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幸せなことに、今のところ身体的・物理的な犯罪とは縁遠い人生を過ごせているが、そうでない人もいるのは言うまでもない、ということで読んだ。
筆者は、犯罪に至るまでの過程、つまり「どうして罪を犯してしまうのか」について、単純化して考えるべきではないと口を酸っぱくして言う。親が悪いとか、格差社会が原因だとか、わかりやすい要素に帰着させると、完全に理解できる気がして安心できるかもしれないが、かえって本質からは遠ざかってしまうということだ。
犯罪を起こす人とそうでない人の違いは、「外部からの刺激をどのように認知するか」にあるといえる。例えば玄関のドアが開け放たれている家を見たときに、多くの人は単に「不用心ではないか」と考えるが、一部の人は「盗みのチャンスだ」と捉える。このような認知の態様は、持って生まれた遺伝的・器質的要因と周囲の環境が相互作用して形成されたパーソナリティや、価値観の影響によって定まる。
具体的には8つの要素に左右され、影響の大きいものから順に反社会的交友関係、反社会的認知、犯罪歴、反社会的パーソナリティ、余暇活用、家庭内の問題、教育・職業上の問題、物質使用。と、各項目の文字面を見ると、感覚的にも、それはそうなんやろなあという気はする。
犯罪が是認されるようなコミュニティに属していれば、目の前で社会的によろしくないことが行われていたとしても、それはそういうものであるとして認知が強化されていく。悪い子とつるむと悪くなっちゃうよというやつ。周りもやっているからそれが当たり前になるとか、あるいは、そのコミュニティ内に留まるためにはやらざるを得ない状況にあるといった事情があるわけだ。(これだけでも、要素が単純化できないことが分かる)
個人的には、「余暇活用」が要素の一つであることがちょっと面白かった。やっぱり人間に暇は毒だということか。やることがないから犯罪に走ってしまうというのは、言い換えれば、趣味に忙しい人は犯罪なんてやっている暇がないということなのだろう。
突き詰めると卵ニワトリの話にはなるのかもしれない気もした。というよりかは、互いが互いに総合的に影響しあっていると言うべきか。例えば、認知を歪ませる特性を遺伝的に持っているからといって、保有者がすべて同じ認知をするわけでもなく、犯罪を起こすわけでもない。「悪いやつらとつるむのが~」という話をするならば、そもそもどうしてそういう人たちのつるむことになったのか(ならざるをえなくなったのか)、または「歪んだ認知をするようになった原因の原因は何なのか」を丁寧に見ていく必要があるのかな。
認知の歪みによって犯罪を起こしやすくなっているのであれば、その歪みを正せば犯罪を起こす可能性は低くなるはずだから、それを治療という形で取り組むのがトレンドの一つであるらしい。よく言われるように、必ずしも処罰は犯罪の抑制化に繋がらず、特に再犯を防ぐ効果は薄いとのこと。ただ、その結論が世論に受け入れられるのは容易ではなさそう。
『入門 犯罪心理学』において、薬物治療の話がそこそこの紙幅を占めていて、興味が出たので読んだ。丁度芸能人の薬物利用が話題になっていたこともあるかもしれないし、ないかもしれない。薬物の使用は犯罪ではあるが、治療が必要な依存症でもある…という認識は(何から得たかは忘れたが)持っていて、とはいえ具体的にはどうするもんなのかねということを知れたらいいなと思った。
興味深かったことはいろいろあるが、まずは「社会の中で行われる治療こそ本当に意味がある」ということ。そもそも刑務所の中であれば意外と薬物の利用は断てるらしい。もとい、物理的に手に入る環境にないので、服役によって自然と距離をとれるようになると。それで「何だ意外とやめれるやん」と自信が出てきて、もう大丈夫やろと意気揚々と外に出ると、ふとしてきっかけでまた利用してしまうというのがよくある流れとのこと。出所時が一番危ない。とはいえ、いつまでも(何なら一生)刑務所に閉じ込めておくわけにもいかないから、日常の中で利用を避けられるようにする必要がある。
しかし、口で言うのは簡単だが、現実はなかなか難しい。まず社会の中で治療を行うとはどういうことか。というか、そもそも薬物依存症における治療とは何を意味するのか。この点、「目の前に薬物を差し出されても全く動じない」ようになることを完治とするならば、それは実際上不可能であると筆者は言う。
私が持っていたイメージは、薬物をやめようと思っても、いわゆる身体から薬物を抜く過程において、多大な脱力感とか気だるさに耐えきれず、また利用してしまうといったサイクルが止まらないイメージだった。これは分類上「身体依存」と呼ばれるもので、実際そうであるらしい。アルコール依存の人がイライラしたり、カフェイン依存の人が無気力になるとの同じで、ある意味身体の反応として正常である。
ただ、身体依存については可逆的なもので、とにかく摂取を断てばいずれはもとに戻る。何だか毎日だるいな~と感じていたところ、コーヒーを飲まないようにしたら調子が良くなった、というのと同じ。薬物においても、先述の通り物理的に隔離されれば、身体依存は時間の経過とともにいずれは治る。
一方で問題となるのは「精神依存」と呼ばれる状況。薬物を利用すると、諸々をすっ飛ばして、脳内神経をダイレクトに刺激し、いとも簡単に快感を得ることができる。そのような経験をしてしまうと、脳内には事あるごとに薬物が浮かぶようになり、辛いこと、しんどいことがあったりすると、ついつい使用してしまう。
