〔追記ここから〕
本記事をもう少し煮詰めたものを作成しました。よろしければどうぞ…。
〔ここまで〕
1/23(水)、声優ユニットWake Up, Girls!のラストアルバム、『Wake Up, Best!MEMORIAL』が無事に発売された。公式Twitter上では、WUGちゃんたちが都内のアニメショップを周る様子が投稿され、また一部ワグナーからはその目撃情報が寄せられることとなった*1。
いつのことかは定かではないが、休日朝の関西ローカル番組において大阪と東京が面白おかしく対比されていたのを覚えている*2。そこでは、「SMAP*3が生活している街というだけで東京の優位性は揺るぎない」という結論が導き出され、スタジオは笑いに包まれていた。
当時は「いやいやそれは言いすぎやろ」と半笑いでその様子を見ていたわけだが、今となっては深く頷くことができる。「東京にはWUGちゃんがいる」ということだけをもって東京の文化的優位性は証明されているのだ。やはり東京一極集中はよくない。
と、そんな粗い地域格差論議をしたところで実益はないところ、滾る感情を抑えられないオタクが取れる唯一の行動は何か。もちろんポエムを書くことである。というわけで、長野公演前の景気づけも兼ねて、MEMORIALに収録された新曲4つを聴いた感想を書いておくことにした。以下は新曲のネタバレ、長文(11,000字程度)およびいつものこじらせた諸々(主に歌詞絡み)を含むため、お読み頂く場合には注意されたい。なお、論理は破綻する傾向にある。
新曲4つは『新・劇場版 Wake Up, Girls!』を彩る楽曲群である
『海そしてシャッター通り(以下「シャッター通り」という。)』から『さようならのパレード(以下、「さよパレ」という。)』の一連を聴き終わったときに感じたのは、「4曲で世界が完結している」ということであった。より具体的に言えば、シャッター通りがOP、『言葉の結晶(以下、「結晶」という)。』と『土曜日のフライト(以下、「フライト」という。)』が劇中歌、そして言わずもがな、さよパレがEDの役割を果たしているように思えた。
シャッター通りはアニメ導入部の「朝ぼらけの誰もいない港町と坂道の映像」のバックで流れていそうだし(途中でスタッフの名前とかが表示されるとなおよし。適切なイメージを示せないのが非常に歯がゆい。)、さよパレにはスタッフロールが似合う(後日談的映像が流れているとなおよし)。結晶とフライトは劇中の出来事に合わせて適当なタイミングで聴くことができるだろう。それは苦難のシーンかもしれないし、はたまた決断のシーンかもしれない。
とはいえ、残念ながら言うまでもなく『新・劇場版 Wake Up, Girls!』なんてものは存在していないし、近時に公開される予定もないであろう。したがってこれは大いに与太話であるのだが、一方で「既に私たちは『新・劇場版 Wake Up, Girls!』なるものを見ているのではないか」という気もしてくる。
すなわち、「HOMEツアー自体がまさしく『新・劇場版 Wake Up, Girls!』なのではないか」ということである。過去から述べているように、私はWUG以外の、アニメと現実がリンクするような作品に明るくない。だから、初めてこういった世界に触れていることが、その印象を増幅させている面もあるだろうが、それにしてもWUGちゃんの持つ物語性はあまりにも強いように思う。現実がフィクション化しているのである。
解散という事実がブーストをかけているところもあろう。しかし、Part1から始まったこのツアーは、Part2で夢の世界を作り上げながら、メンバー各々の故郷を周り、各人が秘めた想いを多様に表現し、Part3で一直線に門出へと向かわんとしている。しかも道中でSSAでのFINAL LIVEも決定した。振り返って思う。「そんなこと現実にありえるの?」 どこまでが決められた脚本だったかというのは論点ではない。ワグナーも含めたあらゆる人間が力をあわせることによって、現実とフィクションの境界が薄くなっているのである。*4
