死に物狂い

他人から影響を受けやすい人間のフィクション日記

Ahoy!! その瞬間、マリン船長はそこにいた:または、宝鐘マリン1stライブ「Ahoy!! キミたちみんなパイレーツ♡」(1日目)の感想

 VTuberとは儚い存在である。人間以上に、いつ何時、表舞台から姿を消すか分からない。だから、見に行ける時に、チャンスがあるならば見に行っておくべきなのである。

 ということで宝鐘マリン1stライブ「Ahoy!! キミたちみんなパイレーツ♡」に行ってきた。本ライブは2024年12月7日と8日の2days開催であったところ、参加したのは1日目の方である。各日で公演上のテーマが異なる旨があらかじめ告知されており、1日目は「キミパイ歌謡祭」と称され、昭和歌謡にスポットが当てられるものと予想された。チケットが当たるとは思っていなかったが、意外と縁があったようだ。会場はKアリーナ横浜であるところ、本会場については、いつぞやのニュースで、とにかく退場に時間がかかるという情報だけを目にしたことがあり、帰りの新幹線が間に合うかの不安はあったが、そんなことを言っている場合ではない。またとないチャンス逃すまいと、この日私は横浜に赴いたのだった。

 VTuberのライブについて、配信での鑑賞は複数回あれど、現地参加は今回が初めてのことであった。メタな話をすると、配信では3Dモデルによる映像や、3Dモデルと現実の映像をリアルタイムで合成したいわゆるAR映像で構成されていることが多い。私は、現実と仮想空間が相まみえるという点でAR映像が大好きなのだが、それらを楽しみつつも長らく思っていたのは、現地客席から演者はどのように見えているのかということであった。単純に考えれば、ステージ上に大型のディスプレイが設置されていて、それを視認するのだろう。いたって客観的な結論である。しかし、現地において、あのライブ特有の熱気に包まれた中で、そこに音楽と映像が合わさった時にはどうなるのだろうか。とにかく、それを一度確かめてみたかったのだった。

 

 思えば意外と横浜(駅)には来たことがない。電車を降りると、早速宝鐘マリングッズに身を包んだ人々が目に入ってきた。一味である。人の波を参考に歩を進めていくと、川向うにKアリーナの姿が見えてくる。さらに進んでいくと、気づいた時には眼の前に巨大なアンパンマンが仁王立ちしていた。アンパンマンミュージアムである。これを左手に曲がれば、会場への広々とした一本道が広がっている。そのつきあたりからはヒルトンが高々とこちらを見下ろしており、客室から漏れる明かりがあわさって、何とも幻想的な風景であった。建物に近づいていくと、まばらに見えていた人の姿が実は密な集団であったと分かってくる。階段を登れば、そこはもう人の海だ。大型の壁面ディスプレイに映されたライブのキービジュアルを撮影する人々に、警備員が止まらないでと声をかける。会場の外からすでに熱気は高まっているようであった。

 そのまま入場し、独特なKアリーナの構造に迷いつつ、魔剤魔剤と場内に響き渡るマリン楽曲に耳を傾けながら自席を探す。上手側2階から見る景色に、はたして中途半端なファンである自分がここにいてよいのかと疑問に思うところもなくはなかったが、開き直ってそう緊張することもなく、その幕開けを落ち着いて待つことができたのだった。そして宝鐘マリン(大神ミオ)と宝鐘マリン(白上フブキ)による影ナレを経て、夢のような時間が訪れたのであった。

 

 今思えば勝手な思い違いでしかなかったのだが、本公演においてはオリ曲を抑えて(あるいは一曲も演じず)歌謡曲だけが歌われるものと思っていた。そうであるがゆえに、1曲目の『Ahoy!! 我ら宝鐘海賊団☆』が始まった時、私は大層驚いたのだった。オリ曲じゃないか!? さらに生バンドである(全曲がそうだったかはわからない)。何も知らずに来てしまった。この時点で、私のテンションは早くも一旦最高潮を迎えていた。そして、何と言ってもマリン船長である。彼女が文字通りステージ上にいた。ステージ上で歌い、踊っているのである。

 2階席という、距離のある座席であったのが結果的に功を奏したのかもしれない。なんだかんだ言っても、現地で見れば、巨大なディスプレイの存在を否が応でも認識してしまうのだろうと思っていたのである。しかし、その予想は瞬時に覆された。今、Kアリーナのステージ上に、宝鐘マリンは確かに存在している。

