死に物狂い

他人から影響を受けやすい人間のフィクション日記

はてな匿名ダイアリーを通して著作権を考える

【2024.04.23追記:ここから】

 本記事の公開後、下記増田の作者様から直接ご連絡を頂戴し、動画の作成および公開について快く承諾をいただけた。この場を借りて改めて御礼を申し上げるとともに、折角なのでということで再録・編集した動画を下記のとおり動画を公開する。まことにありがとうございました。インターネットにも感謝します。

 

www.youtube.com

 

【2024.04.23追記:ここまで】

 

 

 いつものようにはてなブックマークを見ていると、あるはてな匿名ダイアリーの記事に出会った。

 

anond.hatelabo.jp

 

 面白い! 落語みたいでいいですね。と感じた矢先、これは声に出して読むとより面白いのではないか、と思った。早速読み上げてみると、やっぱり面白い。面白い話は演る側にとっても面白いのである。興奮冷めやらぬ中、私にしては珍しく、今すぐに形にしなければと、腹の底から意欲が湧き出て、とりあえずPC上で録音してみた。読みやすいように、適宜関西弁にアレンジし、3,4テイク重ねてみると、これは面白い! と感じられるものができあがった。

 ようしせっかくなので動画にするかと、いらすとやから桜餅の画像をダウンロードし、録った音声と組み合わせることにした。深夜1時のことである。明日も朝から仕事であるのに、一体何をやっているのか分からないが、抑えきれない創作意欲がそこにはあった。

 

 

 うおおおおお!!! と未だに慣れない手付きで作業を行う。タイトルはどうしよう。ストレートに『桜餅』でもいいが、『道明寺』としたほうがそれっぽい。そうだそうだそうしよう。『道明寺』。なるほど響きが良いのではないか。こうして溢れんばかりの熱意によって、一つの動画が生まれたのである。

 

 

 と言いつつ、このあたりで少し冷静になってきたのか、できあがった動画を見ると、音量とかリズムとか滑舌など、もっとより良くできそうな気がしたが、こういうものは勢いも大切である。面白いと思ったものを、面白いと思えているうちに作り終えるのが大切ではないだろうか。そう自分で自分に演説をかましながら、満足気に視聴を続けていたら、次に私の頭によぎったのは、ある種当然の思考だった。この動画をYoutubeにアップしよう。面白いと思ってくれる人がきっといるだろう。何より作ったままPC上に眠らせて置くのももったいない。そうだそうだと脳内議会で野次が飛ぶ。よしじゃあこの勢いのままネットの海に放流してしまうか~とYoutubeスタジオを開いた時、頭にアラートが鳴り響いた。私はこの動画をYoutubeにアップしてもよいのだろうか? 

 ニコニコ動画に入り浸っていたあの頃であれば、何も考えずに「これ面白いから見て~」と無邪気にやっていたであろう。しかし、今は違うのだ。もうだいぶ歳を取ってしまった私の脳裏に浮かんだのは、「著作権」の3文字だった。

 

 状況を整理しよう。すなわち、私が行った・行おうとした行為は次のようにまとめられる。

 ①はてな匿名ダイアリーに投稿された桜餅に関する記事(以下、「本件増田」という)を

 ②関西弁風にアレンジして

 ③読み上げて録音し

 ④画像と組み合わせて

 ⑤『道明寺』と銘打った上で

 ⑥Youtube上に投稿する。

 このような行為を、本件増田の投稿者から許諾等を得ることなく行うのは、著作権法上許容されるのか。結論としてはダメと思われる。以下、検討する。なお、筆者は著作権法の専門家ではないので正確性は保証されない。

 

⓪当該文章は著作物であるか

 一般的に文章は、言語の著作物として保護され(法第10条1項1号)、それはインターネット上で書かれたものでも変わらない。事実の伝達にすぎない雑報及び時事の報道はその例外となるが(同条2項)、本件増田がそれに該当するとは考えにくい。

 

はてな匿名ダイアリーに投稿された内容の著作権は誰に帰属するか

 投稿内容の著作権は投稿者に帰属することが、ヘルプ上に明記されている。

anond.hatelabo.jp

 したがって、②~⑦の行為が、本件増田の投稿者に帰属する著作権法上の権利を侵害するか否かが問題となる。

 

