ラブコメ、と呼ぶぐらいだから、純粋な恋愛劇とは違うのだと殊更に意識しているのかは分からないが、もといそもそも「純粋な恋愛劇」とは何なのかという話もある。どのような作品も、恋愛の要素はあくまでも付随的なものであって、本筋のテーマは別のところに置かれているのが通常ではないか。昼ドラだって恋愛そのものというかは、恋愛が呼び起こすややこしい群像劇を描いているのである。しかし、恋愛にはそれだけの、人にタブーを犯させるだけの力があることを描いているのだとすれば、それはすなわち恋愛そのものを描いている、ということになるだろうか。恋愛とは人間の感情が動く理由の一つなのであって、それ以上でも以下でもない、などと断じるのは早計だろう。しかし、私がラブコメを読んでいる理由を考えれば、そのような小難しくも見えかねない要素は全く捨て置いて、単に疲れているからにほかならない。
では疲れているからラブコメを読みたくなるのだろうか。はたして、そこには論理的な接続が見いだせるだろうか。シンプルに考えれば、ラブコメを読むことで疲れが取れなければならないはずだ。しかし、ラブコメにそのような回復機能が備わっているか。恋愛は人間の感情を揺り動かす要素の一つと言った。感情が動けば、普通は疲れるものである。ではなぜラブコメを読むと回復するのだろうか。ラブではなく、コメの部分に癒されているのだろうか。それもきっとあるだろう。しかし一番の理由は実は考えるまでもない。私はただかわいい女の子を見て喜んでいるのである。
しかし、はたしてそのように断じてしまってよいのだろうか? たしかに私は、魅力的な女性キャラクタが"いなさそう"であれば、その作品を手に取ろうとも思わないかもしれない。まずもって造形的な美を、また容姿だけではなくキャラクターとしての魅力を楽しんでいる。じゃあ美少女だけが出てくる作品に触れる方がよいのではないか? 一理ある。そしてそれが一時期のアニメ作品が出した結論だったのではないか。しかし、どうもそれだけでは足りないらしい。もっとときめきとかさ…そういうのが必要なんじゃないかな。
漫画を読んでいるのである。ebookjapanがほぼ毎土日に50%還元をしていると知ってから、明確に心理的ハードルが低くなり、いとも簡単に買うようになった。片付けが高じてあらゆるものを処分した帰結として、漫画は電子でしか買わないぞと強く決意した帰結として、サーバー上の漫画を読ませていただく権利に少なくないお金をお支払いしているのである。
間を置かずに同ジャンルの作品に触れると、自分の好き嫌いが分かっていく。どのような展開・要素を忌避し、一方で何が来ると顔がにやけるのか、そういうものを考えてみよう。
姉のともだち
あらすじ:
姉とふたり暮らしの家にいりびたる、姉の親友・ひーちゃん。完璧に顔がよくてかわいくて、その上いろいろ距離が近すぎる彼女に、オタク男子高校生・旭は翻弄されっぱなし…? 距離感バグりぎみ美形ギャル×おかん系男子、両片想いじれキュンラブ!!
