死に物狂い

他人から影響を受けやすい人間のフィクション日記

なぜ『The Game of Sisyphus』のプレイ映像を見ると胸が苦しくなるのか

『The Game of Sisyphus』というゲームがある。

 

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 もはや無名ではなく、岩おじの名で親しまれたり憎まれたりしているから、どういうゲームであるかの説明は不要に思われるが、端的に言えば、岩を転がしながら長い坂を登っていく、本当にただそれだけのゲームである。しかし、その途上は険しい。坂は一定の距離で区切られており、各区間においては様々な障害物が行く手を阻んでくる。それらをうまくかいくぐり、頂上を目指すのである。

 坂を登る途中、もしも岩から手が離れてしまうとどうなるか。当然、坂の下へと転がっていく。止めることができなければ、岩はひたすらに転がり続け、スタート地点へと戻る。このような行ったり来たりを繰り返しながら、坂の頂上を目指す。ゲームオーバーはない。あえて言えば、プレイヤーが諦めてゲームを終了した時がそうだろう。

 いわゆる苦行型のゲームであるThe Game of Sisyphusは、その通称からも分かるように、Getting Over It(通称:壺おじ)の親戚と認識される。あるいは、最近でいうとOnly Up!もだろう。これらのゲームの特徴は、難易度が高く(操作の難しさを含む)、プレイヤーの心を幾度となく折り、しかしクリアは不可能ではなく、すべてを乗り越えた時には、確かな達成感と充実感(と疲労感)が得られる、見方によっては実にゲームらしいゲームとも言えよう。

 先に言っておくと、私はこのゲームをプレイどころか購入もしていない。したがって、以下の文章は動画視聴に基づくまことに身勝手な内容だ。そのうえで、どうして私が購入すらしていないゲームについて何かを述べようとしているのかといえば、プレイ映像を見るだけで胸にざわつきを覚えるからである。そのような経験は自分にとって珍しいことなのだ。

 

 

 プレイ中、何かのきっかけによって、岩が転がり始めてしまったとき、プレイヤーには二つの選択肢が与えられる。岩を追いかけるか、追いかけないかである。

 まだ心が折れていない場合、多くの人は前者を選ぶ。岩を止めるために追いかけるのである。しかし、事はそう簡単ではない。岩の転がるスピードは、プレイヤーが走るのよりも速い。普通に追いかけても追いつくことはできないのである。

 とはいえ、追いかけるのは無駄ではない。障害物が味方をしてくれるからである。登るときは邪魔でしかないもろもろが、反対に、転がる岩の勢いを緩めてくれることがある。そうして減速した岩には、プレイヤーは追いつくことができるのだ。

 一方で、まったく障害物が機能してくれない場合もある。こればかりはその時々の運であり、本当に不運が重なると、それまで登るのにかけた労力をゼロにするかのごとく、岩はするするすると転がっていく。

 障害物の一つには、転がる岩を止めるためだけに用意された物もある。正式名称があるのかもしれないが、分からないので「ストッパー」と呼ぶ。現物を確認してもらったほうが早いが、区間ごとに、このストッパーが用意されている。置き場所は坂の両端左右に一つずつ、並行的に対になるように置かれている。俯瞰して見ると、どこかピンボールのようだが、実際のところピンボールのように、転がる岩はストッパーに触れず、中央を素通りしていくことがままある。ストッパーで止まるかどうかも運次第なのである。

 ストッパーは制作者の善意によって用意されている(悪意かもしれない)。しかし、それらが効力を発揮するのは、岩がうまいことそれらにはまった場合である。プレイヤーは、障害物に加えて、どうにかストッパーで止まってくれないかと願うが、掠ることすらなく通過していく岩の姿を見て、呆然とする。少しでもストッパーの位置を動かすことができたならと思うが、そのようなシステムはない。全ては岩の思し召しであり、岩から手を離した自分が悪いのである。