こうなると、外部からのあらゆる刺激を、薬物を使用する理由として認識するようになる。頑張ったから、疲れたから、内容は何でもよい。
では、一回使用したらもう後には戻れないのかというと、そういうことでもない。それは一度アルコールを摂取したからといって、唐突に依存症になるわけではないのと同様で、結局は使い続けてしまう環境にあるかに左右される。ここはさっきの「悪いやつとつるむと~」の話と同じ。そうして、精神依存の状態にまでなってしまうと、もはや治療なしには回復できない。
治療と言っても特効薬があるわけではなく、いかにして欲求を生じさせないようにするかと、欲求が生じたときにそれをどうコントロールするか、その方法を学び訓練していく必要がある。しかし、とてもじゃないが自分だけでできることではない。根性でどうにかしようとしているうちに、また薬物を使用してしまい、自分への失望や、周囲への申し訳なさから孤立し、ますます依存への道を進んでしまう…という悪循環が起こりうる。だからこそ、まずもって必要なのは、逆説的だが「安心して薬物を使いながら通院できる場」であると筆者は結論づけ、具体的に治療のプログラムを作り上げている。
回復に至るまで複数回薬物を使用してしまうこともあるという前提で、むしろそれが当たり前であるとして、それをただ非難し処罰するのではなく、治療するとの姿勢をとることが再犯を防ぐ意味でも必要だということか。これもまた、世論受けは悪そうだが、納得がいくところではある。
ところで、筆者が中学・高校で薬物に関する講演を行い、その後生徒たちに実施するアンケート調査によれば、いわゆるリストカットのような自傷行為の経験がある生徒は1割程度存在しているそうで、彼ら・彼女らは「人を傷つけているわけではないのだから、薬物を使いたい人は勝手に使えばよい」といった、治療を拒む薬物依存症患者の決り文句と同じ回答をするそうである。
結局のところ、ほとんどの人間は薬物と無縁の人生を送るはずなのであって、気にかけるべきは、そういった少ないながらも確実に存在している層にあるのではと筆者は言う。
また、薬物を使用する理由は、単に快楽を得るためというよりかは、苦痛から逃れるためとの考え方ができる。薬物云々以前に、究極的には相談できる相手がいるかどうか、人的・社会的なつながりを持てているかどうかによって大きく左右されるということで、孤立・孤独から(それを辛いと感じる人に対してが前提ではあるが)どう救うか(若干おこがましい言い方)・救えるかが重要なのだろう。
キャラ付けがされた男女の会話劇が全部化物語に見えてしまうのはよろしくないと思いつつ、個人的にはどうしようもない。どうしましょう。
強いひたぎさんと弱い阿良々木くんみたいな感じでした。「大丈夫か? 狂うか? 狂うか? もう狂うか?」との姿勢で読み進め、狂ったり狂わなかったりするところでハラハラしながら、やっぱり狂い目になるところとラストが好きです。
久々に宇宙の絡まないSFを読んだ気がする。空想上であるはずの事物が、さも現実であるかのように感じられるのはよい作品だと思う。その世界が当然であるかのように思われてくる感じ。
読み終わった後、地球上に人間以外の知的生命体がいないからややこしいんじゃないかと思い始めた。みんなどこを何のために目指しているんだろう。
100分de名著の方を読んでからもう一度読み返そうという気持ち。
神谷さんからすると、第三者である推しを生きがいとする人々はどのように映るんだろうかと気になった次第。
小説というかは脚本に近いと思うが、だからこそアニメ化したら映える気がする。1話~2話で一章分の構成でどうでしょう。
転生しない異世界ものって要するにファンタジーものなんじゃないのかと思いつつ、レベルやスキルの要素が(特に作中において必須の役割を果たすわけでもないのに)登場するのは時節柄か。昔からそうだったのかもしれないが、よくは知らない。するする読めるよ。
これは完全な趣味であるが、立身出世もよいけれども、強い人がつよつよで無双してくれる作品のほうが安心できて落ち着く。そういうのが好きな人は楽しく読めると思う。
タイトルの通り、怪異が登場することはない。日常の謎系だが、特に後味が悪いわけでもないので、あまり身構えなくてもよい。(少なくともこの巻では)
淡々と話が進み、展開に大きな裏切りもない。平和である。これは皮肉ではなく、青い鳥文庫にあったら人気が出る気がする。ただ、ターゲット層が違うか。
いつかに電子版を買っていて、読もうと思ったら一応シリーズ二作目とのことで、じゃあ一作目から読もうと思ったら、もろもろの電子版がなくなっていて、まあええかと読んだ。何かあったんでしょうかね。あと配信終了してても購入分は読めるのね。
幻想的なのに現実感があって、小説だからできることをやっているという感じがする。想像の中だからこそ浮き上がる世界というか、映像化したらむしろ非現実的になってあかんのやろなと。理解できている気は全くしないが、そうであるがゆえに理解できる気もする。
お気に入りは『籠中花』と『甘い風』。前者は白鳥飛鳥の生き様が、後者は世界の底知れなさが楽しかった。あとは『枯れ蟷螂』のラスト。それはつまりどういうことだ…? ともあれ、全編通して読後感のよい一冊でした。