死に物狂い

他人から影響を受けやすい人間のフィクション日記

あなや、穴屋

 駅の改札をくぐり、時計を見るとちょうど21時を示していた。大晦日だというのに、何一つ特別なことはなく、こんな時間になってしまった。今日ぐらいは早々に帰るつもりだったのに、現実がそうさせてくれない。仕事があるのは良いことだが、ありすぎるのも困ったものだ。とはいえ一番困った存在は、そのような状況を良しとしている自分自身かもしれない。

 などと言いつつ、実際のところいつもよりはだいぶ早い帰りだ。無事に仕事も収まった。年を越す前にそばをすする余裕は十分にあるだろう。その前に、風呂にも入れるはず。今年の汚れは今年のうちに落としておきたいものだ。

 寒さに身を縮こませながら歩いていると、ふと目の前の光景に違和感を覚えた。光景といっても、薄暗くてよく見えないのだが。しかしその薄暗さが、いつもとは違う気がする。違和感の正体に気がつくまで、そう時間はかからなかった。街路灯に照らされた道が、昨日よりも少しだけはっきりと見えるのは、その建物の電気が点いているからだった。

「若和久湯」は長きにわたり周辺住民に愛された銭湯だったが、世の多くの銭湯と同じく、5年前にその役目を終えていた。建物も煙突も残っており、また店の横には薪木が積まれたままである。しかし、浴槽に湯が張られることはもはやないのだろうと、誰もが思っていた。

 それにもかかわらず、店の電気がついている。これはどういうことだろう。私が知らなかっただけで、実は毎年大晦日だけは営業がされていたとか。だとしたら、何とも粋な話ではないか。そう思って、誘蛾灯に引き寄せられるがごとく、私は明かりの方へと近づいていったのだった。

 店頭の明かりは看板を照らしていた。やはり営業しているのか。しかし、よく見るとそこに書かれているのは「若和久湯」の文字ではなかった。

 

『あなや、穴屋』

 

 見慣れた明朝体で書かれたその名称を、私は頭の中で繰り返した。あなやと驚いている意味もわからなければ、そもそも「穴屋」が何なのかも分からない。看板の前で立ち尽くしていると、入り口のすりガラス越しに、動く人影が見えた。

 再び時計を見た。ただいま21時7分。あまり寄り道していると、そばも風呂も間に合わない。しかし、穴屋とは何だろうか。気になった私は、年の瀬特有の高揚感も相まって、普段では到底見られない大胆さにより、穴屋の引き戸を開けたのだった。

 

 店内に入ると、すぐに番台に立つ男性と目が合った。

「どうもこんばんは」

 男性は穏やかに笑みを浮かべながらそう言った。歳は40台後半に見える。下半身は隠れているが、天井が低く感じるぐらいに背が高い。この寒さにもかかわらず、白い半袖のTシャツ1枚とデニムのオーバーオール出で立ちで、立派な口ひげを携えている。袖の先から伸びた二の上では筋肉隆々であるが、それなのに全く威圧感がないのは、柔和な表情のおかげだろう。

 面食らった私は、一瞬の間を置いて笑顔を返した。

「こんばんは。銭湯が開いてると思って懐かしいなと、つい入って来てしまったんですが、銭湯ではないんですかね」

「そうですね。今は銭湯じゃないんですよ。私の代になってからは、穴屋でやらしてもらっています」

「そう、それが気になってたんですよ。看板も拝見したんですが、『穴屋』というのは一体何なんですか?」

 聞かれ慣れているのか、店主は少し苦笑いしながら答えた。

「やっぱり分かりにくいですよね。いつも皆さんから言われるんですよ。何の店だか分かりにくいって。でもこれ以外の表現が思いつかなくて。ここはお客さまに穴を掘っていただく場所なんです」

「穴を掘る?」

「そう。だから『穴屋』なんです」

 分かるようで分からない。得心しない顔をしていたのだろう。店主は少し困った顔で説明を続けた。

「本当にただそれだけなんです。そこにあるスコップを使って、地面に穴を掘ってもらうんです。やってみてもらったほうが早いと思いますよ」

 店主が示す先を見ると、スコップが整然と並べ立てられていた。店主はそのうちの一つを持って来ると、私の目の前に差し出した。

「はい、どうぞ」

 普段の生活でスコップを目にすることがないからか、目の前で見るそれは、思った以上に大きく見えた。

「ここで穴を掘るんですか?」

「そうですよ。こんなに日に来ていただいたのも何かのご縁と思いますから、是非とも掘っていってください」

 何が何だかという気もしたが、差し出されたスコップを見て、ここで受け取らないのも勿体ないように思えてきた。穴を掘るとは、つまり穴を掘るのだろうか。好奇心に負けた私は、気合を入れて、やけに重そうに見えるスコップを受け取った。スコップは見た目に反して非常に軽かった。

