1/25(金)午後6時半頃、半ば無我の境地で一週間を終えたことに関して自分を褒め称えつつ職場を出た私は、チケット発券のためファミリーマートへ赴いた。システム障害で端末が使えなくなるような事態を考えれば、もっと早くから発券しておく方がリスク管理としては正しいのであろうが、何であれ毎回公演当日の直前に発券することが一種のルーティーンになっている。個人的に「その方が楽しいから」ということもあるし、単に面倒くさいから後回しにしているということもある。
「トレーニング中」と名札に記載のあるカルロスさん(仮名)にいつも通りレシートを手渡し、いつも通り「袋は一枚でいいですよ」と伝え、カルロスさんの「こちらでお間違えないですか」との問いに対し、またいつも通り「大丈夫で~す」と答えようとした時、私は声にならない叫びをあげた。あえて文字にするなら「……ウェッ」である。米津玄師である。怪訝な顔のカルロスさんに「大丈夫です」と取り繕って店を後にし、見間違いだったのではないかとの疑念を払うため、帰り道を歩きながらもう一度チケットの記載を見た。そこには紛うことなく「1列」の文字が記されていた。街灯に照らされながら「ヨッシャ」と小さく呟くその姿は間違いなく不審者であった。
というわけで、1/27(日)に開催された『Wake Up, Girls! FINAL TOUR - HOME - ~ PART Ⅲ KADODE ~』の長野公演(昼・夜)に参加してきました。人生初の最前席ということで、始まる前からとめどない緊張感(楽しみという感情に勝る)を覚えつつ行ってまいりました。以下、公演のネタバレ、長文(12000字程度)・乱文、公演に関係のない諸々を含んでおりますので、お読みいただける場合には予めご了承いただけますと幸いです。なお、ステージの魔力にやられてしまった結果、いつもよりポエムです。
長野へ行く
在来線特急で向かう予定だったため、天候不順による運行停止を危惧し前乗りすることとしました。経路を確認していて初めて知ったのですが、東京からだと北陸新幹線で行くことができるんですね。いやあ便利ですね! 早く新大阪にも通してください。
本当にWUGちゃんには色々なところに連れて行ってもらっているなあと思いますが、長野県にも今回が初上陸。ウィンタースポーツに全く縁のない身からすると、長野県には正直なところ『ハイパーオリンピックインナガノ*1』のイメージしかなく、はたしてどんな街並みなのかとのワクワクを持ちながら現地へ向かいました。
トラブルもなく無事に長野駅に到着。辺りに雪は積もりながらも空は晴れており、「盛岡ほどじゃねえな」との謎の寒さマウントを取りつつ、昼食をとった後善光寺へと向かいました。
牛にひかれて善光寺参り
駅到着時の寒さマウントに機嫌を悪くしたのか、辺り一帯が曇り始め、なかなかの降雪に見舞われることになりました。これが山の天気だ。
善光寺に向かう道すがら、また善光寺の敷地内でもウィンドブレーカを着たワグナーさんを何人か見かけ、その姿に「恐らくPart3史上最もウィンドブレーカを活用した公演になるだろう」との確信を覚えました。黒ベースの蛍光色は白い風景の中でよく映え、とても日常に溶け込んでいます。ある意味でこれまでの会場とは違う。
仲見世通りを抜けますと、傍らには六地蔵と濡れ仏の計7体が横並びで祀られており、こんなことまでWUGと関連付けようとするのはいよいよ勝手が過ぎるとも思うのですが、やはり7という数字に抗うことはできず、この地で公演をすることに因縁めいたことを感じていました。
なお、六地蔵とは地獄道、餓鬼道、畜生道、修羅道、人道、天道の六道でひいひい言っている我々を助けに来てくれる存在であり、また濡れ仏たる延命地蔵は生まれた子を守りその寿命を伸ばしてくれるそうです。果たして誰がどの役割を果たすのがしっくりくるでしょうか……なんてことでも楽しめるからオタクは得である*2。
