死に物狂い

他人から影響を受けやすい人間のフィクション日記

『介護者D』を読んだ(あるいは、役割を得ることについて)

 

『介護者D』を読んだ。以下は感想で、本作のネタバレを含み、引用箇所のページ数表記は書籍版のページ数を示す。

 

 

 主人公の琴美は、東京で派遣社員として暮らす独身の30歳女性。父親の介護のため札幌に帰る。もともと特に明確な目的があって東京にいたわけではなく、肉親からの呼び戻しに応じない強い理由もない。

 元教師で昔気質な父親と同居し、介護を行う。介護に伴う動作一つ一つが、親子の間に摩擦を生む。血が繋がっているからこそ言えることもあれば、言えないこともある。そして言えないことが段々と積み重なり、それがゆっくりと子を蝕んでいく。

 この時点で琴美と同年代の私は呼吸が苦しくなったが、それは想像するのが容易いからだ。途中、いたるところで琴美を自分に置き換えて読んでしまった。気を使ってるんだか使ってないんだか分からない父親の態度や言動。それらにいらつく自分。しかし真正面から意見はしない自分。相手から勝手な態度を取られても、それによって負の感情が煮詰められていっても、家族であるがゆえに、家族であるからこそ、対応できてしまう。ただ、それをいつまで続けられるか。そのうち自分が壊れてしまうだろう。

 デイサービスやショートステイの利用は、現実的な対応策の一つである。しかし、被介護者本人が、そういった場所に明確に「行きたくない」と言う場合、それでも強要することができるだろうか。やはり家族であるからこそ、難しい。行く・行かないで言い争うのも気が引ける。自分が頑張れば丸く収まるのだから、四の五の言わないでよいのではないか。この思考は、介護の全てに関わってくる。認知症の検査や特養入居の検討。本人の意志に沿わない結果、今の生活がこじれてしまうのであれば、少しでも穏当に、との思考が優先されるのも、想像に難くない。

 このような疑似体験を経て思ったのは、一人で行う介護がいかに無理のあるものか、ということだ。肉体的・時間的な意味でもそうだし、精神的にも厳しい。この生活がいつまで続くのか。将来にも希望を見出だせない中(むしろ今より厳しくなる可能性が高い)、平均寿命と照らし合わせて(それが好ましい行為ではないと自覚したうえで)、その長さに軽く絶望する。

 ただ、本作は日常のすぐそばにある介護の恐怖、みたいなものをあげつらうわけではなく、淡々と現実を描いていく。正直に言って、自分の身には起きてほしくない。でも、起きるかもしれない。そして起きれば逃れられない。それでも人生は続くのだということを、清々しさをもって描いている。だから読み終えたときの余韻は、全く悪くなかった。

 

 

 本作のメインテーマは介護にあるが、並列して、「承認」や「役割」といった要素もテーマに含まれるのではないかと感じた。しっかり言語化したいのだが、できないまま限界に達したので、以下書きながら検討してみる。

 

 琴美にはいわゆる「推し」がいる。6人組女性アイドルユニット『アルティメットパレット』のメンバーである『ゆな』は、主人公の目を通して、溢れんばかりの笑顔を振りまく、魅力的な存在として描かれる。ステージ上のトラブルさえも追い風に変えてしまう、プロフェッショナルであり、自分にないものを持つ人間。いや、自分と同じ人間ではないのかもしれない。彼女はまさにアイドルである。

 

「『ゆな』達、これからもっともっと、武道館行けるぐらいに頑張っちゃいますからね!」
 その声が脳髄にながしこまれた瞬間、琴美は自分のすべきことを理解した。
 この子を。『ゆな』を、見守るのだ。彼女と彼女のグループがもっともっと大きくなって武道館に行き、さらにその先にある高みに至るまで。
(22頁)

 

 最初に本作を読んだ際、琴美をアイドルファンとして描く必要はあったのか、と思った。琴美にこの属性がなかったとしても、物語は成立するように感じたからだ。琴美への感情移入を深める効果はあるだろう(特に私のようなオタクが読む場合)。ただ、そういった技巧的な理由のみならず、琴美はアイドルファンになるべくしてなったのではないか、という気もする。

 琴美は特定の社会的な役割を持たない人間だった。ここで言う役割とは、代表的には「親」のことを言い、(無条件に)他者から必要とされる存在を指す*1。琴美は家庭を持っておらず、母でも妻でもない。また、会社で部下を育成するような役割でもない(あるいは、特定のプロジェクトに関し、余人を持って代えがたい存在として携わっているわけでもない)。

 遡ると、琴美は妹の紅美に劣等感を抱きながら生きていた。紅美は自分より優秀(主に勉学の面で)で、両親は悪気なくそんな二人を比べる。明確に比べる意識はなかったのかもしれない。ただ、少なくとも琴美としては、自分が比較されてきたと認識している。

 言い換えれば、琴美には、自分は親に期待されてこなかったとか、期待をかけられるほどの役割を得られなかった、との感覚があったのではないか。この反動によって、琴美は、他者との関係において、何かしらの役割を得ることを欲していたのではないだろうか。

 誰かのファン、特に追っかけをするレベルのファンというのは不思議な存在である。私自身、ライブのために全国を回った経験があるから、なおのこと思うのだが、どうして血縁関係でもない、真に他人である存在に対して、そこまで時間的・経済的資源(さらに言えば精神的資源も含め)を投入できるのか。客観的に見れば謎である。もちろん、エンタメとして楽しんでいるのは間違いない。楽しいからライブに行くのである。ただ、それだけではない。私もそうだったが、応援することそれ自体に一定の価値を感じている人もいる。

