死に物狂い

他人から影響を受けやすい人間のフィクション日記

作業と感じるかどうかの境界を探る『Crime Scene Cleaner』

『Crime Scene Cleaner』をクリアした。面白かった。以下はネタバレを含む感想。

 

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 何かしらの原因によってぐじゃぐじゃになった殺人現場を掃除するゲームである。血痕を拭き取り、散乱した瓦礫を拾い、死体を運ぶ。文字面だけだと非常にグロテスクに見えるが、実際はそうでもない。リアルな肉体の断面図などはなく、全体的にゲームっぽさのあるグラフィックなので、血でビチャビチャになった床や壁面を見て「派手にやったなあ~」と呟いてしまう程度のものである。

 清掃するゲームと言えば、少し前ならViscera Cleanup Detailや、最近であればPowerWash Simulatorが有名だが、それらとの違いは、必ずしも清掃行為自体がゲームの主題ではないところだろう。そもそも主人公はどうしてこのような闇仕事に巻き込まれているのか。非日常が日常になっていく過程で一体何が得られるのか。そして何が失われていくのか。そのようなストーリーテリングに清掃が付随している格好である。

 と言いつつも、清掃が従の存在なのかといえばそんなこともない。ゲームとしてのメインはこちらである。バケツに水を汲み、洗剤を混ぜ、モップとスポンジで綺麗にしていく。慣れてきたら高圧洗浄機も使っちゃう。そして、「掃除」だけではない。「片付け」も必要だ。飛び散ったグラスの破片をゴミ袋に詰め、吹き飛んだ家具を元の位置に戻していく。まるでその場で殺人などなかったかのように、元よりも整然とした状態にしていくのである。

 この過程はとても面白い。PowerWash Simulatorと同じである。仮想空間における掃除の良いところは、綺麗な状態に戻せることが保証されている点にあると思う。個人的には現実世界での掃除も面白いのだが、残念ながらどうやっても落とせない汚れが存在する点がネックだ。「これだけやってもあかんか……」となる可能性がある。一方ゲーム上の汚れは、拭けばしっかり落ちてくれる。努力が必ず報われるのである。本作でも、掃除をすればするほどに悲惨な現場が整っていく。この感覚がよい。

 そして、このような清掃活動だけではない。各ステージの舞台には、隠されたギミックが用意されている。これがまたわくわくする。ベセズダゲーで、表からは見えない部屋を見つけたときや、施錠されたドアをコンソールで開けたときと同じような興奮がある。単純作業と謎解き的な要素があわさり、そこに全体を貫く物語が乗っかることで、とても面白い作品になっていると感じた。

 

 一方で、ネガティブに感じたのは、終盤に向かうにつれてステージが段々と広くなってく点、およびパズル的な要素が増えていく点である。本作のシステム上、作品としてのボリュームを確保するにはステージの数を増やすか、一つ一つを複雑にするかしかなく、同じようなギミックを繰り返しても面白みは減っていくだろうから、デザインとして仕方がないようには思われる。また、ステージを経るごとに、主人公はスキル選択によって強化され、掃除の難度が低下していくため、その代わりに掃除以外の要素で作品の拡張を試みた、ということだと思われる。しかし、ここのバランスが悪くなると、作業ゲーから本当にただの作業となってしまい、プレイを継続したいという気持ちが弱くなっていく。

 私が色々と諦めかけたのは、9ステージ目の『現代アート』である。このステージの舞台は、デスゲームが行われた美術館であり、(そこまでのステージと比べて)とにかく広い。そして、広い上に「デスゲームのドタバタによってそこら中に散乱した美術品を元の展示場所に戻す」というミッションが加わってくる。これが本当にしんどかった。まずもって、ステージ開始時の感情が「広くない?」であり、この時点で若干心が折れかけているのだが、それに加えて多種多様な美術品を探す必要があると気づいたときには(当然ながら掃除をする必要もある)、なんでそんな設定にしたんだと思ってしまった。一つ前のステージである『パーティーの終わり』から、広さや面倒さの片鱗は見え隠れしており、「次(のステージ)に行ったらもっと広くなるんじゃないだろうな」と心配していたら的中した格好である。

