DIE WITH ZEROとサイコロジー・オブ・マネーを読んだ。以下は感想の羅列である。
私たちは何かと貯蓄しがちであるが、それは一体何のためであるのか。目的なく貯め込むことにさしたる意味はない。将来が不安? であればどうして不安なのか。何に対する不安なのか。それが明らかなのであればよいが、そうでなければその貯蓄は無駄である。
安心した老後を過ごすため。いつか○○するため……しかし、それらは本当に来る将来だろうか。旅行なら今行けばよい。勉強したいなら今すればよい。どうして後回しにしようとする? やろうと思う時には、健康を失い、あるいはその他数えきれない理由を持って、もはや何もできなくなっているかもしれないのに……。
と、本作はしきりに無計画に貯蓄を行うことへ疑問を投げかける。それは永遠の課題に通ずる話だ。どうして私たちはお金を稼ごうとする? 時間を削って汗水垂らして夜まで働き、労働以外は何もできないようになっても、なお働こうとする?
確かに、最近はそんなことばかり考えていた。時給にして○千円のこの労働に、半ば命をかけ始めているのはどうしてだ? 稼いだ賃金で、私は一体何をしようとしているのか。休日何処へ行くでもなく、何をするでもなく、いや本を読んでゲームをしてこんなブログを書いているが、他には? これをやるだけであるならば、そもそも私はこんなに働かなくても良いのでは。しかし、それを辞められない。まあいいじゃないか。他にやることもないんだし。どうせ仕事がなくなって、仕事みたいなことをしてるよ。暇があったら不安になる。忙しくても不安になる。つまるところ、そういう人間なんだ。
そう納得しかけても、もちろん何もいいことはない。働かざるもの食うべからず、なんて言葉は糞食らえだ。しかし、現世ではきちんと労働している方が、色々好ましいこともある。そんな打算とプライドで、私は今日も働きに出る。
いつまで続けられるだろうか。続けられるうちは続けておけばよい。たまった金は複利を生み、少しずつでも増えていく。これは安心の再生産だ。しかし、その安心は何のためにある? 結局お金というのは、どこまでいっても使わなければ意味のないものだ。なにをするにも、基本的には若い時にやったほうがよい。後回しにしていることがあるならば、その理由は何であるか。本来的に資金が必要となる行為など、そう多くない。過度な貯蓄はやめ、今やりたいこと、できることに金銭的・時間的資源を使うのが何よりも好ましいのである。
本書を読んで、一通り上記のようなことを考えたのち、サイコロジー・オブ・マネーを読んだ。
「使うべき時に金は使うべき」とか「将来のほうが給与が上がる確率は高い」とはたしかにそうなのだが、これは持っている側の思考であるようにも思う。曰く、アメリカ人の4割は、いざというときのための貯蓄が400ドルに満たないそうだ(これは2018年の統計らしい)。そのような状況下で、お金は使うべきものに対して使うべき時に使うべしと言っても空言である。
もちろん、そのようにお金を消費しているからこその400ドルであるのかもしれない。しかし、私の感覚からすればやはり怖い。何かがあるかもしれない。その何かが何であるのかも不明瞭ではあるものの、漠然とした不安に立ち向かえるのもまた、物質的な充足感である気はする。
本書は、ただ貯蓄することについて意義を見出す。お金があれば選択肢を持てる。選択肢を持つために貯蓄するのではない。目的なく貯める。それが結果としてポジティブな効果を生み出すのである。
DIE WITH ZEROは浪費せよと言っているわけでは断じてない。そのメッセージは単にバランスを取ろうというものだ。しかし、そのバランスが、どの程度の偏りが適切であるのかは人によるし、さじ加減を取るのは難しく、エネルギーを使う。結果として何も考えずに金を使うか、あるいは同様にして金を貯めるかが、思考を要しないという意味で最も楽なのだ。
DIE WITH ZEROはそのように思考しないこと自体も批判するが、使うのはともかく、何も考えずに貯めていく行為が悪いわけもない。なぜなら、貯蓄は何かしら選択肢を与えてくれる行為だからである。
そもそも何に使うというのか。受動的な選択肢はたくさんある。病気になったときのため、仕事をやめたときのため、やりたいことができたときのため。これらの時間軸は今ではない。いつまでも「いつか」なのである。そしてその「いつか」がいつ来るのかは分からない。
そうすると、お金の使い道を思いつけないことがよろしくないのか。それもまた一つの事実だろう。使い道がないのに、賃金を得るために労働する必要はどこにある? 少なくとも、それほどに重い労働をする必要はどこにある? きっとどこかにはある。それこそ、余剰や余裕を持つことにほかならない。
あれもこれもそれにしたって、別に金を払ってまでやりたいことではないのである(この思考がすでに妙だ)。しかし、タダならやるのかと問われれば、それも違う。もしも5000兆円があったら? 本を買うだろう。ゲームを買うだろう。映画を見に行くだろう。ライブに、旅行に、ほうぼうに赴くだろう。贈り物を山ほど調達もする。しかし、そうするためにお前は金を稼ごうとするのか? それはそうだ。しかしやはりそうではない。私にとって、それらはしなくてもよいことである。一方で、しなければならないと思うこともない。それでも私は働くのであって、どうせなら賃金は高いほうがよいのであって、そして金を貯めるのである。いや、能動的なアクションですらない。ただ働いて、口座の数字が増え、株式市場に少額が自動的に投入されていくのである。
これらは決して無駄な連環ではない。私にとっては一定の余裕を確保でき、世の中にとっては少額であれ税の形で還元される。いいことづくめである。本当に?
その答え合わせはこの世を去る時なのだろうが、それがすぐには来ないと思いこんでいる怖さもあろう。だからメメント・モリなんだよ。メメント・モリ、でも生きてれば見えてくることもあるでしょう。そうやって生きていくのではなかろうか。このようにごたごたと考えられる平和に感謝した上で。