死に物狂い

他人から影響を受けやすい人間のフィクション日記

本当のファンではない

「推される」対象が何かしら炎上または炎上らしき事態に陥った時、そこには多種多様な人々が集まってくる。さながらキャンプファイヤーであり、古のインターネットが祭と称したのもよく分かる。とはいえ、そのようなある種牧歌的な形容をしてよいものかは燃え具合にもよるのであって、結局犯罪行為でもない限りはゴシップの延長線上でしかなく、人の噂も七十五日であると、これもまた古くから言われるとおりである。

 火のない所に煙は立たないが、今では無理矢理に燃やそうとする人も珍しくなく、結果としてボヤ騒ぎが起こるのも日常茶飯事であり、しかし一歩引いて見てみると、そもそもそんなに燃えてなどおらず、気にしているのも関係する界隈とその周辺だけで、世間はそのような出来事を認識することすらなく、変わらぬ日常を送っていることもままある。何かしらの騒動が起こって実害(精神的なものを含む)を被るのは、渦中にいる本人であり、そのファンであり、それらを取り巻く経済圏であって、それらに含まれない人々にとっては至極どうでもいい話でもある。

 ある騒動が起きたとして、それを見聞きしたファンが皆一様の感想を持つかは定かでない。もちろん、よっぽどの極論が展開されているとか、過度に燃やされようとしている場合には、さすがにそれはとなるのが人情であるように思うが、そうとも言えない状況であるならば、当然ながら受ける印象も人それぞれということになる。

 そこにはグラデーションがある。一言でファンと言えども、関わり方からお金の使い方まで様々である。そうであるがゆえに、応援する対象に持つ感情も個々人によって異なる。このようなことはあえて言うまでもない気がする一方で、一様であることを前提にファン像が語られることが少なくないような気もする。

 特に視野が狭まっている場合に、どうにかしなければとの善意からそうなるのはありがちである。例えば、騒動の元となった事項が真実であるとの前提で「本人が辛い思いをしているこのような状況こそ応援すべきである」といった気持ちを抱いているファン。一昔前なら、のび太のセリフが引用されていたかもしれない。善良であるのだが、実態にかかわらず騒動を真実とみなしている点で危うさも感じられる。

 または、「真実かどうかわからないが、真実だとしてもこれまでどおり応援する」との姿勢を見せるファン。これもまた善良であるが、真実だとしても、との仮定を置くのは、真実であるかどうかを一応留保しているのであって、今後自身の価値観とそぐわない真実が明らかとなった場合には、応援しないとの選択を採る可能性を残している。

 このような分類も、分類と言うにはあまりに大雑把なものだ。より細分化すれば、例えば「これまでどおり応援はするが騒動に関する説明はしてほしい」といった、無条件での応援をためらう人もいるだろう*1。ファンというのはそういう層が折り重なっていて、多少大袈裟に言うと、ルーツも生活様式も異なる人々が、特定の対象を応援するという合致した目的の下に集っているのである。

 しかしながら、そのような現実が捨象され「本当の(本物の)ファン」として定義付けられることがある(気がする)。つまるところ、そこで言われる本当のファンとは、応援の対象によって語られる言葉だけを真実とし、あるいは語らなかったことをないものとする。無謬と全肯定から成る点で極端ではあるが、彼ら/彼女らからすれば、それらに異議を挟む者は本当のファンではなく、もはやアンチと呼ばれる存在と化してしまう。

 これも分極化の一事例であろうか。アンチと称するのが妥当な人々はもちろんいる。しかし、ファンと呼ばれる人々をそのようにひとまとめにできるかは難しい。ファン同士で、お互いに「本当のファン」ではないと切断処理をしていけば、最後にファンとして残るのは果たしてどのような存在であろうか。とはいえ、ファンがファナティックの略称であることからすれば、本来的にそうであるというだけなのかもしれない。

 

*1:説明を求められる側として、このような文脈では、それに応える義務はない点に留意は必要である。突き詰めれば、説明したほうが今後の経済的利益に繋がるかどうかで判断されるものであって、説明しない方がメリットがあるのであれば、その選択を採るのはいたって当然のことだろう。つまり、ファンをどの程度納得させる必要があるのか、ということでもある。