 こうなると、どのような事象がここであったんだろうと想いを馳せる楽しみも薄れ、早くこのステージを終わらせたい気持ちが強くなる。さっさとクリア条件だけを満たして終わらせてもよいのだが、これまたシステム上、ステージクリア時に清掃や片付けの具合が評価されるため、またここに至るまではパーフェクトクリアを重ねてきたこともあり、そう簡単に諦めることもできない。しかし、結局気力は続かず、最終的には達成率を気にせずに前に進めることにした。

 そしてこの次が最終ステージでなのだが、結果として、クライマックスに向けてむしろストレスが貯まっていくような状況になってしまい、クリアした際には満足感とともに、これで終わってよかったとの気持ちがあった。

 

 そのほかの気づきとして。ストーリー上、雇用主であるギャングのボスは、一旦表舞台から雲隠れすることとなり、それで本作は一旦の終わりを迎える。療養を終えた娘を迎えて、主人公には平穏な日々が戻ってきそうである。しかし、きっとそのうちボスは帰ってきて、そうすると主人公はまた日夜事件現場に繰り出すことになる。そのような未来が想像できる。その時には、また淡々と仕事をするのだろう。

 そう、この主人公は結構淡々としている。そしてそれはプレイヤーも同じである。死体とゴミを同列に扱い、作業的に、ただひたすらに血しぶきを拭き取っていく。その過程において、当然ながら私はそれらをゲーム内に存在するただのモノとしか認識していないわけだが、プレイ中には、その感覚をとおして主人公と同化しているのかもしれない。

 

キュートである『ゼルダの伝説 知恵のかりもの』

 プレイしたところ非常に面白かった。以下、ネタバレを含む感想。

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 ティアキンのような遊びを2Dでもやろうとした、という論評だったかコンセプト説明だったかをどこかで見た記憶がなきにしもあらずだが、まさにその通りに感じた。と言っても、カリモノにはスクラビルドのような自由度はない。例えば、カリモノ自体を組み合わせて新しいなにかを作るということではない。どちらかと言えば、ステージとかレベルデザインの方になるだろうか。

 これまでの2Dゼルダでは、明確に行けない場所があった。それはなにか特定のアイテムで解消されることもあれば、物理的に不可能なこともある。しかし、本作はそこの壁を破ったと言えるだろう。ロック鳥の羽根があっても、リンクはフィールド上の高い木々を飛び越えることは到底できない。しかし、本作では、カリモノの力を借りれば、とりあえずベッドを積み重ねることで、ゼルダはどこにだって行けるのである。

 この点を実感したのは、マップ右下のフィローネ湿原に行った時である。本作では、かなり豊富にファストトラベルのポイントが設定されているのだが、このマップのエリアの中央にはない。位置関係的に置いてもいいはずだと思うのだ。例えば現状だと、湿原の左下に行くには、少し遠くのポイントにワープして、そこからえっちらおっちら歩いていく必要に強いられるからである。

 しかし、よくよく考えればそれはこれまでのゼルダの話である。本作のフィールドでは、通行の妨げになるものは実質的にないのである。フィローネ湿原にはたくさんの木が生えている。そしてその上を歩くことができる。ベッドだベッド。とにかくベッドで階段を作れ。それで全ての道が開ける。

 この事実はプレイヤーに一つの感覚を抱かせる。マップ上で行けない場所はどこにもないのではないか。あらゆる場所に何か遊びが隠されているのではないか。すなわち、これは近年の3Dゼルダと同じ感覚だ。その意味で本作には制限がない。あの崖を登ったら? あの木の上を歩いていったら? 2Dと言いつつ、その実態は3Dである。