お戒壇巡りをしたり閻魔大王に挨拶をしたりしている内に、辺りは雪で前が見えないほどに。 拝観もそこそこにホテルへと帰りました。
(久しぶりの降雪体験に止まらない笑い)
会場へ行く
一夜明けた長野の道は予想通りのアイスバーン。地元民がごつい長靴で歩く傍ら、相変わらず特にスリップ対策は講じられていないスニーカーで滑りながら会場へ向かいました。そんな私を尻目に、道路上のほぼ氷と化した雪をタイヤで撒き散らしながら颯爽と過ぎ去っていく行く車たち。ルーフに大量の雪を載せながら悠々と走る車たち。リズムよく走っていくジョガー。やはり雪国の人は強い。
会場に近づくにつれ、歩道はほぼ雪に埋まった状態に。道すがらのコンビニでは綺麗に雪かきがなされ、人々(もといワグナー)のセーブポイントと化しており、生まれて初めて「アスファルトが目に見えて安心する」経験をしました。人にはそんな感情があるんだね。
本公演の会場であるホクト文化ホールには、若里公園という比較的大きな公園が併設されており、そこも辺り一面雪景色となっていました。しんとした空気の中で雪遊びをする家族連れ。そして童心に帰るワグナーたち。何とも平和な光景でありました。
入場
今回の会場は前回の大阪国際交流センターよりもさらに幾分か小さく、それに応じて、いつも前方に立っている撮影録音禁止お兄さんの看板も心なしか小さめ。しかし、あなたが立っているかいないかでは大違いなのです、と心の中で深く頭を下げました。実際のところこの日の会場内は、用途にかかわらず「携帯電話を触っている」こと自体に対して注意がなされ、いつもより厳格に管理されていた印象です。*3
高まる緊張を抑えつつ、「とりあえず座ってみよう」と座席へ。近い!! 近すぎる!!! 何だこれは。何が起こっているのだ。
ホクト文化ホールの1列目は少し特徴的で、左右の列がなく、本当にここだけが前にせり出しているような格好になっています。さらに、舞台もそれほど高くなく、観賞中極端に見上げる必要もない。これは近すぎてむしろ何も見えなくなるやつである。言い換えると、気がついたら公演が終わっているタイプのやつである。いつもより3倍増しぐらいに気合を入れて見なければ、と決意を堅くしました。結果、容易に打ち砕かれました。
開演
(昼:1列18番 夜:10列30番)
3rdライブツアーの衣装で登場した7人はどこか懐かしく感じられました。というのも、私が初めて見たWUGちゃんのライブ映像が、Youtubeにある3rdBD試聴動画であり、そこからWUGちゃんにのめり込んでいったからです*4。
「セーラームーンみてえな衣装だな」と思ったのを今でも覚えていますが、それはさておき、あの映像が撮影された日からは2年以上の歳月が流れているわけですが、目前で少女交響曲を歌う7人を見るにつき、その魅力は間違いなく当時より大きくなっているわけで、人は成長するものなんだなと感慨に浸らずにはいられませんでした。何よりも田中さんは、髪型のせいもあるのでしょうが、本当に大人になられましたね。(何目線という話だが)
近くで見るということ
ステージ上から化粧品か何かの香りが漂ってくることにも驚きましたが、何よりもまして7人の足音が聞こえることに感動を覚えていました。この感覚は『青葉の軌跡』以来。ステージ上に質量を持った人間が居る(ファンタジーではない)ことを感じさせられます。
また、ターンやジャンプの際に見られる筋肉の躍動もすごい。あのしなやかな動きが一体どのようにして生まれているのかを目の当たりにしました。そしてそのように激しく動きながらも、口元から微動だにしないマイク。WUGちゃんの織り成す世界を体中で感じたいのであれば、舞台から少し離れた席や上階席が適しているとは毎度私が思うことですが、一方で最前席というのは、人間の持つ力強さや、鍛錬の証みたいなものを思い知らせてくれる場所でした。この人たちは舞台上で戦っているのだと、そう感じられたのです。
