死に物狂い

他人から影響を受けやすい人間のフィクション日記

2月に読んだ本など

 並んで歩いていたつもりが、いつの間にか姿を消した。2月とはそういうものである。

 以下、コンテンツの感想についてはネタバレを含んでいたりいなかったりする。

 

 

【2月に読んだ本】

四畳半神話大系

 いつ買ったのかは分からないが、いつかに買ったのだろう積読の消化である。万城目学作品と混同していた。どちらにとっても失礼だと思う。

 創作物における中学・高校生活からは、概ねはっきりと現実的でない空気を感じるのに、それが大学生活となると、多少以上におかしくとも、そう違和感を覚えないのは不思議なものである。本作のような大学生がいるか? と問われれば、普通にいるような気がするし、本作のような学生生活を送っている大学生がいるか? と問われれば、やはりどこかにはいるような気がする。会ったことがあるか? と問われれば、その経験はないのだが、思い返すと変な人は少なくなかったので、彼ら彼女らの延長線上に、こういった人たちがいるような気がするのである。読みながら一種の懐かしさを覚えるのは、そういった記憶の残滓によるものだろう。

 どのような選択をとったとしても、人生の上で出会う人々や、得られる経験はそう変わらない。言い換えれば、他の可能性なんてものは存在しない。そう考えることが救いにならない場面も多いだろうが、多少なり歳をとった今では、納得するところがある。どのような道を選んだとしても、結局自分は自分でしかないので、行き着くところは同じになるような気がするのである。もちろん、そんな風に言えるのは、比較的現在が充実しているからであって、そうでなければ納得も何もないだろう。

 途中から、明石さんとどう出会うのかが気になるようになり、それを透かし見られたかのような展開になった際には、してやられた感が強かった。この四畳半では明石さんと結ばれないのか? そんなことは許されない。そうしたところのロマンチックな結末に私もニッコリ。

 

ペンギン・ハイウェイ

 映画化した時に購入した覚えがあるが、何年前のことだろうか。そう、当時に映画版を見たのである。いい作品だった。と言いながら内容ははっきりと覚えていないのだが、とにかく爽やかだった。そんな印象だけが強く残っている。ということで初見の面持ちで読んだ。

 映像になったから爽やかになったのではなく、そもそも文章が清涼でみずみずしい。よくよく考えると、ほとんど海は出てこず(出てくるといえば出てくるのだが)、どちらかというと山のほうが身近なのに、波の音が聞こえそうな気がしてくる。波の音とというかはセミの声か。映画の画作りに引っ張られている可能性は否めないが、青い空と白い雲。日陰の涼しさと雨の湿気。そういったものが常に頭に浮かんでくる。

 お姉さんが行ってしまったあと、アオヤマくんが急に歳をとったように感じた。もともとアオヤマくんは小学生らしからぬ小学生だが、お姉さんへの恋愛感情を自認したからなのか(これは因果関係が逆な気も)、解き明かさないほうがよい謎もあると身をもって知ったからか。もとい、あれほどの経験をすれば、誰だって嫌でも成長するものかもしれない。冒頭からラストまでは140日。小学生における半年は、そのような変化をもたらすのに十分すぎる期間だろう。

 ラストの一文は、シンプルながらアオヤマくんの万感の思いが込められているようで、読み終えた際には非常に余韻があった。どうかそのまま育ってほしい。

 

ザ・メタバース

 エコシステムだけでなく、技術的側面からの課題解説が多かった印象。経済活動がどうかとか、稼げるかどうかなど以前に、現代のマシンパワーでは、多人数が同時に接続し存在する電脳世界を作るのは、まだ難しいようである。

 読んでいると、それに加えて、メタバースが滞りなく運用されるには、世界的に現状のような政情不安が解消されている必要があるように思われた。それはなんだってそうなのだが、端的には、安定したエネルギー供給が持続できなければ、そもそもメタバースを維持することは叶わない。例えば、電力供給が安定していない状況下において、メタバースのために多大なマシンパワーを用いよう、とはならないだろう。

 

 

【2月にプレイしたゲーム】

クラッシュ・バンディクー ブッとび3段もり!

 2と3をクリアした。シリーズを追うごと難化していく印象を受けた。新規性を出そうとした結果なのか。奥スクロールアクションという要素だけで戦うのは厳しかったのだろうか。

 1はダイヤをすべて取るところまでプレイしたが、2と3はそこまでしようという気にならなかった。隠れた箱を探すとか、途中まで進んで戻るとか、本来的にはそういった1ステージ内の探索を楽しむべきなのだろうが、どうしてもリプレイ性が悪く感じられた。そこに落下死等の即死要素が加わると、イライラが増してくる。特に3のバイクステージやココの海上ステージは、操作性の独特さも相まって、どうしてこのようなデザインになったのか理解が及ばなかった(ただし、乗り物の操作感はPS版から変更されているらしい)。

 プレイしていくうちに、もしこれがオープンワールド(あるいは箱庭型)であったならと思うようになった。クラッシュくんをもっと自由に動かしたくなるのである。狭い一本道のステージで色々やろうとするから無理が生じるのではないか。そう考える人が多かったからこそのクラッシュ5、またはジャック✕ダクスターだったのではないだろうか。

