『VTuberの哲学』を読んだ。
読んで思ったのは、「本書で展開される論はVTuber固有のものと言えるだろうか」ということである。言い換えると、「どうして怪人ゾナーはVTuberではないのだろうか」との疑問が生じた。少し考えてみたい。なお、以下の記載は、本書を読んだ感想という体はとりつつも、その実、当該疑問に係る思索の記述であり必ずしも本書の論に沿った内容ではないことおよび特に明確な結論はないことをあらかじめ申し述べておく。
本書が対象にしているVTuberとは、ホロライブやにじさんじといったいわゆる企業勢のVTuber(厳密には個人勢も含んでいる)であり、前提として以下の三分類のうちCに属するものを指す。すなわち、A.配信者タイプ、B.虚構的存在者タイプ、そしてAとB両方の特徴を有するがどちらにも当てはめられないCタイプである。
Aタイプの例として、ガッチマンV(以下、敬称略)、3DアバターをまとったHIKAKINが挙げられている。すなわち、現実世界の配信者と同一人物であることを前提としている存在である。また、Bタイプの例として、麻宮アテナ、ゴールドシップが挙げられている。すなわち、ある原作となる作品が存在し、その原作上の設定を保持したまま、当該原作上に登場するキャラクターであることを前提としている存在である。そして、CタイプとはこのA・Bどちらの特徴も持つが、どちらにも当てはめられないとする。
ここで冒頭の疑問を持った。Cタイプの特徴として述べられている点は、VTuber固有のものと言えるのだろうか。なお、念のため補足すると、本書は別段A~Cタイプの分類をVTuber固有のものとしているわけではない。
まず頭に思い浮かべたのは、怪人ゾナーである。別に麗人サイガーでも、ハードゲイキャラ時代のレイザーラモンHGでもよい。要するに、誰かがそれを演じていることは自明だが、その点は横に置かれていて、鑑賞者および本人からはあくまでも別人格(別存在)として取り扱われているような存在である。
私が怪人ゾナーを見る時、それが森久保祥太郎の演じた姿であるとの事実を知っていたとしても、怪人ゾナーを森久保祥太郎としては知覚しない。怪人ゾナーは、あくまでも謎の秘密結社に属していて、脈絡もなくナゾナゾを出してくる、謎の改造人間である。
HGも同様である。レイザーラモン住谷と非常に似た特徴・風貌をしているとしても、HGと住谷正樹は同一人物ではない。時代を振り返ると、このような例は枚挙にいとまがない。思いつくところではゴリエもそうだろう。
そのほか、妖精帝國のゆい様はどうだろう。現代のVTuber的なものとの比較対象として、ゆい様は非常にVTuberっぽい。なお、声優の伊月ゆいとゆい様は別の人物(別"人格"ではない)であり、それぞれに別の人生を生きている。
以上のような存在は、まさにCタイプの特徴に当てはまるのではないか。しかし、怪人ゾナーはそもそもVTuberではない。もとい、VTuberとは認識できない。なぜかと言えば、結局怪人ゾナーが私たちと同じくこの現実世界に存在しているからだろう。彼は肉体を持っており(機械かもしれないが)、対面で話をし、握手することもできる。怪人ゾナーはヴァーチャルな存在ではないのである。
当たり前と思うかもしれないが、これは結構重要なことだ。なぜVTuberなのかではなく、なぜVTuberでないのかを考えると、VTuberをVTuberたらしめているのは、一義的には肉体的な要素である。
では、怪人ゾナーがLive2Dまたは3Dモデルで存在していたら、それはVTuberなのだろうか。人によって答えは異なるだろうが、個人的にはVTuberではない。その理由は、怪人ゾナーが先に現実に存在しているからである。それでは怪人ゾナーが当初から3D等の身体で登場し、世の子どもたちになぞなぞを繰り出してたらどうであろうか。それならば、なぞなぞ系VTuberとの冠を被っていても、特に違和感がないのではないだろうか。
この感覚の違いは何か。真っ先に思いつくのは、現実世界の肉体を持ち合わせているかどうかである。つまり、今現在の私たちは、怪人ゾナーが現に肉体を有していることをすでに理解・認識してしまっている。この状態で3D等の姿で活動する怪人ゾナーを見ても、まず頭に思い浮かべるのは現実の怪人ゾナーの姿である。すなわち、「現実に存在している怪人ゾナーが3Dになっている」という、本書で言えばタイプAに近い存在である。「近い」と称したのは、怪人ゾナー自体は現実に存在しないからである。しかし、その肉体は現実に存在する。したがって、VTuber怪人ゾナーではなく、怪人ゾナーが3D等の姿になったものだと認識する(こう言うと明らかだが私はタイプAのVTuberをVTuberだとは認識できない)。一方で、なぞなぞ系VTuber怪人ゾナーは、現実に肉体を有しない。魂が依り代とするところの、肉体が現実に存在するかどうかによって、我々の感覚は異なってくる。
