本格的に冬到来、年末進行で忙しくなる今日このごろ。こんなときはWUGちゃんのことを考えるのがぴったりですね。というわけで本記事は『Wake Up, Girls! Advent Calendar 2021』15日目の記事です。昨年に引き続き参加させていただきます。
(企画御礼 to ておりあ(@_theoria)さん←いつもありがとうございます)
なお、昨日はキッチン!さんがご担当でした。明日は吾解(あかい)さんのご担当です。
○14日の記事
○16日の記事
やっていきましょう。
0.前段
複数のメンバーがボーカルが担当する音楽グループでは、ほぼ必然的に歌割りが発生する。アイドルに限った話でもない。一曲のうち、誰がどの部分を歌うか。レコーディング時のディレクションに基づくと聞いたことがあるが、全数そうなのかは知らない。つまりは、「音楽的にどう聞こえるか」が優先されるということなのだろうか。
しかし、そういった音楽的観点だけで、歌割りを決められるのだろうか、とも思う。例えば「この歌詞であればこの人が歌うべき」といった視点もあるのではないか。いずれにしても、歌割りは楽曲自体の魅力を左右し、楽曲そのものが持つメッセージを修飾する。
Wake Up, Girls!(以下、「WUG」という。)は、7人からなる女性声優ユニットだった。各々の声には特徴があった。声の高さも性質も異なる。声質が似ている組み合わせはあったが、同じ声は二つとなかった。
7人いても、1曲の長さが変わるわけではない。現代日本の音楽シーンにおいて、多くの曲はせいぜい5分、長くても6分程度で構成されている。それはWUGでも同じだった。人数が増えるだけ、各々が歌う時間は少なくなる。誰がどの部分を歌うのか、一体どのようにして決めるのだろう。どのように決まったのだろう。そこに法則はあるのか、ないのか。そういうことが気になっていた。
中でも特に関心を持っていたのは、ユニゾン、あるいはハモりの箇所についてだった。言い換えれば、「一人で歌っていないところ」である。誰と誰がどの程度(頻度)一緒に歌っているのだろうか。あるいは、歌っていないのだろうか。そしてその組み合わせに意味はあるのだろうか。
発端は、WUGのラストライブ『想い出のパレード』での、Polarisに関するエピソードだ。Polarisのサビには、1・2コーラス目いずれにも、田中美海・山下七海(以下、人名については敬称略。)の二人によるハモりパートが存在する。同ライブのPolarisでは、2コーラス目のサビに入るとともに、7人が会場センターステージへ伸びる花道に歩みを進めていく。その先頭を両氏が横並びで歩いていくのだが、当該パートが始まると同時に、二人はがっちりと手を繋ぐのである。そして、二人の手は、花道を歩き終えるまで離れなかった。
このときのことを、山下は次のように回顧している。
なぜ、そうなったのだろう。ラストライブだったから? 花道から見える光景が印象的だったから? 必ずしも明確な理由を探す必要はない。しかし、原因がなければ結果もないものだ。
だから私は調べることにした。特に何も仮説はなかった。あるのは単なる好奇心であった。調べれば、何かが分かるかもしれない。何も分からないかもしれない。でも、とりあえずやってみよう。本記事は、そのような好奇心に基づき、Wake Up, Girls!名義で発表されている楽曲の歌割りを調べ、そこにあるかもしれない何かしらの発見を探し求めたものである。
と、大見得を切ったが、実際のところは、主として次の事項を調べようとした。
・ユニゾンまたはハモりの組み合わせに偏りはあるのか。誰と誰がよく一緒に歌っていたのか、いなかったのかについて
・上記から見る各楽曲の性質や特徴について
1.調査にあたっての前提等
調査は以下の条件に基づいて実施した。
①調査対象は「7人で歌われることを前提としている曲」とし、具体的には以下の楽曲とした。
・タチアガレ!
・7 Girls War
・言の葉 青葉
・16歳のアガペー
・極上スマイル (Wake Up, Girls! ver.)
・ワグ・ズーズー
・素顔でKISS ME
・地下鉄ラビリンス
・少女交響曲 (Album ver.)
・SHIFT
・スキノスキル
・Beyond the Bottom (Album ver.)
・Polaris
・雫の冠
・7 Senses
・TUNAGO
・ゆき模様 恋のもよう
・One In A Billion -Wake Up, Girls! ver.-
・恋?で愛?で暴君です!
