとき、無駄にこだわりを持つ完璧主義者は得をしない。カラオケで完璧を目指す必要など、どこにもない。もとよりわれら一般人が完璧の境地に至ることは不可能である。そもそも完璧とは何か。OPを再現することだ。無理である。

 スケッチスイッチはイントロがわくわくするよね。でも聞くたびに思うのだが、記憶よりもキーが高いのである。喚起された記憶のフィルターは、自分が歌いやすいように調節をしてくれる。俺の脳内にはDAMが入っている。

 スケッチスイッチの歌詞は変である。まったく、畑亜貴はこういうのがうまいよね、と思って作詞家欄を見ると秋乃零斗。なぜ私は畑亜貴だと思っていたのか。ふざけているときの畑亜貴に感じたからである。同じく秋乃零斗作詞のおんなのこパズルを見よ。かわいいですね。畑亜貴はかわいい歌詞も書きます。調べてみれば、この二曲以外に作詞作品が見当たらない。となれば、そういうことなのかもしれない。ゴトゥースはどう思う?

 

 

 ちゃんちゃちゃんちゃんちゃんちゃんちゃん。これはスケッチスイッチのイントロ。二回繰り返してそこからギターがぎゅいんぎゅいん。こういうのもギターソロと言っていいのだろうか。そうしてゆのっちの一言からこの曲は始まる。

 

「あのあのどんな色が 今ですか?」

 

 そう、スケッチスイッチはこの問いかけから始まる。その問いに対して、私は即答できない。それぞれの色に、具体的なイメージを持てていないからだ。好きな色はある。しかし、それはその色が具体的な感情を持つことを意味しない。明度と彩度に紐づけて、説明することはできるだろうか。できるかもしれない。たしかに、私は赤色から情熱を受け取る。しかしそれは、「赤は情熱をイメージする」という情報を先に得ているからではないかとも思う。あたしンちの母の影響である。

 例えばブルーな気持ちとはいうが、それでいえば私は青色が好きなので、青にブルーな印象は特に抱かないのである*1。では、たとえば桜色はポジティブな意味あいを持つだろうか。ものごとのスタート、始まりのような印象を覚えることを否定はしないが、そこから敷衍してポジティブな感情を表すことができるかといえば、具体的にいって「今は桜色な気持ちです」と表現できるかといえば、そういった時点でそれは色ではなく、もはや言葉で説明をしているようにも思う。

 ただ、桜色にはそのようなイメージがある、とのバックグラウンドを前提に桜色を感情表現に使うのであれば、桜色という色にそのような意味合いが既に含有され、共有されているということだから、その意味で使い方としては適切ともいえる。と、小難しいことを考える必要は常にないのだが、話を戻せば「今を色で表せ」と言われても迷うなあということである。シンタスはどう思う?

 

 明るい色の服を着れば、気分も前向きに明るくなる。シックな色であればカチッと身が引き締まる。これは実感としてもそうである。しかしそれは色がそうさせているのか、「明るい色を着れば」という情報がそうさせているのか、私にはわからないのである。

 だからこそ、ゆのっちの問いかけは、私の心に残っている。「どんな色が今ですか?」 ブルーではないね。どちらかというと明るい気持ち。でも明るい気持ちを色で表すなら? ホワイトではないと思うんだな。かといってオレンジとかイエローとかさ、もちろん色味としては好きだけれども、「今」を表現するものではないよな。

 そもそも定まるものではない、ともいえる。だって人生ってそういうものでしょ? 色と同じよ。混ざって混ざって、混ざった結果のRGB。でも、だからあくまでも「今」の色をゆのっちは聞いているのだとも思う。じゃあ何色だろうね。やっぱりわかんねえな。でも、分からないなりに今を色で考えてみたくなるあたり、人生はスケッチスイッチだという出まかせも、案外的は外してないのかもよ。アスミスはどう思う?

 

 

*1:ただこの例だけでいうのであれば、これは英語由来の表現らしいのでまた別の議論がある

22時の職務専念義務と、プラチナむかつく私について

「まったくもーまったくもーまったくもーだよまったくもー」

 そうつぶやいたのは阿良々木月火ではない。私である。誰もいない、22時を超えたビルの一室で、成人男性のアニメモノマネがつつがなく行われたのだった。

 自分が月火ちゃんになっていたことに気づいた私は、その状況をいかんともしがたく思っていた。年明けから度重なる時間外労働に追われ、たしかにまったくもうと思う状況ではあったが、だからといって労働中に月火ちゃんになってよいわけではない。いや、なってもよいのかもしれないが、それは職務専念義務に反している可能性もないではない。ただ、コスプレしながらの業務がよいのであれば、月火ちゃん化して仕事をしても何ら問題はないようにも思える。議論がやまない中一つ明確なことがあるとすれば、私は疲れているということであった。

 思えば、過去にも兆候はあった。東京への出張から帰ってきた折、ぼーっとしながら下車をした私は、同じく下車する乗客に紛れながら、寝逃げでリセットを歌っていた。私は柊つかさだったのだ。嘘である。そのときの私は柊つかさではなかった。柊つかさのモノマネをしている人間。真顔だ。しかし、歌い方は柊つかさそのものである。ただ、その歌詞は本物と異なる。なぜならばちゃんと覚えていないからである。だめでぽやぽや寝て起きて伊万里だったら全ての言葉の海で。むちゃくちゃである。でもおふとんが幸せすぎることは覚えている。頭の中には、カバージャケットが浮かんでいる。黄色いカバージャケットが浮かんでいる。

 喧騒の中では、人一人が多少声を出しても気づかれない。あるいは、気づいているとしても、そこに注意を払おうとは思わない。そのような環境で周囲に聞こえる程に声を上げている人間は、基本的に関わらない方が良い。だってなんか怖いし。だからそれを逆手に取ればよい。人がごった煮がえして、数百人の足音が響き渡っているからこそ、声をだしても気づかれない。私が柊つかさに扮していても、誰も気がつかない。気がついていても、異分子として無視してくれる。

 そう、疲れていたのだった。もっとも、回復できる程度の疲れであろう。月火ちゃんになれるぐらいではあるのだから、寝れば戻ってくるだろう。しかし、これは加齢でもあると思う。でもそう言われると加齢側も不満だと思う。何でもかんでも加齢のせいにするなと。たしかに一理ある。一リアル。見よこの言葉遊び、これが出来損ないの西尾維新だ。偽物ですらない。しかし、何者でかはある。私は私であると、確固たる自信を持って言えるようにはなったのだから、それは加齢のいいところであろう。やっぱり加齢のせいではないか。そのようないい歳になってきた私において、思考のフィルタを外してまろび出てくるのは、かつて見た2000年代のアニメーションなのだ。いや、偽物語は2010年代なのだけれど。