オタクと聞いてあなたは二次元オタクを思い浮かべるかもしれないし、私はそうである。だからいわゆるオタクにやさしい何某的な作品かと思いきや、特にそんなことはない。主人公の旭は3次元の、しかも男性K-POPグループのオタクである。現代の男子高校生としては珍しくないのかどうかはわからないが、私のような人間からすると、K-POPを好む人はどちらかというとイケてる組に属するもので、見るところ旭も客観的にはそうである。つまり、社会性も清潔感もないオタクに感情移入して楽しむ作品ではなく、どちらかといえば旭のスパダリさ加減に悶える日向子(ひーちゃん)を見て私が悶える作品である。
男性向け雑誌(という枠組みももはや古いのかもしれないが)の掲載作品では、おおむね女性キャラは、男性から見てさまざまな観点で魅力的に、少なくとも描こうとされるものだと思うが、一方でその相手たる主人公(男性)にもやはり魅力的であってほしい。昔を思い返すと、この感情は嫉妬心に近いものであった。つまり、この主人公よりも絶対に俺のほうがいいやつ(抽象的)なのに、こんなに魅力的なヒロインがこいつを好きになるのはあまりにも解せない、といった感覚である。そんなやつよりも俺を選ばないか? と紙の向こう側にいるヒロインに問いかけても答えてくれないこの世のバグに悲しみを覚え、どうか幸せになってほしいと願うほかなかった。この感情は形を変え、「幸せになってほしい」だけが今も残っている。つまり、主人公には、ヒロインを悲しませないようなヒーローであってほしいのである。言い換えれば、主人公には、応援できる存在であってほしいということだ。
この点、旭はいいやつだから心配は要らない。もう少し積極的になってもらいたいものの、彼はまだ高校生である。成人さえしていないとの事実を我々は軽く見るべきではない。一方で日向子はどうか。実はここが難しいところだ。というのも、日向子もたかだか大学生だからである。何を言っているかというと、本作に大人がいないことを忘れがちなのだ。大人びて見える姉もそうである。にも拘わらず、みなさんもうちょっとこう安定してくれませんかと言いたくなるのは、ひとえに高瀬わかの画がきれいなことの副作用ともいえる。
ラブコメで海といえば非常に緊張感のある舞台だ。なぜなら、ナンパイベントが発生するかもしれないからだ。ナンパイベントは二つの効果を生む。一つは、チャラ男に声を掛けられる程度にそのキャラクターの容姿が魅力的であることを示すこと。そしてもう一つは、ヒロインを助けることでヒーローの好感度アップが図られることである。ゆえに、私は苦手である。理由は2点ある。一つは、上記のような演出的効果を狙うためだけに作られた舞台に思えてしまうこと、そしてもう一つは、そのような演出的効果のために作品上で被害者が発生してしまうことである。本作では、星羅がナンパ被害にあっているところを月子が助け、月子がナンパを喝破して一同拍手、とのくだりがあるが、ここは少し胸がざわつくところである。もちろん、現実にある不快さを描くこと自体を否定したいわけではない。ただ、ここで星羅に嫌な思いをさせる必要はあったのか。この直後に、旭が星羅を気遣うシーンが挟まり、ここを描くための前段として必要だったのだと思われるが、そのシーンの行き着くところが現状ではまだわからないのである。星羅が旭に好意を抱くことになる前兆にも見える一方で、コミックスで追いかけられる範囲では別にそういうことでもなさそうだ。あるいは、旭の存在が、星羅にとって男性への拒否感を少しでも和らげる一因となっているとか、そういう話かもしれない。いずれにせよ、何か回収があってほしいと思う。でなければ、星羅がただ嫌な思いをしただけになるからだ。
ところで、高瀬わかの描く笑顔は非常に口がぽかんと空いていてかわいい。そこに非常に少女漫画らしさを感じるのだが、理由はわからない。
いとこのこ
あらすじ:
夏休みの間、叔父の家に過ごすことになった少年・望。コンビニもない、バスも来ない、ないない尽くしの田舎で彼にはある悩みがあった。
その原因は「従妹」の爽!! 褐色元気っ娘の彼女に毎回からかわれては年上の威厳を見せられないでいた! しかも、天然なのか意図的なのか分からない爽の誘ってくるような仕草にドキッとする始末。いつしか、望は彼女のことが目を離せず、ドンドン爽に攻略されていって……!!?
こんな「従妹」がいてくれたら理性が持たない!? からかい上手の褐色従妹ちゃんによるお兄ちゃん攻略ラブコメ!!!!!