・僕らのフロンティア
・ハートライン
・海そしてシャッター通り
・土曜日のフライト
・言葉の結晶
・さようならのパレード
②以下の楽曲は調査対象外とした。(⑨も参照のこと)
・タイトロープ ラナウェイ
・outlander rhapsody
・プラチナ・サンライズ
・セブンティーン・クライシス
・Non stop diamond hope
・HIGAWARI PRINCESS
・その他ソロ曲
・I-1club曲
③調査にあたっては、多大な先行研究の集積であるブログ『極スマクソメガネやまねこ雑記』を参考にさせていただいた。
④加えて、過去の歌割りカラオケオフ実施時に作成した資料も流用した。
⑤以上の文献をもとに、調査対象楽曲において、ユニゾンおよびハモりを担当するメンバー組合せを調べ、その文字数および登場楽曲数をカウントした。例えば、タチアガレ!の「夢を見るなんて きっとできないと」は、吉岡・山下担当分の15文字としてカウントし、登場楽曲数は1プラスされる。このようにして各フレーズを調べ、下記のような表を作成した。
なお、カウントは目視またはテキストエディタ上の文字カウント機能を用いて実施した。したがって、各カウント数の正確性は保証されないため、(元も子もないが)話半分で本記事を楽しんでいただければ幸いである。
⑥オケに載っているハモりはカウント対象から外している*1。換言すれば、ライブ映像等から読み取れる範囲において、実際に発声していると思われるパートのみをカウント対象とした。
⑦サビ等の7人全員による歌唱パートはカウント対象から除いている。
⑧曲によっては3人~6人のユニゾン等があるが、カウント対象から除いている*2。
⑨王様のカデンツァはライブ映像がなく検証できない。誰か耳のいい人なんとかして……(他力本願)。 それかHOMEツアー長野公演映像化して……(届かぬ願い)
⑩以降の記載には「おいおいそんなことは○○で語られてただろうが」といった事項が含まれている可能性が多分にあるが、基本的に何も知らないベースで記述している。手前勝手ではあるが、生暖かい目(死語)でご覧いただきたい(ご指摘等はお気軽にどうぞ)。
2.調査結果
(1)文字数基準で見るよくある組合せランキング
○第3位 吉岡・山下ペア(79文字)
ことパン組だ。今となってはしっくり来るが、WUGで考えたときには少し意外な気もする。もとい、4位の田中・山下ペアとは1文字差であり、結果的に3位だったということかもしれない。雫の冠が文字数の多くを占めており、そのほかタチアガレ!、ワグ・ズーズー、TUNAGOで見られる組み合わせ。
付言すると、雫の冠の歌割りは興味深い。固定ペアを作りつつ、吉岡・永野・青山が1・2コーラスで入れ替わる。永野の相手として、他2人が入れ替わるのだ。
この組み合わせは、言うまでもなくアニメ一期7話を彷彿とさせる。一方で、永野・青山のペアが登場するのは雫の冠だけでもある。どうして雫の冠だったのか。そのテーマで一本の記事になりそうだが、今書くには余白が足りない。
WUGにおいて、山下の声質が独特であることは言うまでもない。単独で存在感を示せる声質を他者とどう組み合わせるのが適切か。比較的癖のない吉岡が最適解なのではないか。というのは私見であり妄想だが、バッティングしない組み合わせではあると思われる。
○第2位 吉岡・永野ペア(91文字)
納得の二人である。後述もするが、個人的に、特にアニメ版はこの二人あってのWUGと感じる部分もあり、それが楽曲にも反映されていると言えるのではと思料。タチアガレ、16歳のアガペー、ワグ・ズーズー、地下鉄ラビリンス、雫の冠、そして言葉の結晶で見られる組み合わせ。
アニメの文脈意外で、この2人の組み合わせを検討する材料はあるか。単純に吉岡万能説なのかもしれない。
○第1位 吉岡・青山ペア(92文字)
吉岡万能説じゃないか!(大田邦良)
文字数的には2位と僅差というか誤差の可能性もあるので、実質吉岡・吉岡・吉岡である。一方で、5位以降11位まで吉岡は登場しないため、この3ペアは意図的に重用されたと言える可能性はある。あるのか? あるだろう。あるかもしれない。
(2)文字数基準で見るあまりない組合せランキング
○第3位 青山・山下ペア(21文字)
アガペーとSHIFTでのみ見られる組み合わせ。無理やりに二分すれば、軽い声と重い声ということになるか。その高低差から、声としてはすれ違うこともあるのかもしれない。