②関西弁風にアレンジするのは許容されるか

 真っ先に思い至ったのは翻案権であるが、何が翻案にあたるかはファジーである。とりあえず条文を見てみよう。

(翻訳権、翻案権等)

第二十七条 著作者は、その著作物を翻訳し、編曲し、若しくは変形し、又は脚色し、映画化し、その他翻案する権利を専有する。

 いつ見てもよく分からない条文であるが、翻案に当たるかどうかでその先の検討に違いが生じてくる。本来は判例等を参照しながら検討する内容であるが、お恥ずかしながら手元にコンメンタールはおろか文献らしい文献がないので、ただただ考えてみよう。

 後述の③とも関連するが、単純に書かれた文章を読み上げるだけであれば口述権(第24条)の話が、そしてその音声を録音するとなると複製権(第21条)の話が出てくる。この点、複製というのがいわゆるデッドコピーを想定し、文章そのままに読み上げる行為が該当するのだとすると(第2条1項15号)、少なくとも方言で読み替える行為は複製とは言えないように思われる。

 ただ、例えばもともと東京が舞台である物語を大阪に置き換えました、となれば分かりやすく翻案であるが、ただただ共通語あるいは東京弁を関西弁になおした場合はどうか。この点、自分で演じた身からすると、方言が変わることで、語り手のキャラクタ性もが変わったものになっているように思われる。コテコテの関西のおっちゃんが喋っているのか、大阪生まれだがそろそろ東京で暮らした時間の方が長くなってきたおっちゃんが喋っているのかで、創作物が持つ物語性も変わってくるのではないか。そう考えると、やはり翻案に傾くように思われる。あるいは、シンプルに翻訳と同じように考えればよいのかもしれない(ただし、別の言語に訳しているわけではないのでその定義に当てはめられるかは疑義がある。)。

 当該行為が翻案になると捉えた場合でも、私的利用の範疇であれば著作権の行使は制限される(47条の6第1項1号)。したがって、私が家で一人楽しむ分には問題ない。しかし、Youtubeにアップロードして、そのリンクをブログ上で公開した場合、アップロードという行為はもとより、当ブログにはアドセンス広告が貼られていることも踏まえると、私的利用とはみなされないだろう(Youtubeチャンネル上に広告設定をしている場合も同様であろう)。

 

③読み上げて録音するのは許容されるか

 上記②で述べたとおり、投稿された文章をそのまま読み上げて録音する行為は、著作権法上の複製に該当する(第2条1項15号)が、私的複製と捉えられる場合には複製権の行使は制限される(第30条1項)。この点の議論は②と変わらない。

 そして、本件においては先に翻案の有無が問題となるところ、②において翻案であると解されるのであれば、反対に複製権の観点では問題とならない。

 

④画像と組み合わせるのは許容されるか

 概ね上記②で行った議論のとおりであり、結果的には、本件増田をアレンジしてさらに画像と組み合わせるということになるから、やはり翻案の性質が強くなるのではないか。

 なお、いらすとやにおいて、素材の画像を動画に用いることは、商用・非商用を問わず一つの動画あたり20点以下の利用に収まる限りで認められている。

www.irasutoya.com

 

⑤『道明寺』と銘打つのは許容されるか

 もともと本件増田のタイトルは『関東地方で桜餅を騙っている簀巻き野郎について』であり、これを変えることは、上記②のとおり翻案のほか、同一性保持権も問題になるだろう(第20条第1項)。同一性保持権は、いわゆる著作者人格権の一つであり、一応一定の権利制限規定が存在するが(同条2項)、本件においてはそれらに該当しない。

 同一性保持権は、翻案権とは別概念のため、私的利用による例外は適用されず、観念的には私が『道明寺』との名付けを行った時点で、投稿者の同一性保持権を侵害しうることとなるのではないか。

 この点、著作者がタイトルの変更も含めて翻案を許諾しているような場合には、同一性保持権の不行使にも同意しているとの推定が働くと思われるところ、同様に、私的利用により翻案権の行使が制限される場面においては、同一性保持権の行使も制限されるとの整理ができないか。結論として、財産権たる著作権と人格権たる著作者人格権を同種のものと捉えるのは適切でなく、そのような整理は難しいと考える。すなわち、各種の権利制限規定は、著作権者と利用者の利害を調整するため例外的に設けられているものであり、その効力をいたずらに著作者人格権にまで広げるべきではなく、またそのように広げられる合理的理由も見いだせない。

