一時期FIRST TAKEの動画をひたすら見ている時期があった。きっかけは唐突におすすめ動画に現れたこと。Youtubeあるあるである。一発録りの定義がどうとかいう論争があるらしいが、さておいて歌や音そのものに焦点を当てた動画群は、当時の私を魅了した。
数ある動画の中で、特に私が惹かれたのは、緑黄色社会のパフォーマンスだった。
一声目で意識を一気に引っ張っていかれた。曲のキャッチーさ、演奏の鮮やかさはもちろん、耳から離れないボーカルの重さ。太くて伸びのある歌声。表情から溢れ出る感情。あまりにも強い。強いと言わずしてなんと評すればよいか。自然と耳を傾けてしまい、延々リピート再生をしていた。
そう遠くないうちに人気が爆発するのだろうと思った。いや、そのときにはすでに、世界に見つかっていたのかもしれない。
音楽的な正しい表現かは分からないが、もともと低い・太い声質の女性ボーカルが好きだった。頭と腹に響くような重い声だ。
動画のコメント欄をたどると、こんなことを言っている人がいた。
「去年はヒゲダン、King Gnuと高音男性ボーカルが流行ったんだから、今年は低音女性ボーカルが流行るに違いない」
そうかもしれない、と思った。
低い声の女性ボーカルといえば、私には思い浮かぶ名前があった。青山吉能さんである。
彼女の本職は声優(のはず)だが、数年前までWake Up, Girls!(「WUG」)という7人組の声優ユニットで活動していた。「していた」というのは、すでに解散をしてしまったからだ。
彼女の声は7人のアンサンブルの中で、常に土台を支える役目を果たしていた。合唱経験も活かした、聞く人の頭に響き渡る重くてのびやかな声。高音でも耳を劈かないやさしい声。彼女の声は、ユニットの魅力を構成する重要な要素だったと言っても過言ではない。
彼女の歌声を知ってもらうには何を紹介するのが適切だろうか。やはりまずはWUGでの活動が挙がるだろう。例えばこういった楽曲たちだ。
純粋にもっと歌声を聞きたいと思っていた。
嬉しい知らせがあった。青山吉能が初めてのソロライブを行うという。
(人間味あふれる素敵な人であることも付言しておく)
そしてそれは、本格的な音楽活動の第一歩として行われるという。
正確を期せば、ユニット解散後も、彼女が音楽活動から離れていたわけではなかった。コンテンツに関わる形で楽曲を歌い、ライブにも出演していた。
声優として音楽に関わるのであれば、それは言うまでもなく正しい形だった。一方で、私の中に、キャラクタを介さない彼女の歌声を聞きたい欲があるのも事実だった。
だから、満を持してという感じがした。
12月4日土曜日。無事に現地チケットをご用意いただけなかった私は、配信を見るべく、パソコンの前で待機していた。19時をまわり、待ち望んでいた幕が上がった。
以下は12月4日に開催された、『青山吉能 SPECIAL LIVE 2021 よぴぴん家』の配信版を視聴し、印象的だった事項に関する一ファンの感想である。なお、公のレポートとしては下記記事が詳しい。
わたしの樹
公演は『わたしの樹』から始まった。
私が生でこの曲を聴いたのは、2018年1月が最後。WUGのラストツアー熊本公演でのことだった。おぼろげになりつつある記憶の中で、印象として残っているのは、故郷への凱旋公演ということも影響したのか、ひたすらに感情を歌にぶつける青山さんの姿だ。
わたしの樹は感傷的な曲である。曲調も歌詞も、感謝と決意に満ちあふれている。特に、転調を経て突入するラスサビは、歌唱者・聴衆の両者の感情を奮い立たせる。当時は本人が涙で声を詰まらせてしまったほどだ。
だから私は驚いた。語弊を恐れずに言えば「そのような曲を1つ目に持ってきて大丈夫なのか?」と。彼女は自分をして感情の獣と称する、憑依型とも言える表現者だ。最初から感極まって泣いてしまうのではないか。そしてまた、歌声が途切れてしまうのではないか。
一言で言えばそれは杞憂だった。緊張感は映像越しにでも伝わるほどである。しかし、感情はコントロールされている。それどころか、時間の経過とともに余裕が出てきているようにも見える。そしてクライマックスのラスサビを迎えた。