○第2位 永野・山下ペア(10文字)
さようならのパレードにて最初で最後の登場。へえ~と思うが、たしかにこの2人の歌声の重なりについて、具体的なイメージはわかない気もする。
ただ、実は登場回数だけで言うと、永野・青山ペアも雫の冠の1回のみであるから、歌詞の文字数に左右された結果ではある。そう考えると、文字数基準で見るのはあまり意味がないのでは?(自問自答)
○第1位 吉岡・奥野ペア(0文字)
実際はoutlander rhapsodyで12文字存在するが、今回の調査対象曲内ではこのような結果だった。「そうなのか」とも思う。あるいは、私では聞き取れない部分で共演しているかもしれない。
他の組み合わせてと比べて、優先順位が低い、などと言えるのか。よく登場する組み合わせとそうでない組み合わせ。二つの間にある明確な違いは何か。わからない。俺は雰囲気で音楽を聞いている。
(3)登場回数で見るよくある組み合わせランキング
調査対象である25曲のうち、各ペアが何曲に登場するのかを集計したもの。傾向をとろうとするならば、文字数よりもこちらの値で見るほうが適切ではと考え実施した。
結論から言うと、7人から2人を選ぶ組み合わせは21通りしかないこともあり、あまり差は生じない。
○第3位 4回
【吉岡・青山、吉岡・山下、田中・山下、田中・高木、青山・奥野、田中・奥野、山下・高木】
そもそも、バランスよく組み合わせが検討されていた、ということかもしれない。21の選択肢のなかで偏りがでないように。極端に多い・少ないが存在しないことがその証左だ。
○第2位 5回
【永野・田中、永野・奥野、山下・奥野、青山・高木】
その中でも、一定の偏向はあるのか、ないのか。私はこの数字から明確な法則を見て取ることはできない。おそらく全ては誤差の範囲内に収まるのではないだろうか。
そもそもこのような数字をとることに何の意味があろうか。楽曲数とメンバー人数からして、数学的に有意差は出ないと考えるのが妥当だ。他にもやらなければならないことがあるというのに、仕事で疲れた頭と目と身体を使って、ひたすらに歌詞とにらめっこをしている。歳末に私は一体何をやっているのか。
○第1位 6回
【吉岡・永野】
やっぱりこの2人なんだなあ……(恍惚)。歳末だからこそ、こういうことをやるのだ。
吉岡といえば永野なのか、それとも青山なのか。これは数あるWUG難問の一つだが、歌割りの観点からは一つ面白い傾向が見て取れる。
吉岡・青山ペアが登場するのは、スキノスキル、One In A Billion、恋?で愛?で暴君です!、僕らのフロンティアと、いわゆるタイアップ曲である。アニメWUGが関わらない楽曲群とも言える。これは、島田真夢・七瀬佳乃ではなく、あくまでも吉岡茉祐・青山吉能の関係性を捉えたものと言えるか。なお、ご存じのとおり、二人のソロがぶつかり合う形は初期曲から登場するので、あくまでもユニゾン等では、ということである。
一方で、吉岡・永野ペアが登場するのは、タチアガレ!、16歳のアガペー、ワグ・ズーズー、地下鉄ラビリンス、雫の冠そして言葉の結晶と、初期からラストまで万遍ない。ただ、青山とは逆に、タイアップ曲では現れない。これは、島田・林田の関係性を捉えたものと言えるか。
(4)サビ以外でユニゾンを採用していない楽曲
ア.7 Girls War・7 Senses
アニメOP+自己紹介楽曲であるがゆえに、一人ひとりに焦点を当てようとした結果と言えるか。Aメロではワグナーからコールが飛び、Bメロも短いので入れる余裕がなさそう。おそらく、サビでの7人歌唱にむけて、先に7人それぞれの見せ場を作る(単独パートを設ける)構成にしているのだろう。
そうすると、楽曲として同種の役割を負っている7 Sensesが、同様の構成になるのも必然だ。ユニゾンやハモりを用いることで、一体感・チーム感・コンビ感みたいなものは生じるかもしれない。しかし、観客の視線はばらけてしまう。「今この時間はこの人に注目してください!(ちなみに今歌っている人は○○さんです!)」として視線を誘導するには、一人ひとりに歌ってもらう方がよい。「視線の誘導」の観点で言えば、この二曲は、ダンスもそういった趣向にしていると言えるか。
イ.極上スマイル (Wake Up, Girls! ver.)
