死に物狂い

他人から影響を受けやすい人間のフィクション日記

財布を拾わずして拾う

 毎度のごとく22時も回ろうかというところで仕事を終えて帰っていると、つま先で盛大に何かを蹴り上げてしまった。何やら若干の重みがあり、変なものでなければよいがと目線を落とすと、革細工のようだった。スマホの手帳ケースのように思われたそれを拾い上げてみると、スマホにしては縦横に長い。実際のところ、それは分厚い長財布だった。

 現代人からすれば、スマホとどちらがより大切だろうか。人によるとしても、目の前にある財布にはいくつものクレジットカード。さらには運転免許書が入っており、それらを「どうでもよい」と捨て置ける人は世の中にまずいないであろう。

 拾い上げて数秒考えたのち、私はその財布を道の端に置いて再び歩き出した。最寄りの交番がどこにあるかは知っていた。しかし、もう通り過ぎてしまってもいた。そう遠い距離ではない。しかし、今から交番に戻るとすると、帰りの電車は1本か2本遅れることになる。そのようなタイムロスは、残業帰りの身体にとって即効性の毒になるのだ。落とし主には申し訳ないが、今まで(と言っても落とされてからどの程度の時間が経っているのかは分からないが)誰にも取られていなかったのだから、おそらく大丈夫だろう。それに、落とした場所から変に動かすよりも、そこに残したままの方が探しやすいはずだ。などと様々に理由をつけつつ、足早にその場を去ったのだった。

 しかし、2、3分ほど歩く中で、はたしてそれでよいのかとの声が、繰り返し頭の中に響いていた。神でもなんでもなく、私自身の声である。現代でもなお治安がよいと言われる日本とはいえ、明らかな金銭の塊を、人通りのそこそこ多い街中に放置しておいて本当によいのだろうか。そこにあるのを知っているのに。よいか悪いかで言えば別によいのだろうが、心配と言えば当たらずといえども遠からずな気持ちを堪えきれず、歩いてきた道を戻り、財布のもとへと向かっていった。もしも、もう財布がなかったとすれば、それはそれでよい。落とし主が拾ったのかもしれないし。まだあったとすれば、それは戻ってきてよかったということだろう。そして現場に到着すると、財布は先ほどと変わらない姿でそこに残されていた。

 

 そういえば、落とし物を交番に届けるのは生まれて初めてかもしれない。そもそも交番に入るのも。入り口の戸を開けて少し待っていると、奥からお巡りさんがやってきた。「どうしました」と聞かれるので、「落とし物を拾ったのですが」と応える。ああ、と慣れた手付きで財布を箱に入れ、次に「権利はどうしますか」と聞いてきた。この場合の権利とは何を指すのか。一割云々以外に何かあった気もするが、何の法律に基づくんだったっけと頭を巡らすのも疲れそうで、ただただ早く帰りたくもあったので、分からぬままに全ての権利を放棄する。それもよくある話なのだろう。お巡りさんは表情を変えることもなく、「あとはこっちでやっておきますので」とこれ以上なく頼もしい言葉を返し、非常にあっけなく、落とし物を交番に届けるとの非日常的特大イベントは、ものの数分で幕を閉じたのだった。

 

 図らずも善行ポイントを積んでしまったものだから、きっと明日には空から1兆ドルが降ってくることだろう。1000億ドルでもよい。約束された勝利に心を躍らせながら歩きつつ、一方で私は考えていた。私はどうして、わざわざ財布を拾いに行ったのだろう。

 まずもって、どうして私は財布を自分のものとしなかったのか。それはそのようにするメリットがどこにもないからである。幸運にも日銭には困っておらず、危ない橋を渡る必要はない。しかし、もしも食うにも困る状況であれば、むしろ落とし物を天啓とみなしたかもしれない。窮地の私に神が憐れみをくれたのだ。その際には、クレジットカードの不正利用で簡単に足がついてしまう、などという発想には至らない。メリット・デメリットを比較することもしないし、できないだろう。一方で、今の私はそのような状況に置かれてはいない。だから少なくとも懐に収めることはしなかった。

 その上で、当初そうしたように、捨て置いたまま去る選択肢もあっただろう。それをしなかった理由の一つは、何か試されているのではないか、という感覚である。私はキリスト教を信仰しておらず、試練を与えるタイプの神の存在を現実のものと思っていない。そのほか特定の信仰もない。それにもかかわらず、お天道様が見ている精神(それもまた信仰であろうが)は持ち合わせていて、加えて因果応報的なアレへの恐れは捨てられないのであって、しかも落とした財布の見つけ方といえば、それを蹴って気づいたというものだから、もはやこれは人生のターニングポイントにすらなりうる事象ではないかとの感情がもりもりと膨れ上がったということである。それは言い換えれば、善いことをすれば自分にも善いことが起こるはずだ、との確証のない損得勘定でもある。

 ところで、特段の宗教教育を受けていないのにもかかわらず、このような思考が私に根付いている理由は何であろうか。小・中学校の道徳教育はそれほどに影響力を持っていたのか。それとも国語の授業か。虎になってしまったのは因果応報なのか。的は外していないのかもしれない。もちろんそれだけではなかろうが、創作物を経由して、何となしにでも世界に対するスタンスを形成していくのだろう。思春期にウシジマくんを読んだ方がよいと言われる(言われていない)理由はそこにある。創作物も結局は人の手で作られるのであって、しかも目に触れるものの多くは出版社等のフィルタを通しているのだから、そこには社会の有り様が多かれ少なかれ反映されている。

 よりシンプルに、自分が落とした側の立場だったら拾ってもらえたほうが嬉しいだろう。それで終わる話でもある。何も小難しく考える必要はない。しかし、それで言うと、もしかしたら拾ってもらえているかもしれない、との期待を覚えること自体も、何も当然に至る思考ではないと思うのである。

 

 ともあれ、そんなことはどうでもよいとも言える。財布を拾わずして帰っていた場合を考えれば、今これほどの清々しい気持ちで一日を終えられているのだから、それだけでもよいではないか。明日には1兆ドルも得られることだし。と、意気揚々と翌朝を迎えた私のもとに降ってきたのは1兆ドルではなく、山のように積み上がる仕事だったのだが、ここに因果応報があったとするならば、私にとって労働とは、善行の結果得られるありがたき褒賞なのだろう。そんなわけあってたまるか。