通年で体調を崩さず、怪我もせず登壇を求められることも併せて考えれば、もはやアスリートに近しい存在であると言うこともできるでしょう。舞台に立つことはあくまでも前提条件であって、その上でしっかりとした結果を残さなければならない。しかもやり直しはきかない。何と厳しい世界でしょうか、という感想も今更ですが。
加えて何より忘れてはならないのは7人の「表情」。表情こそが人間を人間たらしめているのであり、あらゆる表現は表情に帰結すると思うところがありまして、それを堪能できるのも最前の特権であります。*5
さて、冒頭申し上げた通り、本会場の一列席はその箇所のみが少し前にせり出した形状をしており、そこから左右に置かれたスピーカーは少し遠く、結果的に(若干の)音の空白地帯となっていました。そのために伴奏は薄く聴こえ、WUGちゃんたちの声だけが目立って聴こえる(ように感じられる)状態であったところ、その声がスピーカーを通して聴こえているものであるのか、それとも電気信号によって増幅されたわけではない、そのままの声が舞台上から聞こえているのかが曖昧になる場面があり(もちろんそんなわけはないのですが)、それも相まって現実と舞台の境界線がかなり薄く感じられました。
以下におきましては、主にそんな茫然自失の状態で見た舞台上の7人それぞれについて書いておこうと思います。
高木美佑さん
「笑顔」という要素は、何も高木さんに限ったものではなく、7人に共通するものではある。誰もが魅力的な笑顔を持っている。しかし、瞳が見えなくなるほどの笑顔を作り、なおかつ公演中それをほとんど崩さないという点は高木さん特有であろう。笑顔の高木さんからちょっと逸らした視線をまた高木さんに戻すと、さっきと同じように笑っている。こっちを見てくれてはいるのだろうが、視線があっているのかは判別ができないほどに破顔している。笑顔がデフォルトなのだ。
何に似ているかと思ったら、不二家のペコちゃんだ(馬鹿にしてはいない)。ぐりぐりした大きな目と、どのタイミングでも崩れない笑顔。人はここまで魅力的に笑えるものなのだなと思わされた。もちろん、曲や演出によって凛々しい表情も作れることは言うまでもない。
そして相変わらず高木さんの立ち姿は舞台上でよく映える。手足の長さがゆえ、自然と一つ一つの動きが大きくなるが、そこに粗暴さはなく、しなやかさだけが見て取れる。暴君間奏のターンの迫力は座間で見たときと同様、圧巻であった。(そして回り終わった後の笑顔が素敵)
山下七海さん
前から思っているのだが、WUGちゃん7人の内、唯一歳を重ねた姿が想像できない。これは単に外見の話だけではなく、雰囲気とか生き様を含めて、ということである。近距離で山下さんのパフォーマンスを見るにつき、より一層強く思うこととなった。
山下さんは何かを纏っている。他とは何かが違うのだ。それによってあの雰囲気が作り出されている。それは手足の動かし方なのか、バランスのとり方なのか、強弱の付け方なのか。他メンバーの評を聞いて、それらがとにかくも様々な試行錯誤の結果なのだろう。じゃあ実際のところ他人と比べて何が大きく異なるのかと考えるが、さっぱり分からない(分からないのは山下さんに限った話ではないが)。「何を意識して舞台上に立っているのか」について、いつか詳しく語ってもらいたい。(もしかしたらどこかで語ってくれているのかもしれないけれど)
田中美海さん
田中さんはどの曲においても、どの方向から見ても、いつも田中美海さんそのものである。早速に日本語がおかしくなっているが、それが私の言いたいことのほぼ全てである。田中さんは、舞台上に立っている間、自らが"田中美海"であることを忘れない(と感じる)。しかし、それを殊更に見せつけるわけでもない。そんな自信と謙虚さに満ち溢れた姿を見て、田中さんの底知れなさを感じ、魅力的に思うわけである。ただ、これには私が彼女にそうであってほしいという願望を含んでいるため、いささか主観的な物言いではある。しかし、同意してくれる方は結構いるのではないか、と思っている。