ユニゾン等に、一体感やら何やらを強化する効果があるならば、どうして極上スマイル(以下、「極スマ」という。)では採用されていないのか。そこに、「WUGの楽曲にはサッド(sad)が載っている」と評される理由があるのかもしれない。
極スマを初めて聞いた時、多くの人は「楽しい曲だな~」と思うのではないか。少なくとも私はそうだった。しかし、聴き込んでいくうちに、楽しさの裏にひっそりと流れる、物悲しさに気がつく。何だかちょっぴり寂しいのだ。
それは作編曲者の妙によるものなのかもしれない。音楽的な技術である。しかし、残念ながら私にはよくわからないので、そこの分析は詳しい方におまかせする。浅学の身で考えるのは、ユニゾン等を用いないことによって、サッドが強化されているのではないかという仮説だ。
つまりはこういうことだ。サッドだ何だとは言っても、極スマの曲調は(明るい・暗いの二択で考えると)間違いなく明るい。何なら、他のWUG曲と比べても、より純粋に明るさを追求しているようにも思える。一方で、合いの手は入るものの、サビ以外はすべてが単独歌唱パートである。そして、単独での歌唱には、ユニゾン等と反対の効果があるのではないか。すなわち、孤独感の強化だ。曲調との反作用で、それはさらに強化される。その結果、私たちは、極スマからサッドを感じ取るのである。
ウ.素顔でKISS ME・Beyond the Bottom
(2)で述べたような効果が単独歌唱にあるならば、素顔でKISS ME(以下、「素KI」という。)とBeyond the Bottom(以下、「BtB」という。)でユニゾン等が用いられていないのは、当然の帰結だろう。ユニゾン等は、声の重なりによって楽曲は厚みを増すが、一方で単独歌唱は楽曲の鋭利さを磨く。
素KIとBtBは、曲調はもちろん、曲の成り立ちからしても、一言一句に一定の重み付けをする必要がある。そうすると、ユニゾン等を採用する選択肢は採られなかったということか。
3.WUG組曲(MONACA組曲)に関する見立て
歌割りの観点から組曲の4曲を見ていきたい。年に一回はWUG組曲のことを考えると健康によいらしい。
(1)海そしてシャッター通り
海そしてシャッター通り(以下、「海シ」という。)は楽しい曲か? と聞かれたら、大きく首を横にふる。しかし、悲しい曲かと聞かれても、やはり首を横に振る。WUG楽曲の面白いところは、落ち着いた曲も悲しい・寂しいのではなく、優しく聞こえ、反対に楽しい曲に寂しさを感じるところだろう。
といいつつ、海シを楽しい曲と言う人はいないと思われる。ではそのような曲の歌割りはどうなるか。単独歌唱で曲の鋭さを強くするのは一案だ。一方で、ユニゾン等で厚みを作ってもよい。選択肢はいくつかあるが、結論として、海シはユニゾン等を効果的に使うことにした。
海シではサビを除き、そのほとんどを単独歌唱が占める。しかし、最後の最後にユニゾン等が用いられる。具体的には以下の箇所である。
幼い頃に受けとったすべて
あたり前じゃないと解った
前段を青山・山下・奥野の三者が、後段を田中・高木の二者が担当する。その後、7人で1フレーズを歌った後、吉岡のソロに繋がっていく構成となっている。
単純に7人のうち3人→7人のうち2人→7人全員と、サビに向けて順番に歌っているだけにも見える。一方で、海シでは吉岡・永野のユニゾン等だけが省かれている、とも言える。これは意図的なのだろうか。それとも偶然か。私は前者だと考える。詳細は言葉の結晶で述べる。
(2)土曜日のフライト
土曜日のフライト(以下、「土フラ」という。)は楽しい曲か? と聞かれたら、大きく首を横にふる。以下略。余談ながら、未だにサビでクラップを入れるべきか否かを迷う*3。
土フラにユニゾン等は採用されていない*4。そう聞くと意外だろうか。これまでの流れからすると、むしろ想定どおりであるように思う。ただ、土フラにはサビ前にかけあいが存在するので、それらがユニゾン等と同じ役割を果たしている可能性はある。
