『営繕かるかや怪異譚 その参』を読んだ。以下はネタバレを含む感想。
本シリーズは、家具や家の不具合によって霊的な差し障りが生じているところに、営繕屋である尾端が住民に聞き取りを行い、原因を想定して営繕を施すともろもろのよろしくない出来事が収まる、という建付けである。尾端は舞台上の主人公と言えるが、作品上はそうではない。おおむね、尾端が登場するのは最後だけで、基本的にはその差し障りによって困っている本人たちによって物語は進行する。尾端の造作によって、霊現象は収まってくれるので、その意味でTさん的な安心感がある。ただ、尾端は霊能者ではないので、全ての原因が根拠をもって明らかというわけではなく、また尾端による対処を経ても、それで本当に片がつくのかは分からない。明確に後日談が語られるわけではないので、そのあたりの不安は、実は読んだあとも何となく続く。
本作は全6篇収録で、前半3篇については意図的だと思うのだが(勝手に思っているのだが)、問題が解決された様子がはっきりと描かれない。尾端が出てきて、多分これでうまくいくんだろうなという感じはするが、ちょっとリドルストーリーである(といはいえ高い確率でハッピーエンドなのだろうとは思う)。1・2巻はどうだったか定かでないのだが、もう少し事件「後」の話もしていた気がするものの、気のせいかもしれない。
収録2作目と3作目である『火焔』と『歪む家』を続けて読んで、ホラーとは執着なのだろうか、と思った。この二作は、亡者ではなく生者側に視線を向けている。死んでもなお未練があると現世に留まってしまう、というのはよくある霊の描かれ方だが、この二作は反対に、生者が自身の執着によって霊(霊的現象なもの)を縛り付けている格好である。怨霊と呼ばれる存在は、おおむね存命時の恨み事を原因に怨霊化し、死してなお現世で影響力を行使するが、すなわち現世とのつながりを保とうとするが、反対も然りなのである。ただ、存命者が強い恨みを持ってあの世まで誰かを追い掛けにいくような描かれ方は、絶対にどこかの作品ではなされているが、あんまり見た覚えがないので、そこは非対称的なのかもしれない。
『茨姫』は最後を飾る作品として非常に適切で、清々しく余韻がある。悪い存在が出てこないからだろうか。悲しい話ではあり、実際問題として取り返しはつかないのだが、それでも救いがあるように感じられた。植物のような物言わぬ存在が、行為を通して意思を表示しているのがよい。和解も含めたその描写がよい。それで言うと、本シリーズはどの話もそうであるというか、相手にしているのは霊ではなく、物自体だとも言える。ただ、例えば付喪神は霊なのか物なのかと問われると正直よくわからないし、意思を持った物は依然として物と称してよいのかも分からない。死者が物に憑くのか、物自体が擬人的な死者化するのか。そしてそこに差異はあるのだろうか。