死に物狂い

他人から影響を受けやすい人間のフィクション日記

『「推し」の科学』を読んだ

『「推し」の科学』を読んだ。(引用中のページ番号は本書(書籍版)におけるページ番号を指します)

 

 

「推し活」を能動的な行為が伴うファン活動と捉え、いわゆる従来のファン活動とは区別した上で、さらに推し活とはプロジェクションであるとして、推し活とは何かを紐解こうとしていく。あるいは、推し活を題材にプロジェクションとは何かを説明する、としたほうが内容の説明としてはあっているかもしれない。まえがきがキンプリの話から始まる(有益な情報)。

 

 プロジェクションという概念自体は2015年に提唱され始めたそうで、まだまだ発展途上と見受けられるが、考え方としては「たしかに」と感じられるところがあった。

 すなわち、プロジェクションとは、情報Xを発する存在A(ソース)がいたとして、自分(主体)がAからXを受けた際に得られる表象Y(イメージ)をさらにAに対して投射する(投射されたものをターゲット)……という一連のシステムを言うとのことだが、文字で書いてもよく分からない。ちなみに、プロジェクション・サイエンス協会のホームページにも「プロジェクション(投射)とは」とのページがあるが、行間があり過ぎて、同じくよく分からない。

 この点、本書ではちびまる子ちゃんの一エピソード*1を具体例として説明を試みてくれており、これでようやく大枠をつかむことができた。乱暴に一般化するのはよろしくないが、つまりは観測する対象にどういう意味付けを行うか、ということと理解した。それすなわちオタク(主語デカ)がやりがちなことである。

 そのほか、腐女子が二次創作を行う過程も題材に説明があるが、こちらの方が、よりすっと頭には入ってくるかもしれない。すなわち、プロジェクションには①通常の投射 ②異投射 ③虚投射の3つの種類があるところ、アンパンマンばいきんまんの関係を見て、ライバル関係と捉えるのが①であり、恋愛関係と捉えるのが②であり、そんな関係を二次創作で別に展開すると③になる(②と③の境界線が難しい)。

 この理解も厳密ではないとは思われるが、ざっくりとしたままでも読み進めることはできる。それは、良くも悪くも本書はプロジェクション一辺倒ではなく、推し活一般をどう捉えるかにもフォーカスを当てているからだ。言い換えると、何の話だったっけ(プロジェクションの話じゃないんだっけ)となることがある。ただ、私ぐらいの読者であれば、その方が置いてけぼりにならずでよい。

 

 ということでプロジェクションに関わらない箇所になるが、コール・アンド・レスポンスに関する段で膝を打った。筆者曰く、コール・アンド・レスポンスを見るといつもサルを思い出すのだという(P.126)。すなわち、サルはコンタクトコールと呼ばれる行為をするものだそうで、これは群れからはぐれないように、森の中でお互いの位置を確認するために行われるものである。例えば、あるサルが「クー」と鳴くと、ほかのサルが「クー」と応答する。声を通じて、お互いがお互いの存在を認識する。

 コール・アンド・レスポンスは、観客が能動的に公演に参加できるアクションであり、その点で純粋な声援とは性質が異なる。そして、場にいる人間全員が同じ行為を行うことになるから、連帯感を高める作用も働く。私も、いくらかライブに参加したことのある身としては、そういった効果を狙って(要はライブを盛り上げるための要素として)コール・アンド・レスポンスは行われるのだろうと考えていた。

 しかし、コンタクトコールの話を聞いた上で考えると、まずもって存在確認の意味合いがあるのではと思った。つまり、演者からすれば、自分の呼びかけに応じる声を聴くことで、目の前のファンが現実に存在することを確認する。ファンも同じで、大体レスポンスに対してはさらに演者からレスポンスがあるものだから、それをとおして、目の前に演者が現存することを確認する。もっと大きな声で! というのは、熱量だけを考えているのではなくて、双方向のコミュニケーションを通じて、お互いに「いる」ことを確認しているのだろう。

 なお余談になるが、本書ではコール・アンド・レスポンスから応援上映へと話題が展開されるところ、キンプリの応援上映(初見)に赴いた筆者の感想として、

私はストーリーや映像の意味がよく分からないながらも(これは誰でも初見ではわからないらしいですが)、終わってみたらとても楽しい気分でいっぱいでした。(P.132)

とあったのが面白かった。

 