(引用元:https://comic-walker.com/detail/KC_004640_S?episodeType=first)
主人公が成人していると文字通り成人向けの雰囲気が出てきてしまうが、中学生なので安心してよい。そうなのだ、そこを勘違いしてはいけない。本作は自然豊かな環境で育まれる思春期ボーイミーツガール物語である。私が中高生の自分に本作を読んだとしたら、望の目線で楽しんでいたかもしれないが、今となっては親目線とも兄目線とも、それこそ親戚目線とも言い難い謎の立場から物語を追うこととなる。ここで注意したいのは、壁目線でもないということだ。
初期は、爽の望に対する好意が、恋愛感情なのかそれとも血縁者に対する親愛なのかはぐらかしつつ、途中からはストレートに表現されるようになり、それに対する望の反応も特に読者を変にやきもきすることもない。ただ、そのように二人が仲良くやっているところ見て朗らかな気持ちになればいいんだな…と読み進めていくと、望が置かれている立場について不穏な空気が漂ってくる。どうも望は、都会の学校で何か問題を起こしたらしい。
子どもの生活をとおして、大人の振る舞いやあり方みたいなものに視線を向けようとしているようにも思う。子どもをどう導くか、などというといかにも高慢なので、いかに見守るかぐらいの表現にとどめるとして、子どもだけではどうしようもできないこと(そしてそういったことは未だたくさんある)に対して、大人はどう手助けし、寄り添うべきなのかを語ろうとしている気はしている。望の父がやっていること、すなわち一時的にでも都会から田舎の学校へ転校させることは、たしかに望のためではあるのだが、それが最善の方法であるかは傍から見ていると疑問に思う。少なくとも、望とはより対話をすべきであった、などということは言わずとも本人が一番よく分かっていると思うから、そのうえでなお、なぜその方法を選んだのが分かると嬉しい。
いずれにせよ、自分を蔑み思い悩む望を救ったのは爽であり、家族ではなかった。そして望は過去にけりをつけようと動き始めるのだが、そこで頼る大人も父ではなく祖父である。祖父は、もっと自分の子を信用したらよいと言う。しかし言われた子としては、それは同じことではないかと反論する。つまり、祖父自身の息子である望の父をもっと信用しろということだが、それもたしかにそうである。
百瀬アキラの初恋破綻中。
あらすじ:
ド田舎に暮らす少年・久我山はじめのもとに帰ってきた、かつての憧れの同級生・百瀬アキラ―― 実は彼女は、大好きなはじめと結ばれるため、周到な計画を立てて田舎に帰ってきていた!! …が、超不器用なアキラの計画は、いつもだいぶ空回り。 おまけに、はじめも超鈍感&先走り体質… 当然、めちゃくちゃにすれ違います。 果たして2人は、思い描いた未来へ進めるのか…? いや、進みます。大丈夫です。たぶん… 2人の様子を、どうぞあったかく見守ってください。
(引用元:https://www.sunday-webry.com/episode/2550689798900303636)
すごくきれいな絵でスラップスティックをやっている。ところどころのきれいでかわいい作画に騙されがちだが、あくまでもコメディにラブが引っ付いている作品だと思う。もっとも、じゃあラブをおろそかにしているかといえばそんなこともなく、ちゃんと面白いし女の子はかわいいしみんないいやつだし、と書くと、もはや最高の作品にしか思えなくなってくるが、ここで困るのがマルチヒロインの気配が(本当に)うっすらと漂っているところである。
本作を読んで私が思い出したのは古味さんである。眉目秀麗ながらコミュニケーションが苦手なヒロイン、それを根気よく支える主人公、その二人を取り巻く個性豊かな面々(個性豊かな面々という点では後述する『尾守つみきと奇日常。』も同様である)。コメディの質は違えど、要素としては通じるものがある。というか少年誌のラブコメというのはそういうものかもしれない。そして私は古味さんも楽しく読んでいたのだが、ある時を境に読み進めるのを止めてしまった。万場木留美子を取り巻く展開がその理由である。
