死に物狂い

他人から影響を受けやすい人間のフィクション日記

パルワールドを通して自分のポケモン観を見る

 小学校でドはまりし、中学校で一旦離れて、高校~大学で人によっては戻ってくる。これが私の周りで多かったポケモンとの関わり方である。私はと言えば、緑→銀→サファイアの後に間が飛んで、ムーン→シールド→(アルセウス)→バイオレットといったプレイ遍歴である。二番目のバージョンを選んでしまう性質は何に影響されたものか分からないが、おそらくはただの慣習である(あるいは二つ目のほうが何か強そうだから)。

 思春期の到来とともにポケモンと縁遠くなったのは、コロコロコミックと同じく、子どもっぽいものから離れようとする意志によるものだが、概念的には同じく子どもっぽいものであるはずのゲームそれ自体から離れたわけではないので、勝手な線引きである。そもそもポケモンが子どもっぽいものであるのかは、今となってはそれなりに議論がありそうで、かわいいキャラクターだから子どもっぽい、ということでもないだろう。大人ぶろうとする感情だけでなく、単純にコマンド式の戦闘システムへの興味が薄くなったからである気もする。

 ともあれ、自意識も飽きも、歳を重ねて一周して戻ってくることで、再びポケモンと向き合えるようになった。そう言うと何だか大げさなので、再びポケモンに触れるようになった、ぐらいの表現が適切である。

 しかし、ある程度歳を取ってからポケモンをやると、何かしらの疑問あるいは違和感から目を背けることが難しくなる。どうしてこの人たちはポケモンを戦わせているのか。もう少し敷衍すれば、当たり前のように野生を狩るのは何でなのか、どうして野生を捕獲してもよいのか等、挙げ始めるときりがない。ポケモンセンターは動物病院というより傷を癒やすのに特化した医療機関で、ジムリーダーは公務員っぽく(民間だったらそれはそれで怖くもある)、世界がポケモンを傷つける前提で成り立っている。そもそもバトルが競技化されているというのはどういうことか。ただ、そういった疑問も、「まあゲームの中の世界だし」といった年相応の分別を持って解消される。大人になった副産物である。

 ただし、大人は分別を持ちながら、それはそれとして考えをめぐらすこともできるので、頭の片隅に違和感は残ったままである。つまるところ、あまりに人がリスクを負ってなさすぎるように感じるのである。ポケモンと人間はパートナーであるはずだが、何だかんだで主従関係がある。ポケモンには人間の言うことを聞かない自由もあるが、ジムバッジという謎の高機能物質によりそれも叶わなくなる。

 何か事件が起こると、とりあえずポケモン同士を戦わせて解決しようとするのも、お約束の展開とも捉えられるのだが、例えばロケット団をいましめるのであれば、ロケット団員が繰り出すポケモンではなく、団員自身に痛い目にあってもらう必要があるのではないか、みたいに思ってしまう。逐一そのように考えていると、しまいにはポケモン上でバトルをするのが億劫になってくるのである。

 ポケモンの持つ冒険感は今も楽しい。新しい街を探索するのも、世界の謎を解くのも面白い。しかし、どこをとってもポケモン同士の戦いはついてくる。それがなくなれば、ポケモンはもっと(自分にとって)面白くなるのに……という気持ちになってくるが、それであればポケモンである必要もなくなるのであり、それぐらいにポケモンとバトルは紐づいている。

 それがポケモンというゲームなのだし、単に自分と作品が合わなくなってきただけとも言えるから、あまり考えても仕方がないのだが、ポケモンのHPが0になるたびに思うのである。フィールドにはひんし状態のポケモンが数え切れないほどに倒れているのか。もとい、ひんしの状態になるかもしれない可能性を加味しても、なおも当然にポケモン同士を戦わせるのか。どうして野生のポケモンは人間を襲わないのか。野生と称しているのも実態は公的に認められて放牧されたポケモンであり、それを相手にトレーニングすることが認められているのか等々。空想科学読本に触れだした頃に誰しも一度は通る道であろうが、それをこの歳になって再び歩んでいる(それはそれでどうかとも思う)。