「軽いでしょう? お客さんに気持ちよく掘っていただけるように、一応道具にはこだわっているんですよ」

「はあ、そうなんですか」

「まあまあ、御託は抜きにして、とにかく掘ってみましょう。そうだ、服は着替えなくて大丈夫ですか? 掘る過程で結構汚れてしまいますので。作業着もお貸しできますよ」

 穴を掘るなら当然汚れるだろう。しかし、服を着替えるとなると、何だか大げさな気もする。

「いえ、どうせ年明けでクリーニングに出す予定なので今日はこれでいいですよ」

「そうですか! では早速掘りましょう。こちらへどうぞ」

 そう言うと、店主は店の奥へと向かった。その後ろを、スコップを持って付いていく。

 店主が引き戸を開いたその先には、浴場があったはずだった。全面タイル貼りで、浴槽が三つ。そのうち一つは電気風呂で、幼い頃にびくびくしながら手をつけたのを思い出す。しかし、今私の目の前に広がっているのは、だだっ広い茶色の空間だった。等間隔に電柱と街灯が立ち並んでおり、その明かりに土が映し出されていた。

 鏡も蛇口も浴槽も、全て撤去したのだろうか。いや、そもそもおかしいではないか。この空間はあまりにも広すぎる。仮に男湯と女湯を繋げたのだとしても、このような面積にはならないはずだ。それとも、穴屋を営むにあたって周辺の土地をまとめて取得でもしたのか。だとしても広い。何せ壁が見えないのだ。

 後ろを振り向くと、広大な空間に、くぐってきた引き戸の枠が浮いている。その先には脱衣所が見えた。しかし、そのほかは、どちらを向いてもただ地平線が見えるだけだった。

「広いでしょう? 一人ひとりが掘れるスペースを大きく取れるようにしてるんですよ。やっぱり他の方と近いと集中できないって意見もよく聞きますんでね。それに、最近は感染症対策も大切ですからね」

 ニコニコと説明する店主の言葉を咀嚼しながら、しかし理解が及ばない。

「ここは一体どうなってるんですか?」

「いや、正直なところ、かなり費用はかかったんですよ。でも、結果お客さんには喜んでいただけているので、やって正解だったなと思っています」

 それは、答えになっていないのではないか。しかし、この点を問い詰めても、にっこり笑った店主が答えてくれる気はしなかった。

「それじゃあ、一時間したらお知らせしますので、自由に掘っていただければ。あ、お代金はいただきませんのでご安心ください。初回は無料にさせてもらってるんですよ。そうじゃないと、なかなか掘ってみようという気にはならないと思いますんでね。あと疲れたらその場でも、脱衣所でも、好きに休んでもらって大丈夫ですよ。飲み物もご用意しています」

 まだ掘るとも掘らないとも答えていないのですが、と言うより先に、店主は引き戸を閉めて番台の方へと歩いていった。

 時計を見る。21時15分。一時間掘ったとしても、まだまだ年越しには間に合いそうだ。奇妙な状況に浮かされてもいたのだろう。私はもう、穴を掘る気でいたのだった。

 

 穴を掘る。事務仕事で生計を立てる私にとって、それは思った以上に重労働だった。土は柔らかく、スコップという利器もある。そう力を入れず、刃先が地面に突き刺さっていく。しかし、そうは言っても一すくいで掘れる量はそう多くない。もとより道具の使い方に慣れていない。この掘り方でよいのだろうか。もっと効率の良いやり方があるのではないか。考えながら地面を掘っていく。

 掘れば掘るほどに、胸が脈打ち、普段の運動不足を痛感させられた。息が上がる度に手を止め、呼吸を整えなくてはならない。当然ながら、その間穴は深まらない。そうして、掘って休んでを繰り返していると、背後から声が聞こえた。

「お客さん、一時間経ちました」

 振り向くと、店主が脱衣所の引き戸を開けて立っていた。

「もう一時間も経ちましたか」

「思っていたより早いでしょう。皆さん最初はそう仰っしゃります。お客さん、スコップを使った経験は?」

「いやあないですね。少なくともこの大きさのスコップは」

「やっぱりそうですよね。現場仕事をされている方は別なんですが、多くの方はまず道具に慣れるところからです。でも、大丈夫ですよ。すぐに慣れてきますから。どうします? もう少し掘っていきますか?」