そもそもツアーには何らかの物語性がついてくるものかもしれない。ある物事が一定の期間に連続で行われるというだけで、そこに何かしらの作用は働くだろうからだ。だから気になるのは、過去のツアーはどうだったのだろうということ。BDで見る限り、そういった要素は感じられない。しかしこれは、私がその時その場にいなかったからに過ぎない。HOMEツアーを知らない人が、後にライブBDを見たとしても、そこから私が感じているような物語性を得ることは難しいだろう。
その上で、しかし私はHOMEツアーの持つ物語性の強さを主張するとともに、そのように、もはやフィクションと化した現実のステージ一連が『新・劇場版 Wake Up, Girls!』なのだと解する。そして、この素晴らしい4曲は、WUGちゃん7人の最後の作品であるこの劇場版を彩るために作られた曲でもあるのだ。
海そしてシャッター通り
音楽を聴いて、すっと風景が脳裏に浮かぶという経験はあまりしたことがない。しかし、この曲を初めて聴いたときに、私の頭には「HOMEツアーで訪れた街々」の姿がありありと映し出された。
おそらく思い起こされる情景は人によって違うのであろう。田中美海さんは東北の風景が浮かんだという。私の場合は、私とWUGを結びつける一番強いものがHOMEツアーだからそうなった、ということだと思われる。
歌詞を見ても、(少なくとも表面的には)どこか特定の場所を歌ったものではなさそうだ。ただ辺りの描写はなされている。(冷たそうな)北風が吹き、海があり、雪が降る街。そしてシャッター通り。そんな懐かしくて愛おしい「私の街」。
ふと、WUGちゃんの出身地は全て当てはまりそうだなと思った。とはいえ正確な市町まで把握しているわけでもなく都道府県レベルの話である上、内陸県の方が少ないから該当して当たり前ではある。しかし、そのように広く故郷を想った歌と解するほうが個人的にはしっくりくる。これは私が、熊本公演の『わたしの樹』を引きずっていることも多分にあろうが、だからこそ「私の街」と表しているのではないだろうかと考えている。
錆びない想い出を 抱きしめるように
ひたすらただ歩く 懐かしい 愛おしい 私の街
もう一つ気になるのは、この曲の視点の時間軸である。なぜだか、この曲は「今の視点」ではないように感じている。もう少し未来。具体的には10年後ぐらいに街を訪れて歌っているような感覚である。時計が動き出し、そして動き続けるところにそんな印象を覚えた。
言葉の結晶
熊本公演で聴いたときには「ステージ上だけで完成している曲だ」と感じたものだが、音源で聞くと「ステージ上で完成する曲だ」と考えを改めることとなった。未完成という言い方はおかしく、「物足りない」と表現するのが正しいだろうか。あらゆる振動と、あの孤独な無音をもう一度全身で受け止めたいと思ってしまう。それが叶う機会が残り数えるほどしかないのは純粋に残念である。
できるだけ頭をこねくり回さず、歌詞をストレートに理解しようとするのであれば、浮かび上がってくるのは「ステージに立つ者の苦悩」である。「アイドルの」と言ってもいいかもしれない。とすれば、名も知らない第三者を想定するよりかは、主語はWUGちゃんだとした方が分かりやすいように思う。
あなたに 誰かに 聴いてほしいことがある
想いの 言葉の結晶
後の歌詞もそうだが、のっけから「聴いてほしいことがある」ということは、「あなた」や「誰か」にはまだ聴こえていないということになる。ただ「誰か」は以降、基本的に登場しない。だから真に伝えたい対象は「あなた」であり、ワグナーとして解しておこう。そしてその伝えたい内容は「言葉の結晶」。しかし、この結晶が何なのかは判然としない。
ともあれ、なかなか想いは真っ直ぐに届かないようである。伝えたい結晶はひび割れてしまい、本来の意図からはズレていく。その度に、ひび割れた、傷ついた結晶を一人で磨き上げるのだが、それは繰り返しでしかない。また結晶は割れてしまう。
伝えたいことが伝わらない。どうすれば伝わるのかと悩み続け、答えを出す。しかしまた歪んでしまう。ライブで聴いた時に、舞台上のWUGちゃんたちに非痛感を覚えたのはこの歌詞が原因だったのだろうか。CDほどに感情を殺せていない彼女たちの声はどこか痛々しい。「伝えたいこと」とは何だろうか。それこそが言葉の結晶ではあるのだが。
存在だけで 美しいもの