とはいえ、そのような捉え方をすることは、行き過ぎると人格の否定に繋がりかねない。つまり、「あの人はプロ意識が高いから仕事中は素の自分を見せることはないんだよ」などと言い切ってしまうと、当の本人からすれば「素の自分を勝手に他人が定義するな」と言いたくもなろう。勝手なことを言いやがって、ということである。したがって、何も知らないただの一消費者が、好き勝手に個人の様相を語るべきではない。
という前提のもと、田中さんの話をしよう。舞台上の田中さんを見て、私が「やっぱり田中さんは田中美海なんだ」と思ってしまうのは、各種のメディアを通して形成された自分の中の田中さん像と、舞台上に見る田中さんの姿に、ほとんど差異を感じないからである。この表現が適切かは分からないのだが、「思っていたとおりだ」と感じることが多いのである。
それは言い換えると、田中さん自身が「大衆から求められる田中美海像」を理解し、的確に演じているということに他ならない。そう言うと、「期待以上の結果を出すことはないということか」などと捉えられかねないが、そういうことではない。「田中美海なら期待以上の結果をだしてくれるだろう」との心情も含めて、ということである。
しかしながら、舞台上の姿をとって「あれは求められた像を意識した姿だ」と評価することは、「自分らしく自分を表現している」という可能性を身勝手にも否定することになるから、つらつら書いておいてなんだが、やはりあまり言うべきことでもないかなという気がしている。
本当の自分を隠すことなく舞台上に立つことなどできるのだろうか、という疑問を私は持っている。この点、WUGちゃんは比較的「自分」を出せているように感じられる。とはいえ、本当にそうかは分からない。そしてその中でも、特に田中さんはどうなんだろうといつも考えてしまうのである。もちろん、何にしたって田中さんが魅力的な役者であることに変わりはないのであるが。
そんな田中さんの本領を見たのは僕フロのソロであった。その直前までキッと唇を結んだ凛々しい顔をしていたのにもかかわらず、声を出し始めると同時に柔らかい笑顔を見せられた。一曲の中でも物語を作り上げているのだなと、その営みに深く感心した次第である。
吉岡茉祐さん
「にへらと笑う」という表現が昔から好きである。しかしながら、生涯においてそのように笑う人を見たことがない*6。この日まではそうだった。
意外なことに吉岡さんは舞台上で表情を作らない。表情で曲を構成しないと言うのが正しいかもしれないし、「表情を作らないという表情」を作っているとも言えるかもしれない。大体いつも「フフン」みたいな顔をしていて*7、リラックスしつつ、自分のパフォーマンスに自信を持って演じているように感じられる。そして、そのような余裕を持った表情をぐにゃりと崩して笑うことがあり、それがまさしく「にへら」と笑っているように見えるのである。根本的に、そのような笑顔を魅力的に思うかどうかは個々人の感性によるが、少なくとも私はとても美しいと想った。
ところで昼公演の地下鉄ラビリンス、このときの吉岡さんの「ごあへー」は非常に山下さんの「ごあへー」を意識した「ごあへー」だったと思うのだがどうだろうか。
永野愛理さん
至近距離に迫ったとき、どうしたって視線は永野さんの方を向いてしまう。それは一挙手一投足が力強く、そして美しいから。「ダンスが上手い」と言ってしまうのはあまりにも簡単で、とはいえそれが最もわかりやすい表現であることは間違いないのだが、頭から指先足先にいたるまで、静と動をはっきりと意識した身のこなしをそのような言葉で評するのは、色々と不十分な気がしてならない。何というかこう、綺麗な長髪を振り回しながらに、あの洗練された動きを見せられると、恐怖を感じるぐらいなのである。だからもっと適切な表現がありそうなものなのだが。
