死に物狂い

他人から影響を受けやすい人間のフィクション日記

あれからよりもこれからだって(『あれから(絶望少女達2020)』を聴く)

 アニメ『さよなら絶望先生』の楽曲群がサブスクリプションで配信開始となった、との報せが飛び込んできたのは6月17日のことであった。さよなら絶望放送*1を毎週の楽しみにし、友人*2とカラオケに行くと『人として軸がぶれている』『強引niマイYeah~』『空想ルンバ』『林檎もぎれビーム』を必ず歌い、また原作最終回を映像化してほしいなあと思っている程度(微妙である)には本作のファンである私は、むしろ今まで配信されていなかったのかと思った。

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 ところで、大槻ケンヂと絶望少女達といえば何と言ってもアニサマ2009である。残念ながら現場でその姿を拝んだわけではない。ただ映像を腐るほど見た。小林さんは最初から暴れてるし、沢城さんは途中から叫びだすし、野中さんは一生懸命だし、新谷さんは周りを見て笑ってる。そんな4人を大槻さんが慣れた手つきで引っ張っていく。MCで笑いを取る。オタクを煽る。写メを撮る(ガラケーだ)。ヌンチャクを取り出す。ライブに足を運ぶようになった今だからこそ分かるが、ここに居られたら絶対に楽かっただろうなと思うので、タイムマシンが完成したあかつきには是非とも足を運びたいライブの一つだ。*3

 

 さて、これら絶望先生関連の楽曲が配信されたのは、アニメ『かくしごと』に係る新譜の配信にあわせて、ということらしい(たぶん)。この新譜は両A面で、何とその一方が大槻ケンヂと絶望少女達の新曲である。ということで『あれから(絶望少女達2020)』を聴いた。聴いている。

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 また可符香が歌っている! という感動めいた感情ももちろんあったのだが、それだけではない。私は音楽的なことはわからない、典型的に歌詞から曲に入っていく人間だ。だから耳に入ってくる言葉を聴いて、過去の楽曲を踏まえていることに気づき、何だか興奮した*4。大槻さん曰く、集大成ソングであるとのことだ。

ーー「あれから」はアニメ『さよなら絶望先生』シリーズの主題歌「人として軸がぶれている」などの続編、アンサーソングとも言える曲かと思います。曲に込めた想いや意識されたポイントなどを教えてください。

 

大槻:10年半ぶりの集大成ソングですよね。時を経てようやくポジティブに物事を感じられるようになった。でも決して何かに負けたわけではない。その意識のチェンジとプライドのキープです。

引用元:

www.animatetimes.com

 

 歌詞を見よう。

 

 親戚の子どもを見て「大きくなったなあ~俺は成長したのかなあ~」と自分を顧みる。その子どもはスマホで古いアニメを見ている。多分それは絶望先生である。そこで気がつく。あれからもう10年は経つのだ。はたして俺は大人になれたのかと、再度想いにふけってみる。

 

「親戚の子ども」というのが一つ刺さるというか、これは勝手に私が自分の身に置き換えているだけだが、「自分の子ども」ではないわけだ。その子どもと一緒にアニソンを歌って踊るぐらいだから、親戚間における仲は良好なのだろう。しかし、それはそれとして自分の家庭を持っているわけではない。そのような人物像に見える。何というか、それがとても「ありそうだな」と思えてしまう。*5 

 

 

 私の気がつく限りでは、『人として軸がぶれている』『空想ルンバ』『林檎もぎれビーム』の三曲を踏まえられた内容になっている。これらの楽曲は、決して救いがないわけではないけれども、基本的には周囲に対する呪詛というか、反骨心というか、そういうものが詰め込まれている。自分がブレているのは誰からも支えられていないからだと嘆き、自分を安く見積っている(と思い込んでいる)周りの人間に怒り、自分を変えたいと心からの叫びを上げる。(その結果もろもろねじれてどうにもならなくなる)

 

 そんなややこしい青年期を経て、中年期へ差し掛かろうとするようになるところ、行き着いたのが「生きてれば Good job」という、半ばむず痒くなる結論なのだ。自分だけが自分だけがどうしてこんな目に、と世界を呪っていたのは過去の話で、そこから色々なことがあって、そしてそれは自分だけではなく、自分を安く見ていた「あいつら」も同じだということだ。圧倒的和解。安い言葉で表してしまえば、「皆それぞれに色々あるよね」という感情で、恐らく当時からそれはそうだったのだ。丸くなったわけではないと豪語するけれども、であれば単に「歳をとった」ということかもしれない。決して過去を否定するわけではないが、結論として理想郷なんてものはなく、結局は何気ない日々が幸せなんだ、などという昔であれば考えられないような安直な結論に落ち着く。

 それは諦めなのだろうか。当然抱く疑問に対し、そうではないと否定する。シャングリラへの想いを捨てたわけではない。ないけれど、そこに答えがあるわけでもないと、そう思えるのは成長といって差し支えないのではないか。ブレなくなったということではないか。

 

 ラスト4分2秒から始まる一連のフレーズは、絶望少女達の声も相まって、疾走感と力強さに溢れている。

たられば後悔したとて(したとて)

なるよになるしかならない(ならない)

あれから過去からそれより

これから何して生きよう(これから)

これから何して遊ぼう(これから)

生まれてきたならただそれだけで

それだけでGood job

 絶望に落ちた経験があったからこそ今があるのも事実で、自分にとってはある意味でかけがえのない要素ではあるけれども、その上でも目を向けるべきは「これから」なのである。あれから10年が経った。私はその時間で何かを得ただろうか。わからない。でも、無為に時間を過ごしてしまっていたのだとして、今さらどうにかできる話でもないのだから、これからを考えればいいのだ。きっとそうなのだ。

*1:リバイバル更新マダー?

*2:率先して絶望少女パートを裏声で歌ってくれるナイスガイだ

*3:今年のアニサマに再訪するのではと思っていたが、そんなことはなかった。

*4:メビウス荒野もそうなのだが、時間が経過した今になってということもあり

*5:もちろん、自分の家族を持たないと確定させる描写があるわけではなく、たまにしか会わない存在の方が時間の流れをより感じさせるから、「親戚の子ども」を用いただけ、ということかもしれない。