 もう一つ、プロジェクションから外れた話題ばかりに言及して申し訳ないが、推しを育てる(ことに喜びを見出す)行為についても、少しばかり取り上げられている。

 個人的な感覚として、どちらかというと二次元よりは三次元のコンテンツ、有り体に言えばアイドル等を追いかけている人間に対し、そのような趣味を全く持たない人が抱くであろう感覚の一つに、「どうして他人にそこまで入れ込めるのか」というものがあると思われる。ここで言う入れ込むには、金銭的・時間的な要素を含む。さらに言えば、「血縁者でも近親者でもないのに」との趣旨も隠れていると思われる。というのは、例えば自分の子どもに資本を投下している人を見た時、(もちろん程度問題とはいえ)教育熱心だなとは思っても、その行為自体を疑問に思うことは少ないのではないか、と思うからだ。これは親という属性によるものだろう。言い換えれば、血も繋がっていない、近親者でも何でもない赤の他人に対し、決して少なくないお金と時間を使う行為は普通ではない、という感覚だとも言えよう(そしてその感覚は「極めて」常識的である)。加えて言うと、対象が二次元となった場合には、これに「現実に存在しないのに(なぜそんなにお金と時間を使うのか。無駄ではないか)」との評価が一つ加わることとなる。

 このような他者からの目に対して、何も思わないオタクばかりではないだろう(特に自身の家庭を持っていないタイプのオタクは)。ただ、筆者は「情けは「推し」のためならず」として、さっぱりと整理を試みる。すなわち、人類が辿ってきた進化の過程で、わかちあう/分け与えるという行動は、集団で生きる人間に結果として幸福を与えてきたのだとし、

わかち合う/分け与えることは人間にとって楽しみなのであり、それが自分の好きな対象へならなおさらです。さまざまな「推し活」は、「分け与えたい」という人間が持っている本来の性質が「推し」に向けられているということです。

・・・わかち合う/分け与えることの延長として、世話をして育てることで幸福になるというのは、ヒトが進化の過程で獲得した、人間本来の性質であると言えるのです。(P.142~143)

つまり、情けは「推し」のためならず、自分の幸福のためなのです。時に行き過ぎた「推し活」からふと我に返り、なんの見返りもないのに無駄なことをした……とむなしくなったり、自己嫌悪に陥るようなことがあるかもしれません。そんな時はぜひ、いやそんなことはない、私は人間としての幸福を享受していたんだ!と思い直してみてください。(P.145~146)

と述べる。

 そうか、俺たちは人間としての幸福を享受していたのか。非常に心強い言説である。その前提から勝手に展開を試みると、先ほどのように「血縁者でも近親者でもない他者に対してどうして自分の資源を使うのか」と問われたとすれば、答えは「血縁者や近親者に対して自分の資源を使うのと同じ」なのであり、むしろそれらを同じものとして処理することの何がおかしいのか(それらを異なる性質のものと捉えること自体が既存の社会規範に基づく先入観ではないか)、ということになるか。

 ただ、「推し活」には通常、商業活動(金銭的な取引)が伴うことになるから、それらを完全に同一視することはできないようにも思う。他者を推すのは自分のためと解するのは、突き詰めると「推しの幸せが自分が幸せ」となりうるが、そこには容易に搾取が生じうる。ただ、搾取がダメというのも、根本的にはパターナリズムに寄った観点であるし、そもそも筆者も手放しに一般化しているわけではない。また、血縁者等であれば搾取は起き得ないのか、との論点もある。ただ、昨今の社会情勢上、「本人がいいならいいんじゃないの」と投げてしまうのもどうかと感じるので、ここはまた別途考えていきたいと思った。

 

 と、ここまで書いてきて恐縮だが、上記の話題は本書においては傍論であり、本論はあくまでもプロジェクションである。一度目次を見ていただきたい(Amazonの試し読みで確認できる)。テーマ的に惹かれるものがあれば、本書に目を通して損はない。オタクが持ちがちな感覚について、なるほどこういう名前がついているのだと、少なからずの共感を覚えながら、筆者の筆致も合わさって楽しく読み進めることができるだろう。

 

 以下雑感の雑感。人間は自分以外の対象に対して、多かれ少なかれ物語を見出す。そして、その見出し方は千差万別で、しかし他者との間で一致することもあり、その結果コンテンツはコンテンツとして意味を持つことになる。あるコンテンツが人によって響いたり響かなかったりするのは、そこに見出す物語が人によって違うからだ。

 三次元コンテンツの場合、消費者は現実を生きる人間に対して物語を見出す。言い換えれば、彼ら/彼女らを物語的に消費することとなる。この点私は、露悪的な言い方にはなるが、言ってしまえば金を出して他人の人生を買っているのではないか(買っているにすぎないのではないか)。それははたして善いこと(定義なし)なのか、と悩まなくもない。

 一方でVtuberが流行った(ている・りつつある)一要素には、二次元のキャラクターをフィルタとして介すことで、その罪悪感と言うべき感情が多少なりとも薄れるからではないか、と思うところがあるのだが、その話は別稿に譲る(そして永遠に書かれることはない)。

 

*1:部屋の壁に西城秀樹の身長と同じ高さの印をつけて、そこに仮想的に西城秀樹の姿を見出すという話