特徴的に思ったのは、どんなときでも身体全体でリズムをとり、また身体の捻りに妥協していないところ。タチアガレやアガペーが分かりやすいだろうか。足をあげるにしても、足踏みをするにしても、常に身が跳ねている。奥野さんもそういう気があるのだが、永野さんはより顕著である。基本的な体力とか、筋力といった部分のレベルが高いということなのかもしれない。滑らかかつメリハリがある、というある意味矛盾した動きを難なくやっている(ように見える)ことが非常によく分かった。
地下鉄ラビリンスにおいて天に突き上げる拳は、本当に会場を二つに割ってしまいそうである。もしこの日、この近距離で『言葉の結晶』が演じられていたら、私は(何かに)耐えられなかったかもしれない。
奥野香耶さん
客席に降りてきた奥野さんの姿は本当に小さい。と、あんまり言うと失礼な話になってしまうが、その一方で舞台上の奥野さんはとても大きい。そう初めて感じたのは『青葉の軌跡』を観に行ったときのこと。演じるキャラクタとの身長差も何のその。菊間夏夜を演じる奥野香耶さんから、「小さい」という印象を覚えることはなかった。
そしてそれは何もキャラクタを演じているからではなかったらしい。いや、そんなことを言うと、「観客の前では”奥野香耶”というキャラクタを演じているんだよ」と言われそうだが、そんなことは分かっているのでさておくとして、私が言いたいのは立ち返って「舞台上の奥野さんは大きく見える」ということである。それも近くで見ると余計に。
単なる目の錯覚だろうか。もちろん、舞台の高さによって物理的に生まれた高低差が寄与している点は無視できない。しかしそれだけではない。これもまた山下さんと同じく、身にまとっている「何か」の影響かもしれない。
「何か」が何なのかは全く分からないが、印象論として奥野さんの「動き」は大きく見える。これは姿の話とはまた別だ。ご本人が意識してそうされているのか、はたまた私の思い込みか。ただ、他のメンバーより必然的に一歩が小さくなるがゆえに、逆にフォーメーションチェンジやステップの動きが大きくなり、結果として奥野さん自身の像も大きくなっているのではないか、と感じた。
なお、初めて視認できた7GWの一芸パートにおける指の曲がり具合はそれなりにグロテスクであった。何だあの曲がり方。
青山吉能さん
顔が動きすぎである。念のために言うが悪口ではない。一曲の中でここまで表情を変えるか、と言いたくなるほど、短い時間で様々な顔を見せてくれる。そして、それらの表情に一つとして同じものはない。(系統はあるのだが)
特に暴君の時の青山さんはとにかく忙しい。表情が読めるのに読めない。「次はこんな顔しそうだな」と思ったらしないし、逆もまたしかりである。そのようににバタバタしながら何であんな安定した歌声を発せられるのか謎である。
そして、そんな青山さんの優しい笑顔は格別である。いかにもな感じで顔をグシャグシャにした笑顔ではなく、ふわっとした笑顔。我ながらなんとまあ具体性の欠いた表現だろうか。しかし書き表すとしたらそんな感じ。リラックスした(しているであろう)ときの笑顔と言えるか。それも含めて、青山さんは笑っているのが一番良い。
加えて、わちゃわちゃしているのに、一声歌うと場が締まる、というのが究極的にズルいところである。
企画コーナー
舞台袖からいかにもなテーブルが出てきた瞬間、観客席からは歓声が上がっていました。というわけで、長野公演の企画はDJみゅーMIXでした。DJブースでクラップを煽る高木さんの姿がDJケミカルと重なる。そして騒ぎに隠れて舞台に取り付けられる客席への階段。また何かが起こるというのだろうか。
王様のカデンツァ
昼公演一曲目。イントロで察した私は、ステージ上で行われる曲紹介にあわせ、「カデンツアァ!!」と叫んでしまった。大変失礼しました。
振りが付いたらどんな風になるんだろうという想像と、この曲を振り付きで見ることはないのだろうかという寂寞を感じる数分間。そうすると、途端に曲自体にも切なさを感じられてくるのが不思議なところ。それでもパレードは続いていくさ。