留美子はいわゆる負けヒロインだ。主人公の只野くんに好意を抱き、告白し、一時は付き合うも結局別れる。何巻であるか忘れてしまったが、巻末の次巻予告に、留美子の泣き顔が載っていたのである。ここで私は続きを読めなくなってしまった。なぜならば、あまりにも当然の結果だからである。そこに至るまでに、私は、只野くんが古味さんに対して多大な好意を持っていることを知っている。只野くん自身は気づいていなかったか? 気づいていなかったのかもしれない。しかし、気づかないようにしていただけにも思える。つまり、留美子にとっては最初から負け戦なのである。留美子に悲しい思いをさせなくとも、只野くんが自分の感情に気づくきっかけを作ることはできたのではないか、と思ってしまうのだ。そうすると、留美子は物語の展開のためだけにこのような感情を背負わされることになってしまう。はたしてそれは必要だろうか。不必要に悲しい思いをさせられてはいないか。そう思ってしまうのである。もっとも、大団円を迎えた作品である。きっとうまく回収をしているのだと思う。しかし、作品の都合で負けヒロインを作ることは許されないと、負けヒロインを作るな委員会も言っている。そして私もそう思うのである。
本作に立ち返ると、アキラとはじめの間には絶対的な結びつきが確約されている中で、西海ひなこをどのように扱うつもりであるか、ここが私にとっての問題になる。ひなこは、はじめに好意を抱いてしまったようである。これは、怖い。はじめは全く嫌みのない、非常にいいやつだ。誰がはじめを好きになってもおかしくない。それはそうだ。しかし、もとよりはじめはアキラしか見ていないし、万が一アキラ以外になびかれても困るのである(私が)。となれば、ひなこはどうしたらよいのだろうか。いや、好きな気持ちを否定する必要はないし、そもそも他人にそれを否定する権利などありはしない。それもまた恋愛である。しかし、物語として考えたときに、仮にひなこに失恋の悲しさを味わわせることになるとすれば、それは本当にこの物語に必要な要素だったのか? とおそらく私は問いたくなってしまうだろう。
もっとも、このような杞憂に杞憂を重ねた私の杞憂とは裏腹に、アキラとはじめはゆっくりと、しかし着実にお互いの想いを共通のものとしていっており、これには杞憂者もニッコリでありながら、ゆえにひなこの想いはどうなるのかとそれはそれで気を揉むことになる。それでも、たぶん大丈夫だろうと思えるのは、ある意味で本作への信頼みたいなものが芽生えているからである。
尾守つみきと奇日常。
あらすじ:
多様性の時代とされる現代。 「人ならざる存在」なんて昔の話。 「幻人」たちは人間と関わり合って生活しています。 悩める人間の少年、真層友孝(しんそうゆたか)くん。 周囲に合わせてばかりで、自分の気持ちが分からなくなりました。 「幻人」たちが多く通う景希高校で出会ったのは、人狼(ウェアウルフ)の尾守つみきさん。 可愛くて、パワフルで、ちょっと抜けてて、優しくて… 彼女と過ごすと、友孝くんの心はなんだかいつもより騒がしい。 人狼(ウェアウルフ)のつみきさんと紡ぐ 「普通」じゃない日常。 ニューノーマルな青春グラフ、始まります。
(引用元:https://www.sunday-webry.com/episode/14079602755299850599)
亜人が登場する世界においては、我々が現実で目にするような人種問題はすでに解決されているのか、それとも重層化して存在することになるのだろうか。そのような想像をしても、現実には人間という一種族しかいないので、結局は思考実験になってしまうわけだが、多様になればなるほどその多様性があって当然のものだとより認識されやすくなるのか、それともわれら・やつらの感覚がより強くなってしまうのかは考え込んでしまうところである。
幻人と人間、と二分してしまってよいものか。我々は、人間以外の人間っぽい存在と出会ったことがないので、実のところ具体的に想像するのは難しいようにも思われる。亜人モノでは彼ら彼女ら(そもそも性別が二分なのかとの点もあるが)の持つ個性に焦点があてられることもよくあるが、その個性とは、人間が持つ範囲の個性をデフォルメ的にわかりやすく表現したともいえる。個性を細かく書くのがよいのかどうかはよく分からない。亜人という架空の存在をとおして、人間同士のコミュニケーションを寓話的に描くのが肝となるイメージだ。
