死に物狂い

他人から影響を受けやすい人間のフィクション日記

『ラストコールの殺人鬼』を読んだ

『ラストコールの殺人鬼』を読んだ。

 

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 ミステリかと思って手に取ったらノンフィクションだった。ノンフィクションでも謎解きの要素を持つ作品はあるが、本作は「犯人は誰か」に主眼が置かれているわけではなく、その点で一般的なミステリとは異なる。トリックも動機もない。あるのは、被害者たちがどのような人間だったのか。死ぬ必要のなかった彼ら一人ひとりに、どのような人生があり、またあったはずだったのか、との視点である。

 連続殺人の被害者はゲイかバイセクシャルの男性であり、1990年代のニューヨークではまだ同性愛者への差別的な視線が強く、警察当局からも真剣に取り扱おうとしない。市民も、自分には関係のないこと(自分が被害者になることはない)との感覚から、声が挙がることもない。そのような世情下において、AVP(New York City Gay and Lesbian Anti-Violence Project)からニューヨーク市警への陳情は、非常にストレートで明快ある。

我々はあなたたちの力を必要としているニューヨーク市民なのです、と警察に訴えた。私たちが私たちであることで、被害を受けているのです。(p125)

 公的機関を頼れない、どこにも味方がいないといった状況が、いかに生活を不安定にするかは想像に難くない。比較するのが適当なのかは横に措くと、龍が如く0をプレイ時、危害から逃げるところがない感が尋常でなくしんどかったのだが、フィクションですらそうなのであるから。

 

 不勉強ながら知らなかったのだが、同性愛者を被害者とする殺人・傷害等の事件において、加害者側の弁護手法としてゲイ・パニック・ディフェンスと呼ばれる抗弁があるらしい。本書では三つ類型で整理されている。

①被害者の性的指向を発見したことが、加害者を殺人に駆り立てるに十分:挑発型

②被害者の同性愛の発覚が、重大な身体的危険になると加害者が信じるに十分だったとする:正当防衛型

性的指向を知ったことで、短期間のうちに精神的バランスを失い、殺人を起こした:精神疾患型。心神耗弱型(p127)

 同性愛者とはそういうものである、といった認識を前提にロジックが組まれている感じがして、そしてそれが妥当とされる当時の風潮や世論はいかなるものかと思わざるを得ないが、現代ではこのような抗弁自体を禁じる動きも出てきているらしく、それだけ社会的な風潮は変化していると捉えることもできるだろう。言わずもがな、性犯罪自体は咎められて然るべきである一方、性的指向それ自体が他者に被害を及ぼすことはない。

 

 ニュース情報で見る被害者の氏名は、それだけではただの文字情報であり、例えば年齢を見て「まだ若いのになあ……」といった感情を覚えることはあれど、被害者自身の人生に思いを馳せることは少ない。しかし、程度はどうあれ個々人に多様な生活があったはずで、それらが当然に失われる理由はないであろう*1

*1:もちろん、加害者側に対する、なぜ起きてしまったのかとの視点も忘れてはならないのであるが