 プレイヤーは、「何かに引っかかってくれ!」という期待を持ちながら、あるいはそのように祈りながら、岩を追いかけることになる。そして、この時間が長い。すなわち、岩が転がり始めた場合、途中で追いつける保証がない中で、スタート地点まで戻るという最悪の光景を脳裏に浮かべつつ、誰か助けてくれないかと叫びながら追いかけることになる。すぐに追いつけることもある。ただ、重要なのは、自分の力だけでは、目先を転がる岩をどうしようもできない点だ。そして、それでも追いかけざるを得ない。最悪にならないことを祈りながら、最悪にならないために、自分ができる唯一の行為をせねばならない。

 ただ転がっていくならまだしも、時に岩は空を飛ぶ。それは、爆発物によってだったり、岩自身の勢いによってだったりする。そのようにして岩がコース外へと飛び出た場合、岩は、飛び出た地点から更に下方でリスポーンする。つまり、リスポーンする岩を待ち受けて受け止めるようなことはできない。これがまた苦しい。追いつけないことが確定している位置から、あらためて岩が転がりだすのである。プレイヤーは、飛び回る岩を見て、もうこれ以上は下に行かないでくれと、再び懇願しながら追いかけることになるのである。

  こつこつと積み上げたものが、いとも簡単に崩れる。賽の河原ゲーとはよく言ったものだが、積んだ石を崩す鬼と異なり、このゲームは、プレイヤーの努力をゆっくりと振り出しに戻す。いっそのこと一気にリセットしてくれたほうが楽かもしれない。もちろんそれもしんどい。しかし、もしかしたら振り出しに戻らなくてもすむかもしれないという希望を抱きながら、必死になって転がる岩を追いかけるのは、少なくとも私にとっては、瞬時にゼロになるよりも険しい感覚であるように思われた。

 また、本作がGetting Over ItやOnly Up!と異なるのは、リセットの対象が自分自身ではない点にある。岩の都合なのである。The Game of Sisyphusでは、岩を転がさずに坂を登ることもできる。これによって、次の区間がどのようなギミック・障害物で構成されているかを偵察できる。しかしそこまでである。結局は、自分だけでは何もなし得ない。岩という他者が必要なのだ。

 よくよく考えてみれば、岩が転がりだすのはプレイヤーの責任なのだろうか。そもそも坂の角度が急で、妙にいやらしい配置で障害物があって、思うように岩が動いてくれないからではないか。岩という他者の都合に翻弄され、さらには道中の外部環境によって全てが無に帰してしまう。その光景はグロテスクであり、現実世界の反映でもある。The Game of Sisyphusとは人生だと評す人がいるのは、気を抜くと積み上げたものが見る見るうちに失われてしまう点だけでなく、岩という他者、そして周りの環境に全てが左右されうる点(一定のコントロールができる場合がある点も含めて)によるものではないか。そしてそうであるからこそ、私はこのゲームのプレイ映像を見て、苦しさを覚えるのである。人生とは、究極的には常に外部環境の影響を受け、その外力に対して人は無力である。良くも悪くも運によってあらゆる物事が決まる。そのような現実をThe Game of Sisyphusはまざまざと突きつけてくるのである。

 

 

 人生は辛いものである。そんな中、私が感心したのは、VTuberである兎田ぺこらと湊あくあによる、本作の並走配信であった。

 

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 並走とは、同じゲームを同時に開始し進行していく行為を言う。高難易度系のゲームの場合には、その進行具合で競争するのが表立った目的でありながら、視聴者的にはその競争上で発生する演者間のやり取りを楽しむものである。

 二人は岩に毒づきながら、疲弊しながら、時に煽り合い、時に励まし合って岩を転がしていく。代わり映えのしない映像が、エンタメへと昇華され、岩を通じたコミュニケーションが膨らんでいく。

 苦境に立たされていても、同じ状況に置かれた他者を認識することで、ままならない環境に対し楽しみを見出だせるようになる。有り体に言えば、苦しさは半分になり、喜びは倍加される。通常であれば聞き流してしまうような格言も、この時ばかりは事実だと実感したのだった。それもまた人生の一側面を示すものにほかならない。この世は一人で生きていくことを前提としておらず、人間は共存のうえ、人生をやっていく生き物なのである。

 

 

 

 ところで、Steamでは恒例のサマーセールが開催されている。様々なゲームを安く購入できる、またとない機会である。私も積みゲーは罪などと言いつつ、性懲りもなくカートに投げ入れている次第だ。

 

 さて、

 

 

 さて、