 正直に言って技術的なことは何も分からないが、素人なりに理由を検討してみれば、一つは上述のとおり、私の席がステージから離れていたからだろう。かえって無機物の存在を意識する必要がなかった。そしてもう一つは、マリン船長自身の動きにある。端的に言えば、質量を感じるのだ。機械的ではない、人間の動き、生命の動きである。興を削ぐことを厭わないのであれば、配信と比した画質やFPSの向上といった要素にも言及ができるのかもしれない。しかし、それ以上に、目の前で踊る姿に「今ここにいる」と確信させる何かがあった。目の前で歌う彼女の姿は、より鮮明で、より生々しく、活き活きと感じられた。それは現地ならではの存在感であり、あるいは顕現とも言えるだろう。そのような空間に、私は早々に感動を覚えざるをえなかった。

 ところで、ステージ上にはメインディスプレイのほか、上手・下手の両方に一つずつ、サブディスプレイが掲げられていた。これらではマリン船長をアップで映した映像等が流れており、おそらくは配信で見られる映像と同じものであったのだろう。その役割は、人間が行うライブと同じで、ステージ上の演者の姿をアップで映したものとの建付けと思われる。私のようなステージから離れた位置の観客は、これらを見て演者の表情や動きを確認することができる。

 しかし、当該映像は主だってマリン船長自身と、3Dの舞台美術で構成されている。言い換えれば、仮想空間上の映像である。したがって、それだけを見ても現実とのリンクは感じられない。ここで、片目をステージ上に、もう片目でサブディスプレイに向けるような意識で見る(実際は交互に併せ見る格好である)とどうだろうか。不思議と、サブディスプレイの映像が今ここのステージ上を映したものだと脳が認識するのである。これは大変おもしろい体験だった。

 このように視覚的な体験も素晴らしかったが、音楽体験も同様である。大盛りあがりの『美少女無罪♡パイレーツ』を終えて、キミパイ歌謡祭が始まった。オープニングを飾る『センチメンタル・ジャーニー』を聞いてもしやと思ったのだが、続く天音かなたとのデュエットで歌われた『UFO』をもって、ある確信を得たのであった。生バンドで歌われる歌謡曲は、あまりにも、あまりにも迫力がある。冒頭に二人が「UFO」と言った後のイントロ部分において、ドラムの重低音が会場に響き渡り、空気を伝播した波が私の体にぶつかってきた。その音は、さながら未確認生命物体が大きな足音を立てながらゆっくりとこちらに近づいてくるかのようである。迫りくる緊張感に負けて、つい笑ってしまった。

 その後も、一定の年齢以上であれば聞いたことがあろう楽曲が続き、一曲一曲の出来栄えに心が震わされる。当然ながら歌っているのはホロメンたちだ。彼女たちの魅力的な歌声と、一時代を築いたメロディーがあわさり、一種の趣を構成する。本当かどうかは知らないが、歌謡曲には、ロックや他のジャンルが主流でなかった時代の、表現者たちの熱く重い(半ば鬱屈した)想いが乗っかっていると聞いたことがある。プログラムを通して、その片鱗を強く感じるものであった。そうして歌謡曲の雰囲気に浸っていたところで、驚きはまだ続く。サプライズゲストとして石井竜也が登場したのである。カールスモーキーである。図らずも本物の浪漫飛行となれば、もはや嬉しい悲鳴が止まらない。

 そして『私がオバさんになっても』*1を終えると、ライブはオリ曲パートへと戻ってきた。それらの楽曲を全身で浴びて感じたのは、構成要素として「VTuberとしての生死」、あるいは「宝鐘マリンが見つからなかった可能性」といった事項が見え隠れすることだ。これは明らかに当を得ない、半ば我田引水な深読みに過ぎないが、また折に触れて考えてみたい。なお、パイパイ仮面が何者なのかはやはりよく分からなかった。

 

 振り返ってみても非常に楽しい時間だった。宝鐘マリンという存在を現実のものと感じられた点はもとより、今となっては貴重であろう「歌謡曲を生バンドで聞く」との経験も得られた。このような場を作り上げたマリン船長に感謝と畏敬の意を示すとともに、その場に居合わせられた幸運をありがたく思う。心配していた退場時間も、蓋を開けてみればスムーズに待機列が進み、特にギリギリというわけでもなく帰途につくことができたのだった。帰りの新幹線に揺られ、余韻に浸りながら、私は改めて夢のような時間を思い返していた。

 

*1:生で聞くとより『happy bite』の元ネタだと実感する。余談ながらついでに言えば、この日歌われた『スキスキDieスキ超Ayeシテル』は、同じくこの日歌われた『め組のひと』に限られず、『もうそう♡えくすぷれす』っぽさもあるのではと思ったが、つまるところ元ネタが同じというだけかもしれない

なぜか印象に残っているBビーダマン爆外伝の第15話と第18話を見てみる回

 誰しも脈絡もなく唐突でも記憶の底から呼び起こせるものがあるだろう。私の場合、90年代のアニメ作品の一つ、B(ボンバーマン)ビーダマン爆外伝のとある回がそうである。具体的には、第15話の「嵐の夜のミステリー」、そして第18話の「発見!迷宮の秘宝!?」である。なぜだかこれらの回だけが強く印象に残っており、「Bビーダマン爆外伝」と聞くとフラッシュバックするのだ。なお、さも話数とタイトルまでしっかりと覚えていたような書き出しだが、Wikipediaを見て調べた。

