ホラーというジャンルは好きなのだが、いかんせん怖いのが困る。映像にしてもゲームにしても、作品に触れたい気持ちはあるが、もともと怖いのが好きなわけでもない。怖いからこそ見たいというわけでもない。どちらかというとミステリ的な要素を好む性質が先にあって、おおむねそれが理由である。ホラーには良質な謎解き要素が付随している場合が多い。ホラーとしての建付けを持ちさえすれば、何を表現してもよさそうな雰囲気がある。結果として、創作物から得られるさまざまな要素を多様に豊富に得られるのがホラーなのではないか。だからこそ自分に恐怖耐性がもっとあればと思わずにはいられない。怖さそれ自体を楽しめるのであれば、それこそ消費者としては怖いものなしである。
しかし現実は厳しく、ホラーは怖い。例えば夜に一人でホラー映画を見る。これは非常に怖い。この歳になってもなかなか厳しい。見ている間はまだよいのである。見たあとが問題だ。創作が現実に侵食してきている可能性を考えてしまう。小説であればギリギリ耐えられる。文字情報の方がなんとなく呪術的意味で強い影響を持ちそうだが、私の脳は素直に、映像表現の方により敏感だ。とはいえ文字であったとしても、読んだ後には鏡を直視したくない程度に怖い。シャワーなんてもってのほかである。浴室は背後を取られたくない対象が多すぎる。鏡にも出入り口にも背を向けたくない。それだけでなく、視線も向けたくない。しかし目を閉じるのも、視線を下に落とすのもリスクだ(奴らはたいてい上から来る)。そうして、浴室の隅に背を向け天井を見上げて発声しながら髪を洗う様子のおかしい人間が生じることになる。
自分自身が怪異化するリスクを負ってでも触れたくなるのがホラーの魅力だが、結局問題は最初に立ち返ってくる。怖いのである。ホラーに触れるにはこの怖さを乗り越えなくてはならない。しかし、本質的に恐怖心とは、脳が発している何かしらの警告であって、乗り越えるべきではないとも考えられる。ていうか、無理である。だって危ないんだもの。危ないから脳がアラートを出しているんだよ。したがって、私に採れる対応策は、恐怖心を低減・軽減する方向だろう。そもそも恐怖心を惹起させないようにするにはどうしたらよいか。この方向性で検討を行うべきだ。
例えば映像作品に関していえば、簡単なのは画面を小さくすることだ。ついでに音量も小さくしよう。これらはその作品が持つかもしれない霊的な効果と比例する(可能性がある)。すなわち、大画面で見ればそれだけ恐怖も大きくなる。人間には巨大さへの畏怖が先天的に備わっているからだ。しかし、これがスマホの画面であればどうだろうか。あえて言うまでもなく、恐怖は文字どおり半減する。いや、半減以上であろう。いわゆる貞子はそこから出てこれないよ理論だ。(でももしものときに電源ボタンを押して画面を消そうとしても逃げられない場合、スマホを投げ捨てられるかというとそういうわけにもいかず、躊躇してしまう結果として実はよりリスクが高じている可能性もある)。
ハード面以外の対策として効果的だと考えられるのは、他者がいる中でホラーに触れることだ。つまるところ、一人で、室内で、というのがよろしくない。その反対を行けばよいのである。その条件を満たすのがすなわち通勤電車というわけだ。電車も密室ではないかとの疑問があるが、新幹線や飛行機ほどではない。例えば在来線を舞台にして殺人事件が生じても、探偵は密室的状況にはほど遠いとの評価をするだろう。オリエント急行との対比でここはお目こぼしをしてもらいたいところだ。
朝でも夜でも、都市部につながる電車の乗客はゼロになることはない。どのような時間帯でも、座席は埋まり、つり革は占有されていく。立っている私の前にも横にも後ろにも他人がおり、車内は明るく、イヤホン越しに環境音が聞こえてくる。いたって平穏な日常世界が構成されていて、私はその中で、小さな画面越しにホラーの世界に浸ろうとする。
だがここで一抹の不安がよぎる。電車もまた、きさらぎ駅をはじめとして、怪異に巻き込まれがちな乗り物である。画面に集中しすぎて、気づいたときには周囲に誰もいなかったら? 何だか見たこともない終点に到着してしまっていたら? イヤホンの向こう側で謎の車内放送が流れていたとしたら? そしてそれらの怪異現象のトリガーが、「車内でホラー映画を見る」ことだったとしたら?
こうなると、電車でホラー映画を見ること自体が恐怖体験となる。それは自宅で見る場合の恐怖心とまた性質が違うものだ。ホラーがホラーを呼び込むリスクを考慮しなければならない。もはや電車は安全ではない可能性がある。それは自宅で見るにしても同じかもしれないが、一見安全に見える環境に危険が及ぶ方が、精神的負荷は大きい。
それでも、私は電車でホラーを見ようとする。そうはいっても怖いが勝つ。ここに及んでもまだ、電車のほうがましなのである。ともすれば、例えば、休日の公園で、家族連れの皆々様方が遊んでいる横で、ホラーを見るのがよいかもしれない。しかしそれでも同じことで、顔を上げた瞬間に、遊具に集まっていた親子の姿が完全に消えていたとしたら、広い自然公園で急にぽつんと一人残されている状況に陥ってしまったとしたら、それはあまりにも怖い。
結局、ホラーを見るのに適した場所など存在しないのかもしれない。そう考えると、もはや安全な場所は存在しない。家も、電車も、公園も、すべてが怪異の侵入口になりうる。それだけこのジャンルが発展しているともいえるが、非常に困る。私は恐怖から逃れようとしているだけなのに、あらゆる日常空間が怪異化の危険をはらんでいる。言い換えれば、ホラーを見る前から、私の脳が勝手に日常にホラーを生成しているのである。
それもまたホラーである。恐怖はウイルスのように伝染し、人の意識下に潜在する。どこかで聞いたような話だ。こうだったら怖いよねと、そのような想像があらゆる対象に及んでいく。ホラーの本当の怖さは、作品そのものではなく、作品を見たあとにこちらの脳が日常をホラーとして再編集し始めるところにある。そしてそれほどに人の認識を作り変えてしまう力を持つところに、私はこのジャンルの魅力を感じているのだろう。