「舞台上の存在」そのものであり、WUGちゃんと言い換えることもできるか。彼女たちにとって「美しくない」ことは許されない、とは言い過ぎかもしれないが、「美しいもの」あろうとする一方で、そうなれないことへの葛藤を示唆しているように思える。と言いつつ、その逆かもしれない。つまり、「美しいものになれない」ことの葛藤なのか、「美しいものにはなりたくない(自分を偽りたくない)」ということの葛藤なのかは(私が勝手に)悩んでいるところである。悩む原因は、2番最初の歌詞の取り方を決めあぐねているからである。だがその前に、
私もいつかは みせよう 贈ろう
綺麗な波長と 優しい笑顔で
最後まで演奏を続けるこの船
強さが あなたに届くと信じる
「船」はWUGというユニットを指すのか。それともHOMEツアーを指すのか。いずれにせよ、WUGちゃんの強い所信表明である。ただ時間軸は「いつか」であり、広がりを感じさせる。結局WUGちゃんとしては、まだ「あなた」に、本当に伝えたいことを伝えられていないという感覚なのだろうか。何を伝えたいのであろうか。それこそが言葉の結晶ではあるのだが(二回目)。*5
いつでも微笑んでいるドールの
怖さに今は気づいている
問いかけるような瞳 もの言わぬ声だった
先述した判断を決めあぐねている歌詞である。ドールはアイドルとしての完成形と言えるか。どんなときでも、どんなことがあっても常に笑顔を崩さない。それを怖い(あるいは不気味)と感じるのは普通の感覚であろう。ただその怖さというのが文字通り恐怖の意なのか、ある種の畏敬の念を示すのかが私には分からないのである。
つまり、「私もドールのようになりたい(しかしなれるだろうか)」なのか「私はドールのようにはなりたくない」なのかどちらなのだろう、ということである。その上で私は、ここまでのツアーを通して見てきたWUGちゃんの姿と、個人的な趣味から、後者としてここを解したい。
すなわち、WUGちゃんは舞台に立つ者として「美しいもの」であることを求められているわけだが、その前提のもとに他者に何かを伝えようとしても、どうにもうまくいかない(と感じている)。それは究極的に自分を偽っている部分があるからであるものの、かといって(職業上)本当の自分を全て出すわけにもいかない。何とか折り合いを付けなければならない。そのためにあらゆる試行錯誤を行う。たとえ自分が傷ついたとしても。そこまでして伝えたいこととはなんだろうか。(三回目)
最後に感謝を みせよう 贈ろう
綺麗な波長と 優しい笑顔で
最後まで演奏を続けるこの船
強さが あなたに届くと信じる
我ながら安直ではあるが、三回の思案をもってたどり着いた答えは「感謝」である。WUGちゃんが「あなた」に伝えたいことは感謝であった。そのために身を削っていたのか、と考えると言葉にならない。
しかし、この時点ではまだ感謝は「あなた」に届いていない。いや、仮に感謝と解するならば、私たちは、現実的にはもうありありとその気持ちを受け取っている気がするのだが、それはそれとしておく。WUGちゃんとしては、船がその航路を無事に終えた時、終えきったときに初めて伝わるものとして考えているのかもしれない。
一粒 星が残った
輝きだけが 言葉の絶唱
かくして、船は演奏を終えたが、そこには星、すなわち「言葉の結晶」が残っている。すべてが終わっても、「感謝の気持ち」だけは、これからも永遠に残り続けることになるのである。そして、ライブの照明演出を念頭に置くと、残る場所は舞台の上だ。舞台からWUGちゃんたちの姿が消えても、感謝の気持ちだけはそこに残り続けるのである。
以上のように解すると、冷たい曲調とは裏腹に、徹頭徹尾「どのようにして感謝の意を伝えるか」を歌った曲と言うことができる。言うまでもなく、これは希望的観測にすぎないが、後から見返したときに「何いってんだこいつ」とは面白がれるように思うので、私個人の現状の解釈として残しておく。
土曜日のフライト
「チケットとプライド」を「魂のプライド」と聴き間違えたわ~うっかりうっかり、と大阪公演の感想で書いたのだが、実際にはあながち間違ってはいなかったのだと知った。まだ多少は自分の耳を信じてもいいようである。