 

 何の説明もなく始めてしまったが、そもそもBビーダマン爆外伝とはどのような作品なのか。一定の世代の方ならタイトルからお察しのとおり、「『ボンバーマンシリーズ』(ハドソン)のキャラクターをモデルにした玩具『ビーダマン』(タカラ)の初のテレビアニメ化作品」(Wikipedia)であり、しろボン、あおボン、あかボン、きいろボンを主人公グループとして、名前のとおり博士ポジションであるグレイボン博士、敵か味方か分からないくろボンなどの多種多様な登場人物が織りなす、戦隊モノのような作品である。位置づけとしては玩具販促のためのメディアミックス作品で、しろボンたちが乗るビーダアーマー(モビルスーツ的なやつ)等の商品展開がされていた。私も親に買ってもらった記憶がある。なお、友人に借りたゲームボーイソフトはシステムがよく分からなかった。1998年当時、日曜の朝7時から放送されており、基本的にはビデオに録画して後から見ていたが、最終回だけ予約を忘れ、結局今に至るまで見たことがない。別冊コロコロコミックで漫画連載もされていた。

 何かしらの手段をもってオープニングテーマ「きっと明日は晴れるから」を聞いていただくと分かるとおり、基本的には明るく楽しい雰囲気だが、ちょっと感動するような話もあった気がする。今思うと、アニメ版の妖怪ウォッチが同じ雰囲気を持っているかもしれない。敷衍すると、視聴者である子どもの親世代が見たらわかるようなパロディがあるかもしれない点も含めて、そう言えるかもしれない(なお、そのようなパロディ表現が散りばめられていたのかどうかはよく分からない)。

 本当かどうかは知らないが、いつかに目にした話によれば、本作は「ボンバーマン」と「ビーダマン」という、ホルダーの違う2つのIPで構成されているため、版権処理がややこしく、その結果として、長らくソフト化も配信もされていなかったとのこと。確かに、数年前に、久しぶりに見ようかなと思って各配信サイトを巡ったのだが、どこにも取り扱いがなかった。近時にあらためて整理がなされたのか、今般確認すると、dアニメストア等で視聴することできるようになっていた。ということで、何がそんなに印象的だったのか、せっかくだから見直してみることにした。

 

 まずは第15話である。グレイボン博士の声が記憶よりも数倍かっこよく、全然おじいちゃんじゃない。キッチンの高さに合わせるため、あかボンが踏み台に乗ってケーキを作っている(細かいね)。みんな足音がモキュモキュしていてかわいい。

 第15話は端的に言うとミステリ回である。部屋の中でたんこぶを作って倒れていたグレイボン博士。彼は一体誰に殴られたのか。探偵役を務めるあおボンのセリフ回しが、いかにもミステリである。レッドヘリングなギャグの応酬を挟みつつ、とにかく会話のテンポがよく、そしてその内容が楽しい。きいろボンが「人間離れした」との表現を使っていたり(人間とは?)、もとい、みんなして使う語彙が何だか難しいのである。

「どういう了見や!」「民間人は黙ってなさい」「私は頭脳労働担当です」。きいろボンが関西弁で喋るので余計にややこしいところが面白い。当時の私も、音だけ認識して意味が取れなかった気がする。

 唐突に、しろボンが十手と「POLICE」と書かれた提灯を持ち、さながら岡っ引きのような姿を見せるが、自然な流れで笑ってしまう。そうこうしているうちに落雷により停電が発生し、第2の事件発生を告げるきいろボンの悲鳴をもってAパートが終了。鮮やかである。

 Bパートになっても勢いは全く衰えない。ショートコントが絶え間なく続き、起伏を帯びた展開が視聴者を飽きさせない。そして、探偵あおボンが、集合した関係者の前で謎解きを始め、事件の真相が明らかになる。最後に残った謎がそのままオチとなり、美しい締めである。

 改めて見ると、一話をとおしてボケ倒しである。要はシチュエーション・コメディなのだ。登場人物全員がボケとツッコミを担い、その役割が次々に入れ替わる。しかし、脈絡なく小ボケやギャグを放つのではなく、その一話全体を貫くテーマはあって、最後にはきっちりと収束する。見終わって、なぜこの話を覚えていたのかを思い出した。それは当時に何度も見返したからであり、そうしたのはシンプルに面白かったからである。

 

 この勢いで第18話も見てみよう。数千億B円(謎単位)の価値があると言われる「ゴールデンメアリ像」を探して、バイオハザードもびっくりな割と殺意のある仕掛けだらけの古い洋館を探索する話である。トレジャーハント回だ。冒頭から当然のようにタクシー代を払わない3人もひどいが、あてつけに運転手を殴り飛ばすきいろボンもひどい。