話は逸れるが、かけあいがもたらす効果とはなんだろう。なお、ここで言う「かけあい」とは、歌唱者が次々と入れ替わるそれを指す。地下鉄ラビリンスのround...や、素KIのcheck itの部分も同じだ。
端的には、群像劇感が増すように思われる。視覚的に言えば、カメラの視点が次々と切り替わるイメージ。それはまさに「歌唱者に焦点が当たる」性質を応用した歌割りと言えるだろう。そして、そのような性質が存在することの証左とも言える。
では、土フラでかけあいが採られたのはなぜか。これは心象表現を際立たせるためだろう。歌を通して各観客自身のカメラが次々と切り替わることで、歌詞の内容=7人の心理的描写であることが強調される。私たちは「これは7人自身のことを歌っているんだ」と錯覚する。
そして、頭の中に7人各々の残像が残っている状況でサビに突入する。7人の同時歌唱は、本来であれば、観客の視点がばらけてしまうことに繋がる。しかし、この残像によって、全く異なる効果が生じる。掛け合いがフラッシュバックするのだ。これにより、サビの間、私たちの脳内では、歌詞の内容=7人の心理的描写であることがさらに強調されていく。単独歌唱と掛け合いを織り交ぜることで、土フラはユニゾンを効果的に活かした曲である、と評すことができるかもしれない。
さらに言えば、群像劇感は、曲終わりの7人の視線によって完成を見る。今となっては「想い出のパレード」しか資料が残っていないのが残念だが、アウトロにおいて、7人はステージの階段をのぼり、段上にゆっくりと腰を下ろす。そして、曲終わりとともに下手側上方に顔を向けるのだが、その視線は誰ひとりとして交差しない*5。同じ方向を向いてはいるが、同じものを見ているわけではない。それは各人がそれぞれ異なる心境にあるからだ。土フラはひたすらに7人個別の心象風景を描こうとした(少なくともライブにおいてはそう見えるようにした)楽曲と言えるだろう。
(3)言葉の結晶
言葉の結晶(以下、「言結」という。)は楽しい曲か? と聞かれたら以下略。しかし、海シおよび土フラとの明確な違いがある。それは、一定の希望が見え隠れしている点だ。
言結にはユニゾン等のパートが存在する。加えて言えば、かけあいも存在する。後者の話からしよう。言結におけるかけあいパートとは、以下の部分を指す。
存在だけで 美しいもの
一音を一人ずつ。高木→山下→田中→吉岡→永野→奥野→青山と、ライブMCの並び順を往復する。かけあいの効果は先述のとおりだ。特に言結では、舞台照明の演出と相まって、その効果を最大限強くしている。演じられ方まで想定して作られた楽曲だったのかは定かではないが、ライブをもって完成した楽曲の一つだと言えるだろう。
さて、ユニゾンである。言結では、サビを除いて一箇所だけ、2人でのユニゾンパートが存在する。この部分だ。
最後まで演奏を続けるこの船
歌っているのは吉岡・永野のペアだ。WUG楽曲で一番多くペアでのユニゾンを担い、海シでは唯一ユニゾンを担当せず、また土フラの最後で手を繋いだ2人である。どうしてこのような印象的なポイントで、この2人が歌うのか。それはアニメWUGに起因しているように思われる。
アニメWUGは誰の物語であるか。これはあまりにも諸説のあるテーマだ。多種多様な意見があることを前提に、「アニメWUGとは島田真夢と林田藍里の物語だ」とする見方があると思われる。もとい、私はそう考えている。なぜならば、この2人は互いに出会っていなければ、グリーンリーブズの扉をくぐることはなく、WUGの物語そのものが、全く別のものになっていたと思うからだ。
アニメの7人がWUG組曲を歌うときは来るのか。これもまた、永遠のテーマだ。それは誰にも分からない。少なくとも今のところは。しかし、このフレーズを2人が歌うことによって、もっと言えば、WUG組曲における吉岡・永野の歌割りそれ自体が、アニメの7人にWUG組曲を託す役割を果たしているのではないか。