三曲目ということもあるのか、終りが近づいていることから、はっきりと「別れ」を意識させられる曲である。ただ、この曲もよくよく考えると「どの時点を描写しているものなのだろう」という疑問を覚えるところ、サビをまたぐ度に一つ時間軸が移動していると解するのが良いように思っている。WUGちゃんたちは幾度となく土曜日のフライトを経験してきたということだ。これは概念的にも実際的にもそうだと言えよう。ただ、これについても私は熊本公演に引きずられているところがあり、青山さんの飛行機エピソードが脳裏にまとわりついているがために、そのように感じられる部分が大きい。
よく分からなくなってくるのは二番からである。
今日にかぎって なぜ彼女と遭遇
最新流行の服を着ててよかったわ
「彼女」って誰だろう。「流行の服を着ててよかった」と安心するぐらいだから、ライバル的な存在なのだろうか。しかし、同じ感情は憧れの人に対しても妥当するようにも思える(流行の分かっている人間と思われたいとの感情もありえるだろう)ところ、後の歌詞からして前者の方向で解するのが妥当であろう。
私のこと噂してたみたいね
棘は抜いておいた もうそのレベルじゃない
とはいえ、「彼女」の存在は未だ明らかではない。歌の中で設定された特定人物なのか、それとも概念的存在を指すのか。ただ、ここで特定の誰かを示しているとは何となく解しにくい。(これは感覚論である。というかこれ"も"感覚論である。)
とすると、「彼女」とは我々大衆のこととして捉えられるのではないか。噂も何も、一時期のWUGバッシングは(当時WUGに全く興味のなかった私の目にも入るほどに)激しいもので、「なんか知らんがWUGは叩いてもいい存在だ」ぐらいの空気が醸成されていたように思う。今よりも若い彼女たちに、その棘は大いに刺さったことであろう。流行の服を着ててよかったと思うのはある種の強がりである。しかし、彼女たちは強くなったということは、今の私たちが一番良く知っているところだ。そんなことでうろたえる段階ではもはやないのである。
好きの裏側 憎しみで 大人にさせられても
少女たちはいつの日にか 卒業していく
この曲で最もよくわからないところである。うーんわからん。
まず、この好きの裏側の「憎しみ」は一体誰のものか。「彼女」から繋げるのであれば、大衆のものと解するのが分かり良いが、大人にさせられるのはWUGちゃんたちと考えるのが素直と思われるところ、他者の行為によってWUGちゃんたち自身の芽生えた憎しみと考えることもできよう。言い換えれば、大人にさせられるのは誰によってなのかとも言える。
ただ、後者とすると、その後とうまく噛み合わない気がする。文脈として、ここは受け身と自発の関係になると思われるからである。広く解せば、後者も他者の影響を受けた結果であるから受け身であるとは言えるのだが、回り道である。他者の憎しみによって大人にさせられても(受け身)、いつの日か自然と卒業していく(自発)と捉えたほうが綺麗に収まるだろう。
そうすると次は「憎しみ」の内容が分からない。大衆によるものだという前提であれば、その憎しみが好きの裏側である可能性は低いだろう。単なる憎しみか、あるいは面白がる感情以上のものはない。
ここは一般論の言及として捉えるのがいいかもしれない。幼少期の男子が好きな女子をいじめてしまうように、また熱烈なファンが何かをきっかけにアンチへと転じてしまうように、「一般的に」憎しみは好きの裏側に存在するものである。
そんないたって普通の感情によって、WUGちゃんたちは大人にさせられることを余儀なくされた。なんと言われようが、コンテンツの展開が続く以上彼女たちは舞台に立つことを求められたし、「大人の対応」を常に求められ続けた。
しかしながら、WUGちゃんたちはいずれ卒業する……ここでまた疑問が湧く。「卒業」とはなにか。何から卒業するのか。どうして卒業するのか。
他者からの憎しみをいなすために、強制的に大人になることを余儀なくされたまま今日に至るが、そんな毎日にもいつか終わりは来る、といった解釈がまず思い浮かぶ。しかし、ぶっちゃけそんなことは書いていない。結局、悩みどころは、「卒業とは何か」との問以前に、そもそも「大人にさせられたことが原因で卒業する」のか、「何があろうがなかろうが、時間の流れとともにいずれは卒業するものだ」なのか、どちらかはっきりと選ぶことができないところにある。(もちろん、どちらでもない可能性も十二分にある。)