プラチナ・サンライズ
夜公演二曲目。そりゃ高木さんの選曲だもの、入れてくれるに決まっているよと昼公演の終わりに思っていたのですが、その期待に答えていただいた形になりました。
夜公演一曲目がセブンティーン・クライシスで、かつPart2アンコールと異なり田中さんと青山さんの二人が早々に姿を消したことから、「これは間違いなく来る」と胸が高鳴る中、照明が青と黄色に変わったのを見て確信を覚え、ここでもよく分からない叫びをあげていました。大変失礼しました。
なぜプラチナ・サンライズが好きかといえば、曲はもとより、私の理想とする切磋琢磨像が描かれているからにつきます。
傷をなめ合うよりも 高める道を選ぶ
成長するため 私たち出逢った
だから時も忘れて 熱い言葉で言う
「もっと輝けるはずよ」
プラチナ・サンライズ
何のためにここにいるのか。何のために今を生きているのか。何のためにメンバーといるのか。ごっこ遊びをするためではなく、ひとえに成長するため。そのためにはぶつかりあうことも辞さない……スポ根がすぎる。
そして何よりも勇ましいのは、「もっと輝けるはず」との確信を(自分にも相手にも)持っていること*8 。そのためにまた今日を始めていく。力強いなあ。強すぎるんだ。
おいでよ!LOVE★飯田パラダイス
初視聴。何でもかんでも手を叩けばいいってもんじゃないんでしょうけど、適切な(と思われる)形で挿入されるクラップが私は大好きです。拍手するという行動自体に気分を高める効能があるのだろうか。
曲の途中でメンバー全員による餅まきが開始。準備された階段はこのときのためのものでした。餅と餅太郎(駄菓子)を投げながら練り歩くWUGちゃんたち。
こういうとき、しっかりと「私はあなたを推しています」というアピールをすると、自分の推しから物をもらえる確率が上がるというのが一般的な認識だと思うところ、基本箱推しで、精々黄色のタオルを首に巻くぐらいの人間である私としては、特定のメンバー推しをアピールするのは非常に忍びなく、心から単推ししている方に失礼なのではないかとの思いから、いつもペンライトをWUGグリーンにし、目立たない程度に手を振るといったアクションをとっていたのですが、昼公演の最前席で見た光景にやられたのか、夜公演においては迷うことなくペンライトを黄色にし、大手を振って田中さんの名前を呼んでいました。
その甲斐あってか、私の目の前に飛び込んでくる餅太郎。ああ、こんなことがあっていいのだろうか。しかし、ペンライトを持った私の右手はうまく機能せず、カバーに入ったもののぎこちない動きの左掌にぶつかった餅太郎は、私の隣席におられた、やはり田中さん推しであるワグナーの元へと降り立ちました。
これが「想い」の差かと変に納得した私は、清々しい気持ちでいっぱいでした。次の機会があれば、自信を持って黄色を振りかざしたいと思います。
HIGAWARI PRINCESS
プリンセスみゆ。今のところ、唯一の三回目プリンセスでしょうか。こうくると、徳島が山下さん。愛知が奥野さん。そして仙台が永野さんと想像されますが、たぶんそんな一筋縄ではいかない気もしている。
目前で開かれる傘はとても迫力があり、思っていたよりも傘のサイズが大きいことに気付かされました。重さは分かりませんが、改めて見ると頻繁に手に持ったり腕にかけたりを繰り返しているのはややこしそう。
何よりも、マイクを持ちながら閉じるという動作が一番難しいだろうと思います。構造としては一般的なジャンプ傘と同じだと思うのですが、そうであるが故に、きちんと閉じなければバネの力で開こうとしてしまうわけで、かつマイクを落とすわけにも行かないし……というところで結構忙しそうでした。ようやりますわ。
海そしてシャッター通り
曲を聴き歌詞を読むという行為は、小説を読むのと近しいように思います。視覚的な情報がない中で想像を膨らませ、自分なりの風景を作っていく。聴く人の数だけ様々な景色が生まれることになります。
