死に物狂い

他人から影響を受けやすい人間のフィクション日記

新たな一歩を踏み出す先は(あるいは、『Run Girls, Run!FINAL LIVE ~新しい道の先へ~』に行ってきました感想)

 

 迷っていた、というのが正直なところだった。前日の朝になってもなお決めきれない。単純に疲れていた。土曜日に遠出をするのが億劫だったのだ。しかし、それは理由付けの一つにすぎない。何よりも、自分などが行ってもよいのだろうかとの気持ちが、日が近づくにれて大きくなっていたのだった。

 2022年7月、女性声優ユニットであるRun Girls, Run!の解散が発表された。5thライブツアーが始まろうとするタイミング。公演がそのまま解散への花道になっていく状況。遠くから彼女たちの活動を見ていた私にとって、それは青天の霹靂ではなかったにしても、どこか見覚えのある光景で、また何かが一区切りするような、してしまうような感覚だった。とはいえ、私はツアーに参加しなかった。その流れに加わるほど、彼女たちに気持ちを向けられてはいなかったからである。

 だから、FINAL LIVEが発表され、その会場の選定に関する論評が舞い踊った際も、他人事として捉えていた。少なくとも、私がこのライブに行くことはないだろう。解散を心から惜しむ方々が、彼女たちの門出に花を添えた方がよい。その機会を邪魔するのはよろしくないだろう。そう思っていた。

 しかし、その後に私が聞いたのは、顔も知らぬファンたちから発せられた「来てくれ」の言葉だった。私はこの光景を別のユニットにおいて一度見たことがある。そしてその時は、一応当事者側にいた。そこから数年が経った今、立場を変えて同じような状況にある。なればとりあえず応募だけでもしてみるかと、イープラスに馳せ参じたのだった。

 チケットがご用意されるとは思っていなかった。だってそういうものだろう。程度はどうあれ、この世はご縁でできている。これまでまともに追いかけていなかったユニットの、しかも最後のライブに、門外漢が赴く機会を得られるものだろうか。しかし、蓋を開けてみれば取るに足らぬ心配であり、機械的な抽選によって、私は滞りなく当日の夜公演、すなわち彼女たちの最後となるライブのチケットを得たのだった。

 そういうわけだから、最後まで迷っていた。私よりも、強くこの機会を欲している人がいるだろう。彼ら彼女らを差し置いて、その1席を私が埋めてよいものだろうか。せめてもの、昼公演にしておくべきではなかったか。Twitter上でチケットを探すアカウントを見るたびに、私は自問自答することとなった。しかし、簡単に席を譲ろうという気にもならなかった。

 そうして迎えたライブ前日の23時。仕事から帰宅した私は、新幹線を予約していた。ついでにホテルも探していた。考えてみれば、悩む必要などないのだった。

 

 

 いつ乗っても変わらない山手線の混み具合に悪態をつきながら、到着した土曜夕方の代々木はイメージ上の東京らしからぬ雰囲気で、どこかなつかしい雰囲気を漂わせていた。悪天のせいか人もまばらな改札口を抜け、早々に顔を出す飲食店街に足を向けると、見覚えのあるタオルやパーカに身を包んだ人たちの姿が見える。スマホを片手に道を進み、ぬっと現れたM.YAMANO TOWERを見上げながら、「山野ホール」と書かれた看板に導かれ、あっさりと会場に到着したのだった。非常に立地が良い。

 出入り口に飾られていた諸先輩からのお花の撮影もそこそこに、会場内に入って座席に腰を下ろす。目をつぶって耳にするざわめきは心地よく、ライブ直前特有の緊張感を思い出していた。どうして見る側も緊張してしまうのだろうか。高揚感が見せる錯覚だろうか。未だに答えは得られていない。

 オーバーフローしたトイレの待ち行列から帰ってくると、会場の熱気は最初よりも高まっていた。再び自席に向かい、じっと始まりを待つ。定刻を少し過ぎた頃合いで、いよいよライブの幕が上がる。きっといい時間になるだろう。根拠はなかったが、そう思わせる空間があった。

 

 

 彼女たちのパフォーマンスを最後に見たのは、およそ5年も前のことである。姉妹ユニットであるWake Up, Girls!のライブ。私が初めて生の7人を見たGreen Leaves Fesに、3人もいた。思えば、両ユニットともに、最初の出会いは同じタイミングだったということだ。

 5年ぶりに見た彼女たちの姿から感じられたのは「余裕」だった。視線を動かさずに次々とフォーメーションを変え、激しい動きをいとも容易く繰り広げていく。それも、笑顔を絶やさずにである。そして時にはアンニュイな表情を浮かばせる。3人の器用さと底の深さに驚かせられた。

 

 森嶋優花さんは大きい。これは論理矛盾だ。彼女の身長は公称147cmであり、一般的に見ても小柄である。しかしながら、ステージ上の彼女は大きい。それは彼女の動きがそう見せているということだろう。そしてそのようなパフォーマンスは、往々にして観客からは魅力的に映るものだ。何よりも、「簡単そうにやっている」ように見せるのがとても上手いと思う。難しい動きの、その難しさを感じさせない。つまるところ、実力に裏打ちされたもの、ということだろう。

