死に物狂い

他人から影響を受けやすい人間のフィクション日記

ここは酒飲みワンダーランド

 日常がいつ戻ってくるのかは定かではないが、ともするともう元に戻っているのかもしれない。電車の乗客は目に見えて増加し、残業帰りでも飲食店はまだ暖簾を下ろしていない。思えば路上飲酒民が減った。つまりそれは、屋内に回帰しているということなのだろうか。

 

 帰り道、目の前に一人の兄ちゃんがいた。遠くからでも分かるくらいふらついている。全く足元がおぼつかない。千鳥足と呼ぶのにふさわしい。徐々に彼との距離が近づくにつれて、やはりふらふらとしているのがよく分かった。

 ヤジロベーの如きバランス感覚発揮しながら、彼は突然に立ち止まり、身体を90度横に向けた。彼の目の前には、地中線用の変圧器が立っている。正対して束の間、彼は一心不乱に変圧器を蹴り始めた。弱々しく、全く体重の乗っていない蹴りだった。

 

 向こう側から、一人の青年が歩いてくる。手にはスマートフォンを持ち、よく見るとライトが点いていた。青年は楽しそうに笑いながら、依然として蹴りを繰り出し続ける兄ちゃんの方へと歩いていく。それはどのような邂逅になるのか。化学反応による大爆発が起こるかもしれない。あるいは、兄ちゃんの蹴りが、青年に向かうことになるのか。

 振り返らずに私は駅に向かう。後ろから争うような音は聞こえてこない。話はうまくまとまったのだろうか。もしくは融合したのかもしれない。

 

 歩いていると、とある落とし物が目についた。表面積の大きいそれは、よく見ると、近くにある居酒屋ののぼりだった。誰かがわざわざ引き抜いて、ここに置いていったのだろう。「ハッピーアワー!」の文字が打ちひしがれている。

 のぼりを置き去ったのは、あの蹴りの兄ちゃんかもしれないし、スマートフォンの青年かもしれないし、全く別の人間かもしれない。人間の仕業ではないかもしれない。

 

 前を歩く男性二人が、当たり前のように歩きタバコをしながら、楽しそうに喋っている。副流煙を顔面で受け止めつつ、かの日常は実態がどうあれ戻ってきているのかもしれない、と私は思った。