『汚穢のリズム』を読んだ。
先日、本屋に行った折に目に触れ、興味を惹かれて購入したものである。これは本題ではない。
汚穢(おわい)という言葉を知らない。穢という文字はそれだけでどこか忌避感を催すものであるが、その由来が何であるのか、インターネットのレベルではよくわからない。字画が多いと、おそらく集合体恐怖症の親戚を呼び起こすのではないか、という感覚があるが、じゃあどんな字でも嫌な感じがするのかと思って、同じ18画の漢字を調べてみたら、気持ち悪いとは言わずとも圧倒される感覚はある。
というより、画数は関係がないのかもしれない。漢字が並んでいると、その意味を問わず、何だか嫌な感じがする。ホラーの演出でもよくあるではないか。壁一面に書かれた文字。それを見て「なにこれ……」と絶句する登場人物。そういう場合には、一定意味のある言葉、文章になっていることが多いだろうが、意味もなく漢字が並んでいても、それはそれで怖いと思う。魚編の漢字を並べてもよい。あらゆる魚の漢字が書かれた壁を見て、即座に「湯呑みかな?」と突っ込める人間はそういないだろう。しかし、別に字そのものが汚れているわけでも、穢れているわけでもない。だから、その忌避感なるものは、記号が密集している見た目への嫌気である。
目の前のものが汚れている、と判断するのは、それを見た人間自身である。ある基準を超えた場合に、触れたくない、見たくない、関わりたくない、と思うようになる。一方で、共通的な認識も存在はしている。ただ、その共通認識は、当然ながら、保有される社会によって異なる。
本書を読んでいて特に面白かったのは、沖縄での養豚と人間の関わり方の変化を考察した、『分かつ――豚が「汚くなる」とき』だった。
ある存在はどのように「汚くなる」のか。戦前の沖縄では、ほぼすべての住民が豚を飼っており、文字通り生活をともにしていた。しかし、戦後復興の流れとともに、養豚も産業化が図られ、多頭飼育が進むと、これまでのように居住地で飼うことは難しくなる。結果として、豚は遠隔で飼育され、人と豚との間に物理的な距離が生まれることとなった。そうすると、これまで豚と暮らしていた人ですら、豚を外のものとして扱うようになる。当たり前のように一緒にいた豚。そんな豚から発せられる臭いもまた、あって当然のものであったが、豚と距離が離れることによって、その臭いも「異臭」と呼ばれる存在になっていく。
そして、一般的にそのような感覚を持つ人が多勢化した結果として、養豚場の中ですら、同様の区分けが行われる。例えば本編で紹介される養豚場では、養豚場と事務職員の執務スペース・応接室等は別の領域として認識され、互いのスペースの往来は厳しく禁じられている。そのような取り扱いは、そもそも豚を汚いという感覚がなければ起き得ないはずである。なぜ、養豚場ですらそうなるのか。筆者は、それを外部者の眼差しの産物であるという。豚の臭いをくさいと言う外部者がいる。そして、外部者は、内部者にも、豚という異物との厳格な分離を求めている。内部者もまた社会の中で外部者と関わる(もとい内部者もまた外部者である)がゆえに、養豚場という環境の内部ですら、このような区別が起こる。
これは社会的な変化の一例だが、個人的な経験にも当てはめができるか。私の卑近な例で言えば、犬を飼うことによって、排泄物への忌避感がなくなった。必要であれば素手でも触れる。しかしこれは、我が家の犬であるからであって、その意味では内部化した感覚だと言えるかもしれないが、一般化はできないようにも思う。どちらかと言えば親愛的な感情から来るもので、子どもの排泄物が気にならなくなるのと同じだろう。客観的には汚いが、主観的には汚くない。そしてこの、「客観的に汚い」のがどういうことなのか、という話であろう。
汚さとはなんだろうか。あるいは、何がどうなって目の前のそれを汚いとみなすことになるのか。生来的な感覚だ、と処理してしまうのではなく、考えることで見えるものがあろう。