歌詞を素直に読むとの基本に立ち返れば、ここは後者として解すのが妥当であろう。しかしそうすると、「卒業」の意味がさっぱり分からなくなるのだ。残念ながら現時点では私の中に答えはない。
忘れないで でも上手に忘れて
悔しい怖い泣きたい もうそのレベルじゃない
大阪公演の感想に長々と書いたので割愛しようと思ったが、サビの度に時間軸が移動していると捉えたとき、何となくここからHOMEツアーが始まっているように感じるので言及しておくこととした。
守られている安心で 気持ちが解けていく
やはりどこか不安なのか 緊張していた
ここで緊張が緩むのは、笑顔のセキュリティを見て安心したからであり、その構成は一番と全く同じである。興味深いのは、一番最初のフライトでも、棘を抜いたり悔しいとか怖いといった感情を投げ捨てたこの時点においてでも、過去と同じように緊張をしているという事実である。力強い言葉を使い、何段もステージを上がりながら様々な決心をしてきたであろうことは、これまでのWUGちゃんの姿からも、歌詞からも伺えるところであるが、それでもなお心の底では不安が拭えていないのである。
順を追って時間軸が進んでいることを前提に考えれば、この段階では「解散」の決断をしているわけだから不安に思って当たり前ではある。 しかし、そんな不安もセキュリティの笑顔を見ることで和らげることができた。私はやはり、このセキュリティとはワグナーを含めたWUGというコンテンツを取り巻くすべての人を象徴化したものであると解したい。これは私が救われたいだけではあるが。
土曜日のフライト 魂とプライド
信じていかないと 証明をしないと
土曜日のフライト 魂とプライド
信じていかないと 証明をしないと
全く同じフレーズを二回繰り返すこと自体が、只野さんとしてはまずもって珍しいのではと思っている*6。一般的に繰り返しとは強調の意であるから、ここは強い決心の表れであろう。
最初の段階では、信じる対象はチケットとプライドであった。それは、自分に自信が持てず、とにかく(チケットが連れて行ってくれる)場所へ赴くこと(だけ)で、自分も前に進むことができると考えていたのではないか。その意味で、チケットを信じていた。
そして時間と経験を経ることで、「ただ行くだけでは駄目である」ということに気がついた。チケットが自分を次の世界に連れて行ってくれるわけではない。彼女たちは、自分で自分を次のステージに連れて行かなければならないのである。
だから信じる対象はチケットではなく自分の「魂」となった。良くも悪くも、元からプライドは持っていた。それらを足し合わせ自分という存在を形成し、(自分の存在意義を)証明していくのである。もはやWUGというゆりかごは存在しない。己の実力だけをもって、道を切り開いていかなければならないのである。
このように考えると、「もうちょっとファンを信用しても(頼っても)いいのでは」と思わなくもないのだが、勝手に考察しておいての勝手な意見に過ぎるので胸の内に引っ込めることとする。何にせよ、4曲の中で最も意思の強さを感じる作品である。
さようならのパレード
この曲を語るにはまだまだ時間がかかりそうだなと思っている。元々、私が何の躊躇もなく(ライブではなく)CDで新曲4つを聴いたのは、ひとえに自分が安心したかったからである。極端な話、「つらい、やめたい、もう無理」みたいな曲がきたらとんでもないなと思っていて*7、とにかく、そんなことはないということを一目散に確認したかったのである。
そんな私にとって、さよパレは全てを包み込んでくれるような、何一つ不満のない曲で、聴き終わったときとにかく安心したのである。だから私の目的は既に果たされており、それ以上特に言うことはない。という前振りのもと、曲の内容を追っていこう。
綺麗ごとでも
綺麗ごとじゃない世界
嘘のないように私たちは生きていく
結晶と通ずるところがあると感じている。WUGとして生きるなかでは、やはり嘘で顔を隠して進まなければならないところがあったのだろうか。「嘘のないように」生きようとした結果が解散という選択だったならば少し複雑に思うところがあるが、そんな不安は以降の歌詞によってかき消されていく。
さようならのパレード
あなたをつれていくよ
光のないディストピアに
記憶を残したい 光で