 

Cyberpunk 2077

 大作を買ったはいいが、プレイするのは億劫になる。なりがちである。なぜなら、それに多くの時間を費やすことになるのが目に見えているからだ。Steamのライブラリに鎮座し、いつでもプレイできる状態であるのに、なぜか別のインディーズゲーを起動することも少なくない。せっかくだからまとまった時間をとれる時にプレイしたい。しかし、そんなタイミングは待っていても訪れないし、結局何をするにも同じ時間を使うのだから、さっさと手を伸ばすのが正解である。

 オープンワールドをプレイするたびに、究極的には、自分がFallout3またはNVの面影を追いかけているのだと気付かされる。つまるところは、ストーリーとその世界に引き込まれるかどうかで、システム面はあまり気にならないが、本作においてはその点も特に不満はない(動作が不安定なのは困るが)。

 ジャッキーの存在によって没入感が非常に高まった。特にオフレンダへの出席。思い出の品を探し、彼のために一杯をあおる。店内の雰囲気は物悲しくも個人を懐かしむ人で賑わい、本当に親しい人の葬式に来たようであった。

 メインストーリーはそれほど長いわけでもないようで、年度が空ける前にはクリアできそう。サイドクエストまでやり込むかはわからない。

 

【その他】

TOEIC

 最後に受けたのがおよそ4年前と古く、なんとなく見てくれが悪かったので受けることにした。これぐらい時間が経つと、公式サイト上で過去のスコアは見れなくなるようだ。証明書がなければスコア証明もできないのである(当たり前である)。

 結果はL:420 R:400の820。4年前はというと、このLRが逆だった。換言すれば何も変わっていないということだが、日常的に英語を使う環境にはいないことからすると、維持できているとも言える。成長していないとも言える。

 スコアを向上させたからといって、実際の英語力と特段相関しないのはよく知られているとおりだが、せっかくなので860ぐらいにはしておきたい気持ちもあり、久しぶりに集中的に試験を受けることにした。しかし、受けることにしたからといって、準備ができるわけではない。試験日は、もはや行ったことのない大学に行く日と化している。

 

「あたしたすかる」の理論(後で書くかも)

「○○たすかる」というネットミームはもともとRTA界隈から出てきたものらしいが、一時より「くしゃみたすかる」の用法がそれなりの地位を占め、その後さまざまな使われ方をしている言葉であるように思われる。

 VTuberの配信(ただし、私はほぼホロライブしか見ていないので、これは主語がでかい)において、視聴者より「あたしたすかる」とのコメントが流れることがある。これは、配信者が「あたし」ないしは「わたし」と自称したときに生じるコメントである。

 VTuberは、そのキャラクタ性に応じた自称を行うことが多い。単に自分の名前呼びであったり、あるいは「余」であるとか、「わたくし」であるとか、種類はさまざまである。

 その前提で、時たまシンプルに「わたし」と自称する場合がある。このような場面において、チャット欄には「わたしたすかる」とのコメントが流れることとなる。

 しかし、このとき視聴者は何にたすかっているのだろうか。配信者が素を出したことか。それともハプニング性自体なのか。そもそもVTuberにおける「素」とは何か。これは、VTuberと人間との関係性を考えるにあたっての一つの観点であり、論点になりうる。

 

「我々の世界ではご褒美です」と言われる時の「我々」に私が含まれることはない

 趣味と嗜好が違う。

 しかしそうしてコメント欄に打ち込んでいる人々も実際は「我々」に含まれていないのではないか。本当に「我々」は存在するのか。と考えるのは、自分の視野の狭さを露呈するのに等しい。どこかにはいるし、どこにでもいるはずだろう。

 

VTuberライブ配信におけるカメラワークについて(後で書くかも)

 星街すいせいさんのライブ配信を見た。

suisei2ndlive.hololivepro.com

 カメラワークについて興味深く思ったのでメモをする。

 そもそも、AR映像を用いないライブ配信の最適解はまだないのだと思われる(言い換えると、AR配信が最適解ということになるか。ただし、私はライブ配信をよく見ているわけではないので狭い視野による感覚でしかない)。カメラがステージに近づくと、そこにスクリーンがあることがあまりに明確になってしまう。カメラ越しに見るスクリーンは平面さが強調され、映像自体も若干不明瞭であり、「そこにいない感」が強まる。

 そこで、本配信ではすいせんさんのアップ映像が多用されていた。ここで言うアップとは、スクリーンに近づくことを意味しない。その時だけ、カメラを通してではなく、すいせんさん本人の3Dが配信上に現れる恰好である。元ソースの映像と言えばわかりやすいだろうか。

 この時には、明瞭なすいせんさんの姿が画面上に映し出される。しかし、その背景は無機質な漆黒であり、観客その他の現実世界が映り込むことはなく、そのせいなのか違和感があった。つまり、その映像からは、すいせんさんがステージ上にいるとは認識できないのである。

 このような画作りとバランスをとるためか、観客席の中からの画角も多かった。前の席の観客の頭や、ペンライト越しにステージを見る。その時、ステージ上にすいせいさんは間違いなくいるのである。

 いずれも、現地で見ればあまり気にならないことのようにも思うから、次の機会にはチケットがご用意されるように準備をしよう。