 厚木那奈美さんはしなやかだ。長い手足がやわらかく伸びている。ムチのように、と称するのが褒め言葉になるのかはわからないが、きれいに緩急がつけられた動きは、緊張と緩和を体現しているようで、ついつい目で追ってしまう。それは一種の期待だ。次に彼女はどのような動きをするのだろうかと、楽しみになってしまうのである。

 林鼓子さんは何かを纏っている。それは自信という名のオーラだ。実際のところは知らない。しかし、観客席から見る彼女は、常に才気煥発の極みである。テニプリか? そのような姿を見て人はどう思うか。安心するのである。不思議なもので、仕上がっている存在と出会ったとき、人は安心するのである。そういった存在が存在することを心強く思うのである。

 時が経てば人は変わるが、必ずしも成長を伴うわけではない。しかし、5年ぶりにみた彼女たちの姿は、5年前と明確に変わっていた。今や妹分でもなんでもない。彼女たちはユニットとして、Run Girls, Run!として独り立ちしていたのだ。ともすれば、もうずっと前からそうだったのだろう。

 

 3人の最後の姿を目に焼き付ける以外にも、このライブに来た目的があった。『キラリスト・ジュエリスト』の例の動きを見ること、そして四季曲と呼ばれている4つの楽曲を聴くことであった。そしてこれらは無事に達成されることとなる。

 始まった瞬間、会場のボルテージが一段階高まったようだった。その場に居る全員がこの曲を愛していると言わんばかりである。キラリスト・ジュエリストは魔法のような一曲だ。何も分からなくても自然と体が動いてしまう。そしてあのダンスである。どうしてこのダンスはかように人を惹きつけるのか。楽しんでいる人を見て楽しくなる。多幸感の極地であるかのごとく時間に、これだけでもって、来てよかったなと感じたのだった。

 そしてその興奮が収まることなく、続き始まった四季曲に感情を持っていかれることとなった。これらの曲を会場で、大きな音で聴いてみたかったのである。環境が変わると曲の印象も変わることがある。四季曲は切なさがパッケージングされた楽曲群だが、『サクラジェラート』はどこか機械的に聞こえ、『水着とスイカ』からはじめじめした夏の蒸し暑さが漂ってくる。『秋いろツイード』のやるせなさには胸を痛くしてしまった。そして何よりもこの日、四季の最後を彩る『スノウ・グライダー』を聴いた私は、そこに一抹の楽しげな雰囲気を感じ取ってしまったのだった。

 これはどういうことだろう。その日、スノウ・グライダーから感じられた、将来への希望のようなものは、一体何だったのだろうか。ただ単に、現実に置かれた3人の状況と重ね合わせてしまっただけなのかもしれない。四季の巡りに、始まりと終わりを当てはめるのは人間の勝手な振る舞いだ。しかし、私たちは春に始まりを、冬に終わりを見出す。冬を超えれば春が来ると知っている。そこでは常に始まりと終わりが連環している。

 彼女たち3人は、今日が一つのゴールであると言った。そして、ゴールはまた新たなスタートでもあるのだと。それを四季になぞらえたからこそ、スノウ・グライダーから希望を得たのではないか。もちろん、これははっきりしない。私にとって、3人から残された宿題となったのだった。

 

 

 セトリを終えた会場に、「Run Girls, Run!」のコールが響き渡っている。アンコールで3人を呼ぶためだ。脳裏に、懐かしくも楽しかったいつかの情景が蘇る。好きな人たちの名前を呼べるのは幸せなことだ。

 Wアンコールで再度歌われた『カケル×カケル』を聴きながら、ユニットの「解散」という到達点に思いを馳せる。3人のスタートラインで歌われたこの曲は、今となってはゴールラインから過去を振り返る曲であり、さらには新たなゴールに向けてのスタートを歌っている。何も知らない者の感想であるとしても、少なくともそこだけを取ってみるのであれば、何ともきれいな幕引きではないか、と思ってしまったのだった。

 

 祭の終わり、会場を出ると透き通った清々しさを感じた。寂しさに打ちのめされそうな人もいるだろう。しかし、楽しいライブだった。その事実も揺るぎないものである。終演後、旧知だったり初対面だったりした方々と、JR東海CMさながらの邂逅を果たしつつ、語らうことでその実感を強く持った。

 

 4月1日を迎え、声優ユニットとしてのRun Girls, Run!は名実ともに解散した。3人が新たな一歩を踏み出す先には、一体何が待っているだろうか。彼女たちの前には、どのような風景が広がっているのだろうか。同じことは観客側にも言える。もちろん私にも。一瞬でも、こうやって彼女たちと私たちの人生を重ねられたことは、間違いなく幸せだっただろう。そして、3人はもうそれぞれに動き出している。なればこそ、私たちもじっとしてはいられない。そう、止まってなんかいられない。