 舞台設定的に、遭遇する仕掛けをもっと増やすこともできただろうが、限られた尺の中で必要十分な描写を選んでいるように思えた。どこか変な、おかしみのある仕掛けであり、何と言ってもやたらと規模がでかい。登場したもの以外にも、同じような特徴を持つ仕掛けが多く存在しているのだろう。見ていてそういう想像が働くのである。

 第15話と同じく、会話も楽しい。「まるでエッシャー本の騙し絵みたいです」と言うあおボンは流石の博学さだが、ビーダマン界にもエッシャーがいるのか? 宝物かと思って被された布をめくると、現れたのは信楽焼のタヌキで、しろボンが「なんでこんな物があるんだ」と言うが、本当にそのとおりである。きいろボンには自身の激寒ギャグによって市街地が壊滅した悲しい過去があり、なぜか世間ではシェーが流行っている。

 本話で鮮明に覚えていることが二点ある。と言いつつ記憶違いかもしれない一点目は、本当にどうでもいい点なのだが、あかボンの動作と、画面右上の時刻表示が一致していたことである。先述したとおり、本作品は当時早朝に放送されており、画面右上には、今でもおなじみの時刻表示がなされていた。そして、本話中(dアニメ版であれば8分50秒ごろ)において、あかボンが背後を通過する何かの気配に驚くシーンがあるのだが、ここであかボンの左上に気付きの背景効果(こういうやつ)が表示されるタイミングと、時刻の分が刻まれるタイミング(例えば07:10が07:11に変わるタイミング)が同じだったのである。書いてみると、本当にどうでもいい話だが、そういうこともあるんだ! と幼少期の私は驚いたのだろう。

 二点目は、あかボンとあおボンが、変わり果てた姿になった屋敷の主ドワスレボン(CV.肝付兼太)に出会った時のやり取りである。dアニメ版だと14分頃から始まるこのやり取りを、聞き取りママだが引用してみよう。

(ひげもじゃなドワスレボンの姿に怯えるあかボンとあおボン)

あおボン「モンスターです~」

ドワスレボン「もしもし。もしもし。私はおばけじゃありません。あんまりこんなみじめな姿を見せたくなくて。私の名前は」

あかボン「太古の昔の原人ボッコ」

ドワスレボン「(唐突に原始人の風貌となって)アアエ~イエエ」

あおボン「一応ツッコミに対するボケはできるみたいです」

 この会話が本当にあまりにも好きだった。ここだけ何度巻き戻して見たことだろう。どうして直前まで怖がっていたのに急にあかボンは大喜利を始めたのか。どうしてドワスレボンは原始人の姿に早着替えして対応したのか。どうしてその光景をあおボンは冷静に分析しているのか。何も分からない。面白すぎる。今見てもやはりだいすきである。そしてここで気づく。おそ松くんでイヤミを演じた肝付兼太だったから、シェーだったのだ。

 その後、ドワスレボンのうっかりによってお屋敷破壊システム(直截的すぎる)が作動し、しろボンたちは命からがら脱出に成功。ゴールデンメアリ像を捨て、しろボンの身の安全を優先したきいろボンは、お金よりも大切なものを見つけたのだった。ありがちだが普遍のテーマである。しかし、湿っぽくは終わらない。先ほど捨てたゴールデンメアリ像は偽物で、本物は屋敷の外の散水栓ボックスの中に隠されていたのである(何で?)。散々振り回されたドワスレボンに怒り心頭のきいろボンは、しろボンに「まだ体力残っとるか」と問いかけ、しろボンは力強く「協力するぞきいろボン!」と答える。これも一つの友情の形であろう。3人で織りなす古典的ケンカ煙の中から放り出されたメアリ像が視聴者に向けてウインクし(何で?)、第18話は終わりを迎える。

 見終わって、なぜこの話を覚えていたのかを思い出した。やはり当時に何度も見返したからであり、そうしたのはやっぱりやはりシンプルに面白かったからである。

 

 以上、印象的で記憶に残っている二つの話を見返してみた。実は、これらについて面白いとか、好きだと思った要素は、今の私の嗜好と全く変わらない。というよりも、これらが原体験の一つだったのかもしれない。破綻しているように見えてすごく整然としていて、ボケ倒しているように見えて全部計算されている。真面目な顔をしながら、何か変なことを語っていて、それでおかしみが出て面白い。そういう作品や、登場人物のやり取りが好きだ。これはきっと本作の影響を受けたものだろう。今では、そうはっきりと言うことができる。

 そして、幼少期に触れた作品の存在の大きさを噛み締めながら、長い時間を経た今、最終回を見て思う。多分、日常回以外はあんまり興味なかったんだろうな。