感情の発露とは、エネルギーの発散に他ならない。彼女が感情の獣であるならば、それだけの活力源を持っているということでもある。強大な生命力の取り扱いは、ときに難しい。しかし、内なる獣をコントロールできるようになったとすれば、もはや怖いものはない。NARUTOよろしく、古今東西の創作物がその事実を示している。
あの頃の青山吉能ではないのだと、そう感じさせられた。声を張り上げるわけでもなく、変に重たくなるわけでもなく。しかし、感情が乗っていないわけではなく。一つ壁を乗り越えたような。
今思えば、だからこその1曲目だったのかとも感じている。
ステラ・ドライブ
面白おかしくかっこよいバンドメンバーの紹介からシームレスな曲入りへの流れで三食飯が食える。
もともと、私はステラ・ドライブから何かしらの未来感を感じ取っていた。楽曲が持つ電子っぽさが影響しているのだろうか。ハイウェイというかは、映画フィフス・エレメントのように車が空中を飛び交う世界である。
しかし、この日のステラ・ドライブは違った。ジャジーなアレンジも相まって、現実感が漂っていた。言い換えれば、この日のステラ・ドライブは、まさに今を歌っていた。青山吉能の未来ではない。舞台上にあるのは、青山吉能の現在だった。
たび
この日のために新たに作られた楽曲があるという。『たび』と名付けられたその曲について、それをしっかりと繰り返し聴ける世の中になってから、私は何かを語りたいと思う。
その代わりに思い出話をしよう。時は2020年11月。インターネットラジオ番組『鷲崎健のヨルナイト×ヨルナイト』で、青山さんがマンスリーアシスタントを勤めた時のことだ。番組内で彼女はこんな趣旨のことを訥々と言った。
「WUGの時の青山吉能の方が輝いていた」
「自分の決断が間違いでなかったと証明していく」と言っていた人間が、人生第二章とぶち上げた人間が、何やら弱気なことを言っている。
その言葉を聞いて当時の私はこんなことを思った。
上手に忘れてと歌い上げた人がまだ引きずっているというなら、それはそういうものなんだろうと
— そろばんや (@sorobanya64) 2020年11月2日
WUGちゃんが亡霊やってるならそら我々も亡霊になるよ(という話でもない)
— そろばんや (@sorobanya64) 2020年11月2日
先に進むのは誰だって大変
— そろばんや (@sorobanya64) 2020年11月2日
WUGが解散し、休養を経てからの彼女の歩みは、当事者ではない第三者からは全く悪くないものに見えていた。しかし彼女自身が一番迷いながら、歩みを前に進めようとしていた、ということなのだろう。おそらく、自分が理想とする「青山吉能」の姿があって、そことの差異に悩んでいたのだろうか。かくも人生とは難しい。
しかし、そんな悩みを抱えていた少女はもういない。少なくとも目に映る範囲においては。
たびは、自身の反芻に対する、現時点での明確な答えなのだろう。「ここで生きていく」と言える場所を、彼女はもう見つけたのだ。
解放区
ソロライブをするぞ、との知らせをきいたとき、私にとってそれは「解放区をまた聴けるぞ」ということに他ならなかった。いや、厳密に言えば、歌ってくれるかどうかはわからない。しかし、歌わなきゃ嘘だ! と思っていた。
嘘ではなかった。
蓋を開ければ、解放区はこの日のライブ最後の曲となった。ラストに置くのがこんなにしっくりくるとは思っていなかった。
解放区は、もともと青山さん自身の応援歌として(あるいはそうイメージされて)作られた楽曲だ。しかし、それが結果的に多くの人の心に響くこととなった。イントロのピアノ、疾走感のある展開、そしてひたすらに自分自身を鼓舞する歌詞。聴いていると頭に浮かぶのは、光が指す方向に向かって、ただただ必死に走り続けようとする青山さんの姿だ。そして私たちは、その姿に自分を重ねる。
しかし、この日の解放区にそんな必死さは見て取れなかった。それすらも彼女の演技かもしれない。けれども、私はそう感じた。荒波にもまれること自体を楽しんでいるかのような。苦しみがないわけではないけれど、困難な道も乗り越えられると確信を持って、自信を持って、私たちに歌を届けてくれている姿を見て、私は「これが青山吉能なんだ」と思った。
青山吉能さん、改めてソロデビューおめでとうございます。
加えて、アニメ『ぼっち・ざ・ろっく!』主演・後藤ひとり役の抜擢おめでとうございます。
今後とも幸多い人生でありますように。