「さようならのパレード」を「想い出のパレード」として見るか、このツアー全体として見るか。個人的にはそのどちらでもなく、「今WUGちゃんと関わる全ての時間」なのではないかと感じている。というのは、パレードというものは7人では成立しないように思うからである。これまでのライブと同様、パレードはWUGちゃんとワグナーの共同作業によって作られるものである。7人がいないと成立しないが、7人だけでは成立しないのである。もちろん私たちだけでも完成しない。だから私たちは彼女たちに連れて行ってもらう必要がある。いや、私たちが連れて行ってもいいのだ。連れ立ってさえいれば問題がない。だからここで主語の混濁が生じる。「あなた」とは一体誰なんだ? 同様の場面は以降も訪れる。
先に進む前に「ディストピア」についても言及しておきたい。ここを本来の意味のディストピアとして捉えると、私は理解が進まない。それよりも、漠然とした「悲しい世界」として解するほうが納得しやすいように思われる。(そんな変な言葉の使い方をするだろうかという疑問はある)
「光」は一見するとWUGちゃんのように思われるが、Polarisを考えるとWUGちゃん・ワグナーのいずれをも示しているのではないかと思える。WUGちゃんがいるがワグナーはいない世界と、その逆の世界をそれぞれ思い浮かべてほしい。いたって物悲しくはないだろうか。そして今回はWUGちゃんがいなくなることをもって、そのディストピアが生まれる。だからWUGちゃんたちは私たちの記憶としてその姿を留めんとする。その記憶こそが光であり、したがってディストピアは解消されることとなるのである。
上述したとおり、同じことは逆でも言える(と信じたい)。私たちがWUGちゃんたちの記憶の中にとどまることでもディストピアの成立は回避されるのである。
さようならはいやだよ
慣れることなんかない
だけど背中 押すみたいに
あなたのリズムが聴こえてる
安心ポイントの一つである。少なくとも「さようならはいやだ」と言ってくれることに私は救われる。そしてここの主語はやはりどちらも含んでいるように思える。WUGちゃんとワグナーがお互いに背中を押し合っているのである*8。
それは強い鼓動と
鳴り止まない命の音
かさなりあえば 高らかな歌声
「僕らのパレード」
私たちではない、「僕らのパレード」である。上述したとおり、パレードは単独少数で実施できるものではない。互いの助けが必要なのだ。ここで「僕らのパレード」と声を挙げているのはワグナーだろうか。*9
ずっとそばにいたこと
時空ヘと刻んで誇りに思う
進もう!
時空に刻むというのが何とも心強くはないだろうか。個人個人の記憶ではないのである。時空そのものに刻むのである。歴史の一つとして、客観的な記録が刻み込まれることにより、私たちは永遠になるのである。
願い続けていたい
あの時 約束したでしょう
立ち向かうこと
極上の笑顔で
強い強い鼓動で
鳴り止まない命で
また会いたいんだ
究極的に私は、「また会いたい」という言葉が聞けたことで、全てが救われたと思っている。その時間軸はよくわからない。例えばライブが一つ終わる度に、また次のライブで会いたいという話かもしれない。しかし私は、それよりも長期のものとして、将来の話としてここを解したい。
光のある世界が残り、一緒にいたことは時空に刻まれる。その記録は永遠のものである。しかし、これから私たちにはある種の試練が待ち受けることになる。WUGちゃんたちにとっては、WUGという後ろ盾がなくなった中で、一人一人で行きていかなければらないという現実が。そして、私たちには「もうWUGちゃんはいない」という現実が。でもそれはきっと乗り越えられる。だってそう約束したから。
そして私たちは、お互いにその存在を失ってもなお、各々の強い鼓動と鳴り止まない命を感じ取ることができる。生きていさえすれば大丈夫。試練を超えたその先でまた会えることを願っているし、会えるという確信がある。いつの日になるかはわからない。だけれども、そんなことは問題ではないのである。なぜならいつかまた必ず「会える」からである。約束の時を迎えるにあたっては、ひたすらに笑顔で。ただただ笑顔で。極上のスマイルで「おかえり」と「ただいま」を言い合えたら幸せだなと思う。
Wake Up!