『海そしてシャッター通り』をライブで演じるというのは、文字通り「演じる」ということであり、曲の映像化・視覚化であります。眼の前で繰り広げられるのは、単なる音楽的な催しではなく、一つの演劇、あるいはミュージカル。そう感じられるのは、そもそもそういう風に聴こえるように構成した(と思われる)高橋さんの妙もありましょうが、それだけはなく、「曲の映像化」であることが強く意識したであろう照明演出の力も大きいと感じています。
曲にあわせて左から右へ*9青、オレンジ、紫と順繰りで色を変えていく照明。海の表現でしょうか。朝・夕方・夜それぞれの時間帯における海の色。打ち寄せる波の動き。
二番からは階段上の5人をオレンジの光が照らします。海岸線に沈み込む夕日を見ているような、とにかく鮮やかで明るいオレンジ。ともすれば眩しくて見ていられない。どこか寂しさも感じさせる情景。
そうして白い光が7人それぞれを包みこむ。それは朝日でしょうか。その状態のまま、時計の音にあわせて反時計回りに動く青い照明。何とも示唆に富んでいるではありませんか。一本の短編映画を見た後のような余韻に、私は言葉が出ませんでした。
時計の針はどちらに進むか
当初、私はラストの照明が時計回りに動いていると思いこんでいたのですが、他の方の証言によれば、反時計回りだったというのが事実のようです。
そのために、ここで一つの疑問が浮かぶこととなりました。すなわち、どうしてラストの照明は反時計回りだったのだろうか、ということです。これは、私の中に「ラストの時計の音は、過去を回顧した後、また(時間とともに)前へ進んでいく様子を表している」との考えがあったからであります。
元々、個人的にこの曲の時間軸は今よりも(かなり)未来で、そこから過去を回顧しているとの理解をしておりまして、その認識は長野公演をもって更に強くなったところです。だからこそ、最後の時計の針は未来に向かって進んでいるのだと思うわけなのですが、照明からして(少なくとも舞台上においては)逆であったと捉えるのが妥当ということになりましょう。
よくよく考えれば、その方が「未来から過去を見返す」とのイメージに適するようにも思います。そもそも時間の階段をのぼって"振り返る"わけなので、そりゃそうかという気もします。
と言いつつ、「この曲の終わりに時間の遡及を表現する必然性はあるのか」と私は往生際悪く考えてしまうのです。「そっと眠って」とは、過去を回顧した後の決別であるようにも思えるからです。
この曲をあと何回観るチャンスがあるのかは定かではありませんが、次の機会にはあらゆるものを見逃さないようにしたい所存です。
Beyond the Bottom
近距離で見るBtBの神々しさをなんと語ればよいでしょうか。厳密に言うと、下から見上げたときの神々しさについてです。舞台に近ければ近いほど、視線は上を向くことになるところ、「現実に高い所にいる」という認識により、空間の凄みが増していたように思われます。
BtBは歌詞も含めてもともと神秘性を持つ曲であると思っています。今回のツアーでは、そこに照明演出が加わることでとんでもないことになっているわけですが、さらに視点の角度が加わることで余計にとんでもないことになりました。
「Change your mind, my friend」で暗転してからの明点。影だけとなった7人の姿はもちろん、その後暗闇から姿を現すところは、本当に生まれ出づるといいますか、神性を持った存在が顕現しているように感じられ、ただただ息を呑みました。低いはずの舞台が一層に高く見える。どこか丘の上に立っているかのような。近いのに遠くにいるかのような。明点時に瞬間的にカメラが引くんですよ。その映像には7人だけが映っている。あの感覚は……面白いなあ。
TUNAGO