「船」が何を指すのかは、言結が披露された当時から多くの論争を呼んでいた*6。さまざまな有力説が立ち並んだが、現在では「船=声優ユニットとしてのWUG」と解するのが通説となっている*7。解散を前にした7人が、ワグナーに強さ≒想いが届くことを信じて、最後の航海を続ける。そして最後には声優ユニットWUGの残光がきらめている。このような解釈である。
しかし、「船=コンテンツとしてのWUG」と捉えることもできはしないだろうか。言結のラストで登場する「絶唱」という言葉。辞典を引くと、これには二つの意味がある。一つは感情をこめて夢中になって歌うこと。そしてもう一つは、非常に優れた詩や歌を指す。
私たちは前者の意味に引きずられすぎていたのではないか。目の前の7人が活動を終えようとしている状況では無理もない。7人が最後の最後までこちらに歌を届けてくれようとしている。終わりを目前に控えた感情の発露。それはまさに絶唱と言えるだろう。
しかし、それだけではなかったのだ。何事も、終わりを迎えたからといって失くなるわけではない。7人の活動の軌跡は間違いなく残っている。そして、アニメの7人が紡いだ物語もだ。
実のところ、曲中では、この船が最終的にどうなったかは、直接的に描写されていない。そして、現実を見ると、コンテンツとしてのWUGは今も続けている。
そうすると、「船」というのはコンテンツとしてのWUGをも指していたのではないか。その船は、競争の激しいコンテンツ業界の荒波の中、今もなお航海を続けている*8。この曲は、その両面を歌ったものだったのではないか。
アニメのWUGと現実のWUGをつなぐのは、吉岡・永野の歌声である。この歌割りによって、アニメの7人が言葉の結晶を、そしてWUG組曲を歌うことが確定された。同じ文脈かは分からない。同じである必要性もない。「リンク」とは、2つの世界が同じ道程をたどることを意味しない。一つの曲から様々な視点が生まれるのもWUGの面白いところの一つだ。アニメの7人がどのような経緯で歌うことになるのか、それを考えるのもまた一興だろう。そして、そう考えられる余地が残っている状態こそ、絶唱と言えるのではないのだろうか。
(4)さようならのパレード
さようならのパレード(以下、「さよパレ」という。)は楽しい曲か? 以下略。しかし、ほか三曲と比べれば、祝祭感もあり、相対的に明るい曲だとは言えるだろう。個人的には、極スマと同じジャンルになると思っている。楽しさと寂しさの共存である。
そんなさよパレではどのような歌割りになっているか。基本的には単独歌唱だが、落ちサビにユニゾンを持ってきている。
さようならはいやだよ
慣れることなんかない
だけど背中 押すみたいに
田中・奥野、永野・山下、青山・高木のペアが続き、次の吉岡に言葉を紡ぐ。2+2+2+吉岡の流れはPolarisでも見られた。さらに言えば、ユニゾンペアの組み合わせは、Polarisのそれを一つ前にずらしたものである。
これは偶然だろうか。偶然かもしれない。しかし、意図的と捉えたほうが面白いのでそうしよう。であれば、どうしてこのような歌割りにしたのか。それはPolarisの延長線上にさよパレが存在することを表すためだ。
Polarisは、アニメWUG新章を象徴する1曲だ。そして、現実とアニメをリンクさせる一曲でもある。アニメの7人は、声優ユニットWUGのタイアップ曲*9を歌っていない。アニメ一期から新章に至るまでの間に、2つの世界には乖離が生じた。しかしPolarisは違う。現実の7人も、アニメの7人も、同じように苦心して歌詞を作った。そしてワグナーの前で歌った。Polarisは現状において、現実とアニメの世界をつなぐ最後の結節点である*10。
さよパレは、そのPolarisの延長線上にある。(3)の議論も踏まえれば、WUG組曲は声優ユニットWUGの花道としての役割を果たすとともに、アニメWUGと現実を繋ぐ役目を託された。
それらが繋がる日はいつ来るのか。それこそ、誰にもわからない。そして、いつになるかを思案しても実益はない。いつかは来るのだ。楽曲たちがそう言っている。ならば、出迎える準備をしておくだけだろう。だからこんな記事を書いた。その日が来るまで、私たちのパレードは続く。