 

Youtube上に投稿するのは許容されるか

 上記②④⑤により、本件動画は本件増田の翻案により制作されたものと解される。すなわち、本件増田の投稿者は本件動画の原著作者となり、二次的著作物の著作権者たる私と同様の権利を行使できることとなる。

 また、Youtube上への投稿は、自動公衆送信(2条1項9号の4)または送信可能化(同9号の5)に該当する。そしてこれらの行為には著作者への許諾を要する(第23項1項)。

 したがって、私は作成した動画をアップロードする権利を有するが、それは原著作者たる本件増田の投稿者も同様である(第28条)。加えて、②に関連して言えば、そもそも最終的に公衆送信を目的としている時点で、やはり私的利用による翻案とは解されないだろう。

 

 以上より、私が本件動画をYoutubeでアップロードし公開するためには、本件増田の投稿者から翻案及び公衆送信に係る許諾ならびに同一性保持権の不行使に係る同意を取得する必要がある。

 

なぜ『The Game of Sisyphus』のプレイ映像を見ると胸が苦しくなるのか

『The Game of Sisyphus』というゲームがある。

 

store.steampowered.com

 

 もはや無名ではなく、岩おじの名で親しまれたり憎まれたりしているから、どういうゲームであるかの説明は不要に思われるが、端的に言えば、岩を転がしながら長い坂を登っていく、本当にただそれだけのゲームである。しかし、その途上は険しい。坂は一定の距離で区切られており、各区間においては様々な障害物が行く手を阻んでくる。それらをうまくかいくぐり、頂上を目指すのである。

 坂を登る途中、もしも岩から手が離れてしまうとどうなるか。当然、坂の下へと転がっていく。止めることができなければ、岩はひたすらに転がり続け、スタート地点へと戻る。このような行ったり来たりを繰り返しながら、坂の頂上を目指す。ゲームオーバーはない。あえて言えば、プレイヤーが諦めてゲームを終了した時がそうだろう。

 いわゆる苦行型のゲームであるThe Game of Sisyphusは、その通称からも分かるように、Getting Over It(通称:壺おじ)の親戚と認識される。あるいは、最近でいうとOnly Up!もだろう。これらのゲームの特徴は、難易度が高く(操作の難しさを含む)、プレイヤーの心を幾度となく折り、しかしクリアは不可能ではなく、すべてを乗り越えた時には、確かな達成感と充実感(と疲労感)が得られる、見方によっては実にゲームらしいゲームとも言えよう。

 先に言っておくと、私はこのゲームをプレイどころか購入もしていない。したがって、以下の文章は動画視聴に基づくまことに身勝手な内容だ。そのうえで、どうして私が購入すらしていないゲームについて何かを述べようとしているのかといえば、プレイ映像を見るだけで胸にざわつきを覚えるからである。そのような経験は自分にとって珍しいことなのだ。

 

 

 プレイ中、何かのきっかけによって、岩が転がり始めてしまったとき、プレイヤーには二つの選択肢が与えられる。岩を追いかけるか、追いかけないかである。

 まだ心が折れていない場合、多くの人は前者を選ぶ。岩を止めるために追いかけるのである。しかし、事はそう簡単ではない。岩の転がるスピードは、プレイヤーが走るのよりも速い。普通に追いかけても追いつくことはできないのである。

 とはいえ、追いかけるのは無駄ではない。障害物が味方をしてくれるからである。登るときは邪魔でしかないもろもろが、反対に、転がる岩の勢いを緩めてくれることがある。そうして減速した岩には、プレイヤーは追いつくことができるのだ。

 一方で、まったく障害物が機能してくれない場合もある。こればかりはその時々の運であり、本当に不運が重なると、それまで登るのにかけた労力をゼロにするかのごとく、岩はするするすると転がっていく。