 一瞬の思案の後、私は答えた。

「もう一時間だけ掘ってもいいですか?」

「もちろんです! また時間が来たらお声がけしますよ」

 それでは、と言って店主はまた番台へと戻っていった。

 一時間だけ、と言ったものの、はたしてどの程度掘れるだろうか。そう考えている時間すらもったいない。私はあらためて、できかけの穴に目を向けた。掘って、掘って、掘って、掘っていく。

 

「お客さん、一時間経ちました」

 顔をあげると、店主がしゃがみ込んでこちらを見下ろしていた。

「もう一時間経ちましたか。さっきより早く感じますね」

 私は純粋に驚きを伝えた。

「そうでしょう。皆さんそう仰っしゃります。最初の1時間より、次の1時間って。でも、それが掘っていくとまた変わってくるんですよ」

「そうなんですか。掘っていかないとわからないこともあるんですねえ」

「ええ、お客さんにもその過程を楽しんでいただけたらと思います。どうします? もう少し掘っていきますか?」

 私は時計を見た。23時30分。流石に潮時だろう。これ以上やると、そばも風呂も間に合わない。

「いえ、ちょっと今日はこのへんで切り上げようと思います」

「そうですか。たしかに、最初からやりすぎるのも体に毒ですからね。それに今日は大晦日ですから。しかし、だいぶ掘られましたね。はしごを持ってきますので少しお待ちを」

 穴の深さは私の身長をゆうに超えていた。それでも、穴の中から出ようと思えば自力でも出られそうではある。しかし、スコップを持つ腕が震えていた。筋肉が悲鳴を上げているのだ。おとなしく店主を待ち、持ってきてくれたはしごに足をかけ、途中で落ちないように穴の外へと登っていった。

 上から穴の中を見ると、より一層深く見える。これだけの穴を掘ったのかという達成感と、この穴の中にいたのかという不安がないまぜになった。

「そういえばお客さん、年越しそばは食べられますか?」

 藪から棒な店主の言葉に面を食らいながら、その意味を理解しようとした。

「実はサービスでお出ししてるんですよ。よかったら食べていかれませんか?」

 

 そばをすすりながら、天井から吊り下げられたテレビに目を向ける。どうやら紅白歌合戦が終わったらしかった。除夜の鐘の映像に変わり、レポーターの声が聞こえてくる。今年ももうすぐ終わる。

「お客さん、今年はどんな年でしたか?」

 番台から店主が聞いてきた。彼も私と同じように、そばをすすっている。

 はたして、どのような一年だっただろうか。変わらないと言えば変わらない。色々あると言えば色々あった。器に目を落としながら、私はひとしきり考えて、こう答えたのだった。

「トンネルを掘るような一年でしたね」

「トンネルですか。それは大変おつかれさまでした。無事に開通はしましたか?」

 どうなのだろう。崩落の危険も乗り越えて、掘って掘って掘って掘り続けた。光は見えた気がする。しかしまだ、掘り終えてはいないような気もする。

「あまりはっきりとは言えないのですが、まだ繋げられてはいないと思います。でも、もうすぐな気もしますね」

 テレビからも、店の外からも鐘を撞く音が聞こえる。こういう妙な年越しも悪くはないかもしれない。おいしいあまり、そばの出汁を飲み干した私は、ふっと一息をついて再び器に目を落とした。すると、その底には店の名前が書いてあった。

 

『あなや、穴屋』

 

 ああ、そうか。穴屋とはつまり、穴を掘る店であるのだ。

「店主さん、ありがとうございます。これでやっと、開通できました」

「そうですか。それは良かったです。来年からはどうされますか? また新しく掘り始めますか?」

 私は少し悩んで首を縦に振った。

「そうですね。次はもっと深いところまで行ってみようと思っています。そうですね……10メートルくらいでしょうか」

「おや、それじゃあまだまだですね。うちのお客さんたちは30メートル以上は当たり前ですから」

 なかなか手厳しいことを言う。

「では、お客さん。良いお年をお迎えください。是非とも、また来年お会いできることを楽しみにしています」

「ええ、こちらこそ。良いお年を」

 そう言って、私は穴を出たのだった。鐘の音はもう聞こえなくなっていた。