 カリモノを使った謎解きや戦闘も楽しい要素だが、何よりも遊び方として面白く感じたのは上記の点だった。

 一点、ネガティブに感じたのはラスボス戦である。ここでは、リンクとともに戦うのだが、直前でリンクに剣を返したことによって、ゼルダ自身は剣士モードになれなくなっている。つまり、自分で剣を振るうことができない。ここまでは自らボスを斬って倒してきた。しかし、最後の最後で、自分からは攻撃できなくなってしまう。カリモノを呼び、ボスの身体パーツを引っ張り*1、リンクをサポートすることはできるが、それまでである。このような役割分担自体は、これまでの作品と変わらない。光の矢を打ってくれるとか。しかし、いざ自分がその立場となると、結構歯がゆさを感じるのであった。ゼルダはいつもこのような感覚を抱きながらでリンクを助けていたのだと思うと、どこか申し訳ない気持ちになる。

 

 話は変わるが、面白いよりも先に、とにかくキュートであるなあと感じた。冒頭はそうでもなかったのだが、ハイラル城から脱出し、海岸に出たあたりではっきりと「これはとてもかわいいのではないか」と感じた。何がと言えば、画面に映るキャラクター全てである。

 そもそもウギ将軍とサダリ大臣*2を見た時からその兆候は合ったのである。ハイラル王もそうですね。そして、ほっかむりをしたゼルダを見て「これは」と思い、海岸でウニたちに出会った際に確信したのであった。非常にキュート。デフォルメされたかわいさである。

 誰しも表情が豊かである。主人公であるゼルダは、穴に落ちれば悲鳴が響き渡り、水中を泳ぎながらZ軸方向にスピンを繰り返し、ゴロンに胴上げされて笑顔になる。やっぱり、表情は大切だ。キャラクターを生き生きとさせる。一番のお気に入りは、リーデットの叫びを聞いたときのリアクションで、呼び出した仲間とともに震える姿は、本人にとってはたまったものではないだろうが、本当に嫌な音なんだろうなという感じがする。そういうところに命を感じるのである。

 この感情は、Miiを見た時のものとよく似ている。古い話だが、WiiFitでは、ホーム画面でMiiにカーソルを当ててボタンを押すと、こっちを向いて笑ってくれた。手も振ってくれる。それを見て、なんともかわいいなと思ったものである。画面の中から実際にこちらへ目を向けてくれているような気がしたのである*3

 本作も同様である。3Dで表現されるような、細やかな感情表現ではない。しかし、そのキャラクターが様々な表情を見せる。その一つ一つがキュートなのだ。

 しかしながら、このような感情になるのは不思議である。なぜならば、私はこれらの(またはこれらに近い)キャラクターを、リメイク版の『夢を見る島』を通じて既に見ているはずだからだ。当時もかわいいとは思ったはずだ。物を持ち上げるときに両手を挙げているけどどう見ても頭上に手が届いていないとか、そんな話題はあったはずである。しかし全く「かわいい!」と思った記憶がない。少なくとも今回のように強烈な印象ではなかったということだろう。

 何がこの差異を生んだのかを考えると、カリモノのシステムだと思われる。本作では、敵キャラクターをカリモノとして呼び出し、共闘・協力することができる。この時点でもう我々は仲間である。芽生えた仲間意識は、好意的な印象を強化する。タートナックはいつも私の横で頑張ってくれているし、鉄球兵士は明後日の方向に鉄球を放り投げている。バクダン魚とかいう生物兵器は何も言わずに爆発していく。

 敵キャラクターには表情がない。しかし、呼び出すキャラクター全てが愛おしく思える。何だかゼルダのために頑張ってくれているように見えてくる。ピクミンと同じなのかもしれない。カリモノが画面上にいてくれるだけで絵面が華やかになる。せっかくなので、意味もなくウニを出せるだけ出したりする。一方でボスキャラはどことなく不穏さを感じさせるが、意図的にバランスが取られているのかもしれない。

 ともあれキュートである。それはキャラクターだけでなく、結果として作品自体がそうなっている。家の近くの池でテクタイトが飛び跳ねていてほしい。そういうふうに思うのであった。

 

*1:ちなみにプレイ時にこのギミックには全く気づいておらず、あとから攻略サイトを見て知った

*2:英語版はLightとReftみたいな感じかと思っていたが実際はより凝った名付けのようだ

*3:そうであるがゆえにゲーム内に閉じ込めてしまっているようで居心地の悪さもあった