死に物狂い

他人から影響を受けやすい人間のフィクション日記

ゲーム内における生命と生活感について

どうぶつの森に手を出せないのはどうしてだろう

 プレイしたい気持ちを持っていながら、どうぶつの森というコンテンツになかなか手を出せないのは、そこに生命を感じてしまいそうだからだ。キャラクタが生きていて、日々の生活を送っている感覚。もし自分が飽きてしまったら? 現実の私が離れてしまっても、ゲームの中で彼ら/彼女らは生き続ける。それがなんだかとても無責任というか、「あの子たちはどうなってしまうんだろう」と思ってもやもやしてしまいそうなのが怖くて今に至る。ポケットキャンプは少しだけ触ったが、どうぶつ達のことを深く知るのが怖くて、2,3日も経たない内に離れてしまった。

 

 このような感情を覚えるようになったきっかけを考えたとき、真っ先に思い浮かぶのはゲームボーイ用ソフトの『ポケットファミリーGB』だ。GB2だったかもしれない。何とも定かではない。ともあれ、当時のコロコロコミックで特集が組まれていて、確かピョコタン氏の4コマ漫画連載もあった気がする。それぐらいには力を入れた宣伝がなされているソフトだった。

 どういうゲームなのかについては紹介されているサイトがあるのでそちらに譲るとして、特徴の一つに時計機能があった。たしか宣伝記事には「プレイしていない間もゲーム内で生活が続いているんだ!!」みたいな謳い文句が付されていたと思う。それこそ、ぶつ森のように、現実時間にあわせてゲーム内時間も進んでいくのである(ただ、現実の進みと完全に一致しているわけではないようだが)。

 私は上記の謳い文句を見たときに、「すごいな!」ではなく、「怖くない?」といった感想を覚えたのだった。だってプレイしてもしなくてもキャラクタが生活して歳とって死んでいくんやで? そんなんもう「命」やないですか。いや、たまごっちにはそんな感情を持たないので、えらく勝手なアニミズムではあるけれども。*1

 このゲームのプレイを始めたとして、飽きてしまったらどうなるのか。最初に電源を付け、ゲーム内での彼ら/彼女らの人生をスタートさせるのは自分だ。しかし、それ以降は自分の手を離れて自立的に行動する。ゲーム内のキャラクタは、私が飽きたかどうかに関係なく生活を続けていく。私の勝手で始めたのに、その世界に呼ぶだけ呼んどいて、後は勝手によろしくやってくれと突き放せてしまう(などと解釈しているのもまた私の勝手だが)のが怖かったのだ。

 

 同じことが『トモダチコレクション』にも言えた。少しばかり友人にプレイさせてもらって、何なら私の分身がソフト内に降り立った。Miiたちはそれぞれに交流しあい、互いに関係性を築いていく。各々の生活があり、時には家庭を持ち、我々と同じような社会性を帯びていくのである。

 もちろんゲーム内容自体はユニークで、その面白さも十分に分かる。その一方で、「彼ら/彼女らは最終的にどうなってしまうんだろう」みたいなことを考えてしまうのである。ゲームを起動しなくなったとき、私が観察をやめたとき、Miiたちはどこに行くのか。

 

 どこにも行かないのではないか。

 

私がいなくてもキャラクタは生き続ける

 最後にプレイしてから何年が経とうが、再び電源をつければキャラクタたちは昔と同じようにそこで生活を続けているはずだ。一度生まれた命は、観察者なき後も自分たちでたくましく、楽しく生活を送っているのである。そうであるのに、一方的に変な心配をするほうが、むしろおごり高ぶった行為なのではないか。

 というわけで 買えばよいのだ ぶつ森を(字余り)。と言いながら、私は今回も手を出さないような気がする。意固地になっているわけでもないのだが……何か精神的に根深いもののようだ。

*1:もっと言えば、ゲーム内で人を撃つのも切るのもためらいはない一方で、動物がその対象だと気が引けるのだが、これも不思議なもんだなと思う。動物のほうがどこかリアル感が出るのだろうか。