死に物狂い

他人から影響を受けやすい人間のフィクション日記

『言葉の結晶』と『土曜日のフライト』がステージ上で完成し、7人自身がWake Up, Girls!の概念を体現したという論

 7_Mics*1の歌割り作業の一環で、『言葉の結晶』『土曜日のフライト』の二曲を繰り返し聴いていた。この二曲は、もはや言うまでもないことだが、声優ユニットWake Up, Girls!*2が最後にリリースした、通称WUG組曲のうちの二曲である。

 具体的には、『海そしてシャッター通り』『言葉の結晶』『土曜日のフライト』『さようならのパレード』の四曲(以下、それぞれ「シャッター通り」「結晶」「土フラ」「さよパレ」と言います。)のうちの二曲であり、発売当時の諸々のインタビューにおいて、メンバー7人はことあるごとに「自分たちの気持ちを代弁してくれている」(大意)と言っていたから、最も近時における7人の感情を表現した曲の内の二つ、とも言えるだろう。そんな二曲をひたすら聴いていた。

 一回聴くごとに、「こんなに重苦しい曲だったか?」と疑問を抱いた。私の中の二曲は、歌詞の重苦しさはあれど、何だかんだで前を向いている曲だった。次に進もうとする曲だった。しかし、CD音源はそんな私の印象に反するものだった。ひたすらに重たい感情が、私の体にのしかかってくるのである。

  不思議に思いながら、視覚的に歌割りを確認するべく、並行してライブBDを視聴した。そして、私の抱いていた印象がライブ由来のものだったと気づくと同時に、初めてこの曲を聴いたときのことを思い出した。当時の私は、確かに重苦しさを感じていたのだった。

 

 歌に感情を乗せることはできる。というか、それはプロであれば必須の技法かもしれない。例えば『Beyond the Bottom』の歌声は、怒りにも似た感情を纏っている。それを聴いて私たちの心は打ち震える。一方で優しく語りかけるように、寄り添うように歌われるものもある。『止まらない未来』とか、『僕らのフロンティア』が挙げられるだろう。その温かさに私たちは安心する。歌で、声で他人の感情を動かそうとするのであれば、それ自体に感情がこもっている必要があろう。だからプロの人間が歌えば必然的にそうなるだろうし、曲調は関係がない。激しい曲であろうが、ゆったりした曲であろうが、それぞれに合った感情が乗せられる。

 反対に、意図して感情を乗せない選択肢も技法としては存在するのだろう。結晶と土フラの二曲は無感情である。とはいってもその属性は微妙に異なる。

 結晶は無機質な、過度に抑揚を抑えた「無感情」である。人形的な、アンドロイド的な表現であり、言い換えれば人間的でない。とはいえ、ラスサビでは少しばかり感情を取り戻しているようにも聞こえる。

 土フラは感情があるように見せかけた「無感情」である。優しげに聞こえる声たちも、その実、仮面で取り繕っているにすぎない。それこそ同じような曲調(と言っていいのかわからないが)の僕らのフロンティアシャッター通りと比較すれば違いは明らかで、「穏やか」という感情で作られた無感情に身を包んでいる。土フラは一曲を通じてほぼ調子が変わらない=無感情であり続けているため、結晶よりも深刻さを増しているようにも思う。

 WUG組曲は四曲から成るが、そのうちシャッター通りは時間軸が未来に飛んでいるように思われるから、7人の過去から現在の軌跡を示すのは、結晶、土フラ、さよパレの三曲だと解される。そのうちの2曲が無感情なのであるから、7人にとってのWUGで過ごした時間も推して知るべしだろう。

 では、7人にとってWUGは辛く哀しい、しんどいだけの時間だったのか。そんなことはない、というのは知っての通りである。もちろん実際のところは知らないけれど、「そうではない」を担保するのが逆説的にこの二曲なのではないか、と思うのである。

 

 ライブで歌われるこの二曲には、感情が「ある」。現実的な問題として、あれだけ激しく動きながら抑揚をなくすのが難しいだけなのかもしれないが、その点を差し引いても、私は7人の歌声に感情が乗っているように感じられる。壇上で表現される結晶と土フラの世界は、無機質な何かではない。そこにいるのは紛うことなき人間であり、描かれているのは人生である。

 田中秀和さんだったか、広川恵一さんだったか。はたまた神前暁さんだったか。Twitter上でこんなことを仰っていた覚えがある。「曲はできた。後はステージで完成させるだけ。WUGちゃん任せた」と、あるいは私の記憶違いかもしれない。その場合は平謝りするとして、「ステージで完成させる」というのは、つまりそういうことだったのではないか。無感情の楽曲に、感情を込めるということだったのではないかと、今の私は思うのである。

 「感情を込める」というのは形式的な作用だけではなく、曲そのものが持つ意味にも影響を与える。無感情な結晶と土フラには、正直に言って救いがない。自分を削りに削り取った後、消耗した状況下での旅立ちなんて(しかも不安に包まれながら)バッドエンド一直線ではないか。もはや、その後のさよパレについて「これはもしかすると死後の世界なのでは…?*3」と楽曲考察にありがちな思考回路に陥ってしまうほどだ。

 もちろん、誰も死んでなどいない。感情を得た結晶と土フラは、単に心身の消耗だけではなく、その先の未来に対する決意と渇望をありありと描く。そこにあるのは諦念ではなく、諦観であり、達観である。そして世界はさよパレへと繋がる。さよパレがストレートに人間的であるのもまた、そこに感情があるからだ。でなければ「さようならはいやだ」なんて言えるはずもないだろう。

 7人はその軌跡の中で人間性を削りながら、失いながら、しかし最後にそれを取り戻した。ひたすらに人間であろうとした。私はWUGというコンテンツのテーマに、人間讃歌が含まれていると思っている。だから、7人は最後にそれを体現したのではないか。彼女たち自身が自らの人間性をもって、楽曲自体に感情を与えた。そして、WUGという概念の一つの完成形を作り上げたのではないかと、そのように思うのである。

*1:WUG楽曲について自分たちでセトリを考え、歌割りも再現して楽しもうというカラオケオフ。興味のある方大歓迎です!! 詳細はこちら

*2:「!」は全角派だが、はてなキーワードが拾ってくれないのでここは半角にしてみる

*3:さようならパレードとは現世への別れであり、極上の笑顔とは極楽浄土とのダブルミーニングであり、最後のWake Up!は復活あるいは輪廻を表しているとする説