しかし、この論には明らかな欠陥がある。言うまでもなく、現代のVTuberの多くは、自身が現実の肉体を有していることを自ら示している。料理配信、作業配信、開封配信、なんでもよい。カメラを通して自身の腕・手を視聴者に見せている。
人によっては顔以外も移すし、何だったら顔も出す。顔出しの場合はさすがに難しいかもれないが*1、私たちはそれらの肉体をVTuberのものとして認識している。本書では、このような視聴体験を「シームレスな鑑賞」と名付けて論じている。画面上の身体は、明らかにヴァーチャルではなく、その時点で全てが破綻しているはずなのだが、疑問なくその状況を受け入れることができるのである。
とは言うものの、実際のところ受け入れることができているのだろうか? ゴム手袋を付けた手が動くのを見て、それを人間ではなくVTuberの手だと本当に認識しているのだろうか? と疑問を呈してみるが、これは実際のところ本書の言うとおりだと思う。ただ、それは認識がシームレスに移行しているからというかは、VTuberとしての姿(イラスト・モデル)以外に想像する余地がないからではないだろうか。つまり、私たちは腕の先(肩に向かう方向だから「もと」と言ったほうが正しいかもしれない)がどのような姿なのかを(少なくとも表向きは)知らない。だから、一番脳内で補完しやすい肖像を選択する。その結果として、現実と同様にキャラクターが手を動かしている映像が脳内に浮かぶこととなる。
では、キャラクターが脳裏に浮かばなくなるときとはどういう場合だろうか。本書では、シームレスな鑑賞ができない一例として、VTuber琴吹ゆめと、その魂であることを公表している飯塚麻結の対談動画が挙げられている。初めて見たが、たしかにこれは、コミックス巻末において作者とキャラクターが会話しているような趣きであり、私にはその場に飯塚麻結が二人いるとしか感じられない*2。
そうすると、結局のところ私はVTuberとその魂の2つを、別の存在として捉えているのか、それとも同一人格として捉えているのか。模範的な回答は前者であろう。そしてそれは究極的なごっこ遊びである。本書では、VTuberによるゲーム実況配信中に、VTuber自身があたかも視覚的にゲームの世界内に入り込んでしまったかのように見える場合およびコントローラーを握っているLive2Dの姿によってVTuberがゲーム画面の外でゲームをプレイしているように見える(要するにゲームをしている自分の姿をカメラで写しているように見える)場合について、メイクビリーブ理論を用いた説明を試みている。しかし(おそらく言いたいことは同じな気もするのだが)、メイクビリーブの実践はそれらの前段部分から行われていると思われる。
なぜ、人間だったり人間じゃなかったりする様々な存在が揃いも揃ってこの地球にやってきて(あるいはこの地球とインターネットを用いてつながって)日本語や英語を喋りゲームを配信しているのか。答えは簡単で、少なくとも現代においては、それらはあくまでも現実に存在する人間の一人格だからである。
しかし、私は鑑賞中、VTuberが人格レベルではなく、そこに本当に存在するとも信じている。演者は自身の演じるVTuberが現に存在するかのように振る舞い、視聴者はあらゆる矛盾を受け入れながら、そのVTuberが自分と同じこの世界に存在すると信じる。そしてそのような環境は、演者と視聴者の双方の協力がなければ成り立たないものである*3。どちらかが舞台から降りれば、その存在は消えてしまう。その意味でVTuberとは本質的に儚い存在であり、そこにコンテンツとしての危うさ*4を孕んでいる(それによって魅力的になっているとも言える。)。そしてその危うさは、契約解除または卒業等により表舞台を去ったVTuberはどこに行くのかとの問題を伴って発現することとなる。
余談:
◯仮に森久保祥太郎が自身のYoutubeチャンネルで怪人ゾナーの動画をアップした/怪人ゾナーとして配信した場合と、怪人ゾナーのチャンネルで怪人ゾナーの動画がアップされた/配信がなされた場合とでは、その意味合いはどのように異なるか。または異ならないか。
◯怪人ゾナーが森久保祥太郎のような有名人ではなく一般的に知られてない人物によって演じられている場合で、怪人ゾナーとしてテレビに出演し、また3Dモデルの姿で配信活動もしている場合、CタイプのVTuberであると言えるか。