 

 というわけでパルワールドである。作品に対する熱狂めいたものは一旦落ち着いたように思われるが、それだけの盛り上がりを見せたのは、パルワールドがポケモンの違和感を一部でも解決してくれたからだろう。パルを倒せば亡き骸が転がり、徒党を組まれたパルに人間は為す術もなく、正しく弱肉強食である。よく言われるように、パルワールドは、ポケモンが普段ベールで包んでいる部分を良くも悪くも表現している(なお、知ったような口を利いているが、プレイ時間はまだ10時間に充たない)。

 そこに個人的な感想を付加すると、パルワールドは、「ポケモンと一緒に戦いたい」とか、「ポケモンだけに負荷を負わせたくない」といった感情をくすぐってくる。

 おお~みんな一緒に運んでるな~と、初めて拠点で動くパルを見た時には感動したものである。そしてその時私は何をしているかと言えば、パルと一緒に木を切ったり石を取ったりしている。別にそうしなくてもよく、パルに任せたほうが効率もよいのだが、そのようにやろうと思ったら一緒にできるというのが重要なのではないかと思う。パルに任せるにしても、その間私は外で探索をして、鉱石などを採取して帰ってくると、お互いに仕事を分担している感じがして、共同生活を送れている気持ちになれる。そう、そこには生活がある。

 野生のパルや密猟者と戦うときも同じで、パルに任せることもできるが、自分も武器を手にとって一緒に立ち向かうこともできる。自分がヘイトを取って敵を引きつけている間に、パルに攻撃してもらうこともできる。そうは言っても、巨大なパルを目の前にして人間にできることは少なく(私のレベルでは)、そういう場合は結果的にパル頼みになる。しかし、話は戻るが、この世界では人間も比較的リスクを負っているように思えるのであり、その点でむしろポケモンより違和感がない。

 

 以上のような話をざっくり言い換えれば、私が当時アルセウス(ゲームのタイトルの方)に向けていた期待を引き受けてくれている、とも言える。アルセウスは、ポケモンが持つ冒険感のようなものをフィーチャーした作品だと思っている。野生のポケモンが人間を攻撃してくるのがよい。人でどうにかしようというキング・クイーン戦もよかった。しかし、結局はポケモン同士のバトルに戻ってくる。折角なんだから人間同士でも拳を交えようや、あるいはポケモンと俺で戦おうや、と思うのであるが、そこはメインの要素にはならないし、おそらくする必要もない。

 と、ここまで書いておいてポケモンの世界観をあまり理解していないのだが、アルセウスポケモンの方)が宇宙を創造したらしいので、もしかすると人間がポケモンを使役することをポケモン自身が許容しているとも捉えられる。すなわち人間は小麦によって生かされているというような話と同じで、全てはポケモンの手のひらの上にあるのかもしれない。そもそもアルセウス(ゲームタイトルの方)においてアルセウスポケモンの方)は主人公の人生を無茶苦茶にしているのだし。そう考えると、ポケモンと人間の間の長い歴史を経た上で、お互い納得して今の関係性があるのだろうから、第4の壁の向こう側にいる私があれこれ言うのも無粋というものである。

 

 いずれにしても、パルワールドを発端として生じた、ポケモンを取り巻く様々な議論を通して、ポケモンが持つ影響力の大きさや、ポケモンを好いている人の多さを再確認した。

 また、近時において『Pokémon LEGENDS Z-A』が発表された。システム的にはアルセウス(ゲームタイトルの方)の方向性であるのだとすると、いったいどのような世界を描けば、そこでポケモンと人間が共存していると実感できるのか。私に答えがあるわけでもないが、1ファンとして楽しみである。はたしてどのような世界がそこにはあるだろうか。