本曲で一番印象的なのは間奏の照明でしょう。唐突に頭上に現れ、役目を終えるとその姿を消す。初めて観たときから「これは太陽だ」と思っていたのですが、それが朝焼けなのか、それとも夕暮れなのか分からなかったところ、シャッター通りを観た今となっては、TUNAGOの太陽は朝焼けであると認識しています。
思えば、あの照明はこの曲以外で使用されていないのではないでしょうか。TUNAGOまでは静かにその身を隠し(他の明かりに照らされることもない)、現れたと思ったら一分も満たずに消えていく。以降、姿を見せることはない。だからこそ、何倍にも増して印象に残っているのかもしれません。
最前列では舞台を見上げることになる、というのは先程から再三申し上げている通りですが、そのおかげでこの曲の場合、視界の中に突然太陽が現れることになります。その様子は、真っ暗な世界を太陽が貫いてきたようにも見えますし、自然現象の一つとして、雲の切れ間から光が顔を覗かしているようにも見えます。いずれにしても、それは本当に照明であるのかとの錯覚を覚える程度に「空から光が差し込んできた」との印象を覚えるものであり、その光に照らされる7人は希望の使者でありました。
時計の針は回り続ける
自分のスタンプシートを見ると、1番が空いている*10ことや紫のスタンプがもらえていないことも若干気になりますが、やはり残り3つの空欄に目が行きます。SSAを含めても、私がWUGちゃんのライブを見られるのは、大きく言ってあと4回。こんなポエムを書くのもあと4回。「まだツアー折返しなんだ」と言っていたのが嘘のようです。
しかし時計の針は止まりません。だから行き着くところはいつも同じ。今という時間の一瞬一瞬を大切にしながら、パレードに向けて私も進んでいきたいと思います。
さて次は徳島……ではなく松戸です。わぐりすらんに行かれる皆さまにおかれましては何とぞよろしくお願いいたします*11。元気なお姿でお会いできますことを、こころより楽しみにしております。なお、鷲崎さん*12のタイムキープ力を全面的に信用した結果、宿はとっておりません。
その他
・会場に轟く「クニターック!!!」の声。
・隣席が激しくない方だと何だか安心するよね。
・新曲コーナーにて「このフォーメーションは!?」と発したワグナーに対し、「見て分かるのかよ!」との野次が飛んだことにより会場は(舞台上も含め)笑いに包まれたが、その結果始まったのが初披露の曲だったというのはオチが効いててよかった。
・MCがどんどん長くなってはいませんか(もっとやれ)
・MCって終わろうとしなければ終わらないんだな(当たり前だけど)
・高木さんにも笑っていてほしいが、それはそれとして高木さんの声質は「不安の感情」にとてもマッチするように感じた。
・さよパレは仙台までお預けかしら。
・シャッター通りにしろフライトにしろ、オルゴールバージョンは寂しさ溢れて何とも言えない気持ちになるが、そんな音をバックに映し出される雪合戦の模様は、全てが非常にアンマッチで面白かった。
・田中さんは運動神経がいいのか悪いのかはっきりしない
・夜公演の終了時刻は19:30前。私の終電は19:40発。こういうときのために、オタクは体力づくりをしておかなければならないと再認識した冬の夜。(間に合いました)
*3:なぜ「撮るな」と言われているのに撮ってしまうのだろうか
*4:今となっては、もう少し引きの映像を多くしてほしかったとの感想を持っている。
*5:反対に全体像はさっぱりわからないので良し悪しだと思う。一つの公演を二度最前で見たいとまでは強く思わない。
*6:そもそもにへら笑いの定義も明確ではないようだが
*7:その時点で表情を作っているのではないかとの意見はありうる
*8:ここは「もっと輝ける""はず""なんだ」との弱気でありつつ自分たちを鼓舞する発言として捉えることもできようが
*9:ここ自信なし
*10:持参忘れ
*11:何やるイベントか全く分かっていないけど
*12:実は実物の鷲崎さんを見られることが何よりも楽しみであったりする