友孝くんはいろんなことを考えすぎるほどに考えていて、結果的にそれが周りに良い影響を与えていく。周りの目を気にしすぎるのも一つの個性で、それを当人としては決してよくは思っていなかったにせよ、その個性があるからこそ他人の感情に敏感で、寄り添うこともできるのだと思えば、友孝くんは環境の変化に救われたと言えるだろうか。
友孝くんを救ったのは間違いなくつみきであって、中学で苦労したのはつみきがいなかったから、と考えるのはあまりに短絡的であるとしても、このクラスにつみきがいなかったとすれば、友孝くんの成長もなかったであろう。つまり、これはあまりに運命的な出会いなのであって、人の人生を変えるほどの出会いなのであって、読者としてそのように感じられるのがよい物語だといえるように思う。
やちるさんはほめるとのびる
あらすじ:
人間界で生きる八尺様のやちる。「八尺様はえっちな妖怪」という世間のイメージが定着してしまったことにより、身体は弱体化し、身長は元の8尺(240cm)より縮んでいまや190cmほど。間違ったイメージを払拭しようと奮闘するも、日々失敗ばかり。しかし勉強のためにホラー映画を観に行った映画館で、八尺様の大ファンの青年・誠一郎と出会う。そこでやちるは、誠一郎に褒められると自分の身長が元の大きさに戻ることに気付くのだった…‼
(引用元:
)
人以外を題材に選ぶ以上、そこには何かしらの意図があるはずだと思う。もちろん、そんなこともないとも思う。仮に本作が、おっきくてかわいい女の子が時にSっ気を出しながら可愛げのある男の子に優位を取る展開をただ書きたかっただけだとしても、全く問題がない。しかし、本作ではそうではないだろう。やちるさんが非常に魅力的なのは明らかであるとしても、そのほかにも大量のテーマが内包されているように思われる。
自身の持つ特性にどう向き合うか、他者からの悪意にどう対峙するか、大切な人を大切にするとは、性的同意はなぜ必要なのか、そしてそれらの根底にあるのは徹底的な対話であり、その重要性を懇々と説こうとしている。私はどう思ったか。あなたはどう思ったか。それはどうしてか。反対に、私は、あなたは、どうしてそうは思わなかったのか。
実は、物語上、やちるさんが八尺様である必要性は、必ずしもなさそうに見える。たしかに、そうした場合に、誠一郎とやちるさんの交流過程をどう描くかとの問題はある。しかし、やちるさんの悩みは、怪異特有のものではない。そして誠一郎はそもそも人間であるから同様である。だからこの二人はとても等身大に映る。自分が持つもので、そう選んだわけでもないのに、嫌な思いをする。だからといってそれを捨てることもできない。
やちるさんの場合、もしかすると八尺様でなければ、今よりも苦労をせずに生きることができたかもしれない。しかし、仮に八尺様でなければ、やちるさんは誠一郎とは出会わなかったであろう。それで過去が帳消しになるわけではないし、今がよいから万事OKだとするのも安易に過ぎる。しかし、やちるさんからすればどうなのだろうか。過去の苦労は今の幸せのためだったと、そういうふうに整理ができるだろうか。一方で誠一郎から見れば、彼は明確にやちるさんの存在によって救われている。彼女に出会わなかった場合を考えてみればよい。誠一郎は、やちるさんの存在なしに、復学して自分の人生を取り戻そうという決意を持てただろうか。持てたかもしれない。誠一郎はできたやつである。休養を経て、自分だけで自分を見つめなおして、再び歩みだすことはできたかもしれない。しかし、限界はあったのではないか。早晩また潰れてしまうようなことも、あったのではないか。だから私はやちるさんの気持ちを考えずに、やちるさんがいてくれてよかったと思う。彼女は怪異として、人間一人を救ったのである。
レジスタ!
あらすじ:
花田和己。36歳。フリーの作詞家。 恋愛や結婚に幻想を抱かずに、独りで生きることを決めて東京東部海抜ゼロメートルの町に引っ越してきた。 そんな彼が、スーパーマーケットのレジカウンターで出会った女性店員に感情を動かされて……捨てかけたはずの青春が動き出す!?