「推す」という言葉は、それまで数ある消費行為の一つでしかなかったファン活動を、主体的な要素をも含む行為として捉え直したものである。この点、本質は応援する側の役割を解釈し直したところにあるように思う。誰かを応援することは、応援される側との関係において、一種の特別な接触を生み、その結果、応援する側にも社会的な役割を与える。時にファンは演者に対して「生まれてきてくれてありがとう」などと大げさな物言いをする。一方で、演者はファンに対し、「見つけてくれてありがとう」などと、これまた大仰な表現をする。これらの言葉が持つ意味は、基本的には文字通りなのだが、それらに加えて、お互いに「あなたは必要な存在なのですよ」と投げかけているのではないか、と思う。つまり、ファンは演者を推すことにより、誰かを応援する人、との役割を得られているのである。

 そう考えると、アイドル産業というのは、よく言われるような性欲を基底とする疑似恋愛体験を提供するのではなく(言わずもがなその側面もあるだろうが)、金銭を介して(現実世界と比べて相対的に)容易く社会的な役割を提供するサービスだと言えるのではないだろうか。

 

 琴美は『ゆな』を推すことによって、仮想的に、社会的な役割を得られていた。しかし、「親の介護を行う子」という(欲していたはずの)社会的な役割を図らずも現実に得ることとなった。だからといって、『ゆな』を推すことを止めはしない。これはどうしてか。

 その役割が、琴美が欲していたものではなかったからか。あるいは、より単純に、役割を得られたとの感覚に乏しかったからではないか。父としては琴美にそばにいてくれたほうが助かる。しかし、琴美がいなければ生活できない、といった状況までにはない。介護サービスに頼ることもできる。琴美は不可欠な存在ではないのだ。少なくとも、介護という側面においては。

 

 だから、琴美も『ゆな』を推すことを止めなかった。そうすることで、変わらず自らが望む役割を得られたからだ。

 しかし、コロナ禍のあおりを受けて、アルティメットパレットの解散が決定し、『ゆな』は引退を選ぶこととなった。

 

 入場数を絞ってリアル開催されることとなったラストライブに、主人公は赴くことにする。コロナ感染拡大の中、父は琴美が都会に行くことを心配するが、琴美としては当然ながらそんなことを言ってられない。琴美の熱意に負けて、父はしぶしぶ渡航を認める。

 

「感染対策には、本当に気をつけるんだぞ。若くても、重症化する例はあるんだから」

 どこかしぼんだようなその声に、心の芯の部分が痛む。親なんだ、と琴美は思った。娘に面倒を見てもらい、人生の終わりを見据えつつ、やはりこの人は親で、私は娘なのだ。

「言うこと聞かない、出来の悪い娘でごめん」
 気持ちよりも先に口が勝手に懺悔した
「馬鹿ったれめ」
 存外軽いその返事を、琴美は明るい否定と受け止めた。受け止めることができた。
 (273頁)

 

 父の言葉を一度受け止めて、そして受け止められたことを自認する。私はここで、琴美が真に役割を得られたのだと思った。つまり、「父親の子」との役割をようやく得られたのである。介護という現実的に必要に迫られた事情によるものではない。また、他の誰かが代替できるものでもない。琴美が真に欲していた、無条件に必要とされる存在になれた。ただ、それはもとからそうだったのだろう。父の琴美に対する視線は昔から変わっていない。だからシンプルに言えば、琴美は自分が持っていたコンプレックスを乗り越えた、ということなのだろうと思う。

 

 現実に役割を得た琴美は東京に行き、これまで仮想的に役割を与えてくれていた『ゆな』の、アイドルとしての最後に向き合うことになる。ライブ後、お見送り会で久々に主人公の姿を認めた『ゆな』は、アクリル板越しに泣き出してしまう。

 

「しばら、くっ、見てなかった、からっ、お元気か、心配、でっ」
 営業用の顔なんかではない、ただの女の子の鳴き声で、必死に琴美に訴えかけている。


(中略)


 泣きながら必死に何かを言おうとしている姿が、琴美の記憶のある場所をノックした。
 美紅だ。
 幼い頃の美紅が泣いている様子に、似ている。
 今ここにいるのは、アイドルの『ゆな』ではない。琴美にとって年下の、かわいい、ただの女の子だ。
(278頁)

 

 琴美が『ゆな』に惹かれた理由の一つには、そこに妹の面影があったからかもしれない。そして、琴美がその面影に気づけたのは、直前で自分の役割を得られたから、長らくのコンプレックスを乗り越えられたからではないか、と思った。

 

 別れ際、琴美はアイドルではない人間としての『ゆな』に、あなたは自分の一生の最推しだと伝える。もはやそこに仮想的な関係はない。とはいえ、もちろんこれはある種のファンタジーである。しかし、このような幕引きであるがゆえに、本作はただ現実を描いただけではない「物語」として成立しているのだと感じた。

 

 

 というように、あることないこと(おそらくないことしかない)を思ったわけだが、読んだ後に、そうやってあることないことをあれこれ考えてしまうのは良い本だと思う。その意味で、本作を読めて良かった。

 

 

*1:なお、このような役割の有無と人の価値(なるものがあるとしてだが)の高低が連関していると述べるわけではない。