 障害物の一つには、転がる岩を止めるためだけに用意された物もある。正式名称があるのかもしれないが、分からないので「ストッパー」と呼ぶ。現物を確認してもらったほうが早いが、区間ごとに、このストッパーが用意されている。置き場所は坂の両端左右に一つずつ、並行的に対になるように置かれている。俯瞰して見ると、どこかピンボールのようだが、実際のところピンボールのように、転がる岩はストッパーに触れず、中央を素通りしていくことがままある。ストッパーで止まるかどうかも運次第なのである。

 ストッパーは制作者の善意によって用意されている(悪意かもしれない)。しかし、それらが効力を発揮するのは、岩がうまいことそれらにはまった場合である。プレイヤーは、障害物に加えて、どうにかストッパーで止まってくれないかと願うが、掠ることすらなく通過していく岩の姿を見て、呆然とする。少しでもストッパーの位置を動かすことができたならと思うが、そのようなシステムはない。全ては岩の思し召しであり、岩から手を離した自分が悪いのである。

 プレイヤーは、「何かに引っかかってくれ!」という期待を持ちながら、あるいはそのように祈りながら、岩を追いかけることになる。そして、この時間が長い。すなわち、岩が転がり始めた場合、途中で追いつける保証がない中で、スタート地点まで戻るという最悪の光景を脳裏に浮かべつつ、誰か助けてくれないかと叫びながら追いかけることになる。すぐに追いつけることもある。ただ、重要なのは、自分の力だけでは、目先を転がる岩をどうしようもできない点だ。そして、それでも追いかけざるを得ない。最悪にならないことを祈りながら、最悪にならないために、自分ができる唯一の行為をせねばならない。

 ただ転がっていくならまだしも、時に岩は空を飛ぶ。それは、爆発物によってだったり、岩自身の勢いによってだったりする。そのようにして岩がコース外へと飛び出た場合、岩は、飛び出た地点から更に下方でリスポーンする。つまり、リスポーンする岩を待ち受けて受け止めるようなことはできない。これがまた苦しい。追いつけないことが確定している位置から、あらためて岩が転がりだすのである。プレイヤーは、飛び回る岩を見て、もうこれ以上は下に行かないでくれと、再び懇願しながら追いかけることになるのである。

  こつこつと積み上げたものが、いとも簡単に崩れる。賽の河原ゲーとはよく言ったものだが、積んだ石を崩す鬼と異なり、このゲームは、プレイヤーの努力をゆっくりと振り出しに戻す。いっそのこと一気にリセットしてくれたほうが楽かもしれない。もちろんそれもしんどい。しかし、もしかしたら振り出しに戻らなくてもすむかもしれないという希望を抱きながら、必死になって転がる岩を追いかけるのは、少なくとも私にとっては、瞬時にゼロになるよりも険しい感覚であるように思われた。

 また、本作がGetting Over ItやOnly Up!と異なるのは、リセットの対象が自分自身ではない点にある。岩の都合なのである。The Game of Sisyphusでは、岩を転がさずに坂を登ることもできる。これによって、次の区間がどのようなギミック・障害物で構成されているかを偵察できる。しかしそこまでである。結局は、自分だけでは何もなし得ない。岩という他者が必要なのだ。

 よくよく考えてみれば、岩が転がりだすのはプレイヤーの責任なのだろうか。そもそも坂の角度が急で、妙にいやらしい配置で障害物があって、思うように岩が動いてくれないからではないか。岩という他者の都合に翻弄され、さらには道中の外部環境によって全てが無に帰してしまう。その光景はグロテスクであり、現実世界の反映でもある。The Game of Sisyphusとは人生だと評す人がいるのは、気を抜くと積み上げたものが見る見るうちに失われてしまう点だけでなく、岩という他者、そして周りの環境に全てが左右されうる点(一定のコントロールができる場合がある点も含めて)によるものではないか。そしてそうであるからこそ、私はこのゲームのプレイ映像を見て、苦しさを覚えるのである。人生とは、究極的には常に外部環境の影響を受け、その外力に対して人は無力である。良くも悪くも運によってあらゆる物事が決まる。そのような現実をThe Game of Sisyphusはまざまざと突きつけてくるのである。

 

 

 人生は辛いものである。そんな中、私が感心したのは、VTuberである兎田ぺこらと湊あくあによる、本作の並走配信であった。

 

www.youtube.com

 

 並走とは、同じゲームを同時に開始し進行していく行為を言う。高難易度系のゲームの場合には、その進行具合で競争するのが表立った目的でありながら、視聴者的にはその競争上で発生する演者間のやり取りを楽しむものである。

