死に物狂い

他人から影響を受けやすい人間のフィクション日記

夏の青空の下『僕らのフロンティア』を聴きながらジョギングしたら目の前がBlue Blue Skyになった

 ワイシャツを着て浴びる直射日光は死しか想起しないのに、スポーツウェア越しだと途端に活力の源となる。単純に通気性の問題かもしれない。ともあれ、後者の場合「あっついな~」と汗を拭いながら、つい口元が緩んでしまう。さながら、戦闘狂が強敵に出会った瞬間である(フラグ)。

 雲ひとつない青空が付いてくるとなおよい。少し雲があってもよい。青と白のコントラストが鮮やかだ。この色使いに外れはない。その日の空にはわたぐもが浮かび、木々の緑とあわせて空間を三色に彩っていた。

 私はいつもどおりジョギングに行くことにした。速さや距離を求めるわけではない、ただ純粋に、暑い日に体を動かしたい欲求からくる行動だ。何なら歩いてもよい。

 

 地面を蹴り出す足は軽快だった。身体がゆっくりと、しかしぐんぐん前に進んでいく。早々に汗が背中を伝い落ち始めた折、帽子のつば越しにあらためて青空を見た私は、唐突に、強く『僕らのフロンティア』を聴きたい欲求に駆られた。この空に合いそうだ、と思ったからだった。

 

 一旦立ち止まり、スマホからAmazon Musicを起動した。しかし、障害でも起きていたのか、楽曲を再生してくれない。もどかしさに駆られながら、Spotifyへと移動し、シャッフル再生の波を乗り越え、ようやくたどり着いたのだった。

 

open.spotify.com

 

 イントロにあわせて、頭のなかに青空が広がる。ああ、やっぱり夏にぴったりの曲だな。青春の瑞々しさと爽やかさ。BPMにあわせて足を動かすと、身体は一層軽くなっていった。気分の高まりとともに、1番のサビがやってくる。

 

Blue Blue Sky
目の前にある空は
すごく綺麗で 誘うよ じょうずに

 

 自然と帽子を取り、視線を上へと向けていた。目の前の光景は、直前まで脳内を占めていた景色と寸分違わなかった。そこには青空があった。すごく綺麗な青空があった。

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 人は「自分のことを歌ってくれている」と感じる楽曲に親近感を覚え、好き好んで聞くようになるものだ。では楽曲の情景が、自分が今見ているそれと一致した時どうなるか。まずもって覚えたのは感動であった。

 そもそも、頭に浮かぶイメージは自分自身の記憶から形成されるものであろうから、私が僕らのフロンティアを聴いて思い浮かべる青空は、結局これまでに自分が見てきた青空に等しいはずだ。だから、私が見ている景色と同じだったとしても、よくよく考えればむしろ当然であるように思われる。

 しかし、理論上はそうであっても、当の本人が得たのは、空想世界と現実世界が同化した感覚にほかならない。頭の映像と視覚情報が重なり合う。空の青さはより青く、雲の白さはより白く。同時に視点は自分から離れていく。私の目を通して私が見える。そこに映っているのは、上空を見上げながら涙を流す男の姿だった。

 老化現象の一つだろうか、いつからか気持ちが昂ぶると泣いてしまう。音楽という聴覚情報によって倍加された視覚情報が、敏感になった私の脳を殴っていく。なぜか森羅万象への感謝の気持ちが湧いてきて、身体はますます軽くなる。どこまでも走っていけそうというのはこういうことか。息苦しささえ、心地よく感じた。

 

Blue Blue Sky
おなじ想い塗りこめた この空
すいこまれそうになるよ

 

 きっと私もそうだったのだろう。導かれるように、青空に向かって走り続けていた。しかし、どれだけ走っても手が届くことはない。呼んでいるのはそっちだろう? と言うのは責任転嫁か。青空はいつもそこにあるが、ただそこにあるだけである。

 

 急激な速度の上昇に、いよいよ肺が悲鳴をあげてきた。もともと1kmを8分かけて走るような人間である。無理はできない。あと五本先の電柱まで行ったら、ペースを落とそう。

 次第に曲も終わりへと近づいていく。あれだけ清涼感にあふれていたのに、今では寂寞感が強くなっている。思えば、僕らのフロンティアは元気いっぱいの楽曲ではない。歌詞もメロディも、どこか物寂しさがある。一日の終わり、夕暮れのような。いつかは終わりを迎えることが前提にある何かが。

 そう考えると、僕らのフロンティアは、単に夏ではなく、晩夏にぴったりな曲と表現するのが正しいのかもしれない。季節の移り変わり、年末への道程。冬を巡りの終点と捉えてしまうのは私たちの性だろう。暑さだけは夏を引きずっているが、気づけばセミの声は遠くなり、暦の上ではもはや初秋だ。夜には虫の声が響くようになった。今年ももうすぐ夏が終わる。