この曲はWake Up!で締められる。歌詞カードには書かれていない、タチアガレと同じ言葉。けれどもその雰囲気は全く異なる。タチアガレが、今まさに奮起して立ち上がろうとしている様子である一方、さよパレのWake Up!は全てを終えた後の一歩を踏み出さんとする掛け声である。
そもそもタチアガレのそれとは音程が異なることもあるのだが、ここの7人の声の清々しさたるや。達観めいたものさえ感じられ、「ありがとう」と「おつかれさま」が入り混じったその声は、聴いてるこちらも穏やかな気持ちになる。このように歌われてしまっては、もはや私は成仏するほかない。
そして、「ありがとう」と「おつかれさま」を言いたいのは私たちの方でもある。この曲がいつ歌われるのかは分からない。立ち位置としてはSSAが適しているだろうが、そこまで出し惜しみすることもなかろう。というか、初出がSSAだと私の涙腺はいよいよ決壊すると思われるので、早めにジャブを打っていただけるとありがたい。
ともあれ、この曲を歌う7人を眼にした時、私は真にすべてを受け入れられるのだろうと思っている。その意味で、明るいゴールは目に見えている。だからもう心配することはなくなったのだ。さよパレを含む新曲4つは、ものの見事に私を安心させてくれた。当初の目的は完全に果たされたところ、私はホッとした気持ちで長野に向かうこととする。今日もまたWUGちゃんの全てを見届けるために。
7つの道はいつか重なる
本記事の大元である『Wake Up, Best!MEMORIAL』は、これまでにWUGちゃんたちが歌ってきた曲をほぼ完全に網羅しているにとどまらず、その装丁は「愛聴版」の名に恥じない、非常に凝った作りとなっている。
ディスクの表面は、一枚ずつメンバーそれぞれの色で彩られており、三つ折りカバーの表面とカバー裏には、収納されるディスクの色に対応したメンバーが描かれている。WUG全員を表すのが白なのは何故だろうと思ったが、part2のドラゴンと同じ解釈でいいのかもしれない。
また、本アルバムのカバージャケットには、それぞれ意匠の異なる7つの扉があしらわれており、そのうち一つ、吉岡さんの後ろにある扉だけがが内開きであることも併せ、様々な考察が飛び交っているようである。
この点、私は比較的シンプルに捉えている。扉が7つあり、それぞれ意匠が異なるのは、その扉をくぐる7人が別々の道を歩んでいくことを示している。ただ、各扉の意匠は、その全てが全くに異なるわけではなく、共通する要素を含んでいる。すなわち、扉をくぐった先の7つの道が、再び交わることもあるだろうことを示唆しているのである。
吉岡さんの扉が内開きなのは、その扉だけは過去と未来、またはWUGちゃんとワグナーを繋ぐものだからである。扉を開ける場面をイメージしてほしい。外開きの扉は、開けたその向こうに新たな景色が広がっていて、方向的には一方通行である。しかし内開きの扉はどうだろうか。もちろん、同じようにその先には鮮やかな景色が見えるだろう。ただその景色が、内側にも流れ込んでくるようなイメージを持てないだろうか。
つまり、言いたいのはこういうことである。7人はそれぞれに異なる扉を開き、異なる道を歩む。ただ、その道は互いに断絶しているわけではない。進むうちに交差することもあるだろう。そしていつの日にか、7つの道が重なりあったとき、7人は吉岡さんの扉から帰ってくるのである。今は真っ白であるこの空間は、その時様々な色で塗りたくられることになろう。私はその時を、笑顔と感嘆をもって迎えたいと思う。
なぜそのような扉が吉岡さんの後ろにあるのか。それはひとえに彼女がWUGのセンターであるからだ。これは相変わらずの感覚論であるが、きっとリーダーの仕事ではないのだ。だから青山さんではなく、吉岡さんなのである。
以上が、私が今回書きたかったことである。総じて見返すと根拠もないのに言いたい放題だなと思うが、ライブ前の個人的な景気づけとしてはこんなものであろう。明日の長野公演に対する胸の高鳴りを感じながら*10、ここで筆を置くこととする。長野公演に行かれる皆様におかれましては、何とぞよろしくお願いいたします。
*1:店を出てから報告を上げるあたりマナーがよろしく素晴らしいと思う
*2:よくある話である
*3:当然ながら当時はまだ解散していない
*4:だからWUGちゃんたちがステージから客席に降りてくることは事態をややこしくする。唐突に世界が現実に寄るからである。
*5:「言葉の結晶」を自分の中ではっきりとさせない限り何も進まないということであろう
*6:他にもいっぱい該当する作品があったらすみません
*7:よく考えなくてもそんなことはありえないのだが
*8:現実だと変な光景になりそうだが
*9:ところでWUGの曲で「僕」という一人称が使われているのは、BtB、僕フロぐらいだろうか
*10:幸運にも近すぎて逆に見えにくいんじゃねえかという席を得られた