 二人は岩に毒づきながら、疲弊しながら、時に煽り合い、時に励まし合って岩を転がしていく。代わり映えのしない映像が、エンタメへと昇華され、岩を通じたコミュニケーションが膨らんでいく。

 苦境に立たされていても、同じ状況に置かれた他者を認識することで、ままならない環境に対し楽しみを見出だせるようになる。有り体に言えば、苦しさは半分になり、喜びは倍加される。通常であれば聞き流してしまうような格言も、この時ばかりは事実だと実感したのだった。それもまた人生の一側面を示すものにほかならない。この世は一人で生きていくことを前提としておらず、人間は共存のうえ、人生をやっていく生き物なのである。

 

 

 

 ところで、Steamでは恒例のサマーセールが開催されている。様々なゲームを安く購入できる、またとない機会である。私も積みゲーは罪などと言いつつ、性懲りもなくカートに投げ入れている次第だ。

 

 さて、

 

 

 さて、

 

 

『神無迷路』をクリアした

『神無迷路』をクリアした。とても面白かった。以下、一定のネタバレを含む感想。

 

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 グラフィックをひと目見て分かるとおり、かまいたちの夜フォロワー作品である。と言っても、それは外観的、UI的な部分の話で、ストーリー、あるいは作品のテーマ的には異なる。本作でも人は死ぬし、犯人探し、トリックの検討など推理要素を一応は含むが、それがメインではない。かまいたちの夜っぽい雰囲気に惹かれてプレイすると、期待とは少し異なる感想を抱くだろう。どちらかと言うと、さらに他作品の名前を出してしまうが、Ever17寄りではないだろうか。そして本当にシンプルな表現をすれば、打越鋼太郎作品が好きな人は、本作をきっと楽しめる。だから、本作が、根源的にはあまりミステリミステリはしていない作品だということを、プレイする前に認識しておくほうがよいと思った。相応に肩の力は抜いた方がよい。

 そのような作品であることは、作品説明にもティザーの映像にも現れているので、全くもって騙し討ちではないのだが、それほどにかまいたちっぽい青いグラフィックの印象が強いということであろう。

 

 舞台は狭く、物語の展開は早い。一連の事件は地下の研究所で発生し、物理的な階層としては二つである。登場人物も限られるため、必然的に推理の幅は狭くなる。もとい、最初からどう考えても怪しい登場人物がいるので、当該人物が主として事件に関与しているか、裏をかいて全く関わりを持っていないか、おおむねどちらかであろうと想像できる。

 残る問題は動機であるが、ここが本作のポイントであろう。非常にスケールが大きく、ジャンルに耐性がなければ置いてけぼりを食らうかもしれない。しかし、決してそこに至るまでの過程は雑ではない。少なくとも、何か通常の世界では起き得ないことが起きている、とは分かる。それにより、プレイヤーは思考の切り替えができる。

 その上で、犯人当てで少し苦労したのだが、理由は結局誰を犯人として示すのが適切なのかの判断ができなかったからである。蓋を開ければ、登場人物のほとんどが共犯と言える。悩んだ末、ストレートに選んだら運良くあたりを引けた。考え過ぎはよくないということか。

 また、登場人物は決して少なくないのだが、実質的に主人公を含む3人で物語が回っており、その他の人物が掘り下げがなく、もったいない感じはした。実際のところ、複数のキャラにおいて、いてもいなくてもよいとの感覚を抱いてしまう。ただ、ストーリーをこれ以上に長くする必要性までは感じられず、これで丁度よい、ということであろう。

 

 最後に、結果的になのかもしれないが、登場人物をこのグラフィックで示したことが、作品全体のバランスをよくしていると感じた。仮に、本作がいわゆるアニメチックな立ち絵で展開されたとすれば、テーマや登場人物の語り口と合わさって、ちょっとプレイするのはしんどかった可能性がある。かといって実写でやられてもむしろ安っぽくなってしまうだろう。キャラクターの魅力を認識できる程度には外観的に造形がなされ、それ以上の部分はプレイヤーの想像力で補える。図らずも、かまいたちの夜の表現形式が持つ強さみたいなものを、本作を通じて認識した。