(引用元:https://www.sunday-webry.com/episode/2550912964878968718)
幸せになってほしいんだよな。物語に求める要素は何かと聞かれたら、それに尽きると思う。みんな幸せになってほしい。だから不幸せになる物語を、創作だからといって楽しく読むことはできない(楽しく読めないからといって魅力的ではないとは言っていない)。ただ、これは作品のジャンルにもよる。ホラーやサスペンスであればあまりに気にならないし、ミステリも同様。最悪人が死ぬかもしれないと、最初から身構えていれば大丈夫だ。しかし、ラブコメに関してはそうではない。
もっとも、本作はラブコメではないし、それでいてハッピーエンドが見えづらくもある。もとい、何がハッピーといえるのかから考える必要がある。主人公の花田は、やはり考えすぎるタイプの人間である。いろいろなことに気づいてしまうし、気づいてしまうからこそ気を回そうとしてしまうし、しかしそれが相手にとってはお節介なんじゃないかと自己嫌悪に至ってしまうような、一言でいえば面倒くさい人間だ。職業は作詞家で、気質的に向いているといわれればそうかもしれないが、そうであるからの苦労があろうことは説明されるまでもない。
そんな人間が久方ぶりに恋をしたのがスーパーのレジ打ちをしている志乃崎純だった、ただし女子高生である。花田は36歳。『恋は雨上がりのように』を思い出すまでもなく、この物語のゴールは、二人がくっつくことではないのだろう。またおっさんと若い女の子の恋愛かよと切り捨てる人も少なくないだろうが、そうやって切り捨ててしまうのはもったいない。
そもそも花田は純が学生であるとは気づいておらず、また学生に手を出すような大人はやばいとの感覚も持っており、その意味でまともであるから、純の素性を知ったときに、まず自分の恋愛感情とどう向き合うのかは気になるところである。まずもって自分の恋愛感情を認めるのにウゴウゴしていたような人間なので、おそらくそのときもウゴウゴすることになるだろう。
そして、そのように素性を知る時は来るのだろうか、というのも一つのポイントであろう。二人の関係性は客と店員。ただそれだけである。普通にしていれば、それ以上にお互いを知る機会には恵まれそうにない。そのような機会を設けようとすること自体、花田自身が最も嫌がることの一つであろうから、偶然が偶然を呼ばない限り、もとよりこの恋が発展する可能性はないのである。
ではそこに運命の導きがあるかどうか。純の同級生である千代子は、匿名での音楽活動を行っており、メジャーデビューにあたって花田と仕事上の関わりを持つことになる。ここで、今後に花田と純の間に接点が生まれうる可能性を見出すことができる。
しかし、仮に接点が生まれたとして、いったい花田はどうするだろうか。上述のことからすれば、自分の気持ちを捨てるだろう気がしてならない。純は高校卒業とともに就職するつもりでいるが、もちろんそうではない選択もできる。そして、その先には今の花田とは比べ物にならないほどの可能性にあふれているのだ。年齢差はもとより、きっと花田は、自分がその可能性をつぶしてしまいかねないと考えるのではないか。もしも、今後に純が花田への好意を強めていくとしても、そうなればなるほどに、花田は純から離れていきそうな気がするのである(もちろん、純として恋愛感情に発展しない可能性もある)。また、千代子も花田に特別な感情を抱きはしないか。こうなると話はややこしい。どちらにしても、花田のスタンスは変わらないであろう。千代子も純も将来有望な若者だからだ。またあえて付言すれば、純として、花田との恋愛関係を発展させることが幸せにつながるとは、全く言い切れない。どう考えても同級生と付き合う方がよいだろう。
では、本作において花田はどうすれば幸せになれるのだろう。考えなくてもよいことまで考えて、背負わなくてよいことまで背負ってしまいそうなこの男は、どこに向かえばよいのだろうか。
これは純も千代子も同様である。純は「こうなりたい」という像を持っている。しかし、どうすればそうなれるのかについては、多少の手がかりは掴んだにせよ、まだ不明瞭である。そしていずれにせよ、高校生の時点でその理想に飛びついていくことがよいのか。また千代子はより難しい。表現者としての想いは、純なくしても生まれ出るだろうか。
個人的にいえば、私は花田に、彼女たちを多少なりとも導く存在であってほしいと思う。それはどちらかというと、恋愛対象としてではなく、純粋な大人と子どもの関係として、大人は子を守り導くものだという固定観念に従って。そうしたことで花田が幸せになれるのかはまた別の話だ。だから、何をしても、花田は幸せになれるのかとの命題は残る。そしてその命題にどのような回答を示すのか、私は物語の行く末を見届けたいと思ったのである。