死に物狂い

他人から影響を受けやすい人間のフィクション日記

他人を呼び捨てにできるか

 いくつになった頃からか、他人を呼び捨てにできなくなった。ここで言う他人とは、同期・同級生・後輩等々。要は上下関係的に自分と同じか下(嫌な言い方だね)の人々のことだ。

 思い出せないなりに思い返してみると、小中学生の頃は何の抵抗もなく、同級生を呼び捨てにしていた。名字でも名前でも、あるいはあだ名の場合もあったが、ともあれ敬称をつけずに呼ぶのが普通だった。

 ことの発端は、おそらく高校入学である。それまでの交友関係がリセットされ、初対面の人ばかりとなった。15歳という年齢は、まだまだ未熟な子どもに違いないが、ある程度は社会常識という抽象的な概念を理解しつつある歳とも言える。初対面の相手に対して、名字を呼び捨てにするのは常識的と言えるだろうか。少年であった私は、そうしないことを選んだ。

 結果「丁寧な人間」などとよく分からないキャラクタ性が付いたり付かなかったりしつつ、人間関係が形成されていくと、結局あだ名呼びに落ち着いた(学生だしね)のだが、そこで私の中に新たな考え方が形成された、と言えるかもしれない。部活の後輩でさえ、最初は敬語+くん付け呼びであった。スポーツモノの少年漫画には一人ぐらいそういうスタンスのキャラがいたでしょう? そういうイメージである。もちろん、そう思っていたのが私だけだったのは言うまでもない。

 いつしか私は労働者となり、業務に勤しむ日々を過ごしているところ、誰かを呼び捨てにする機会はもはやゼロに等しくなった。会社の同僚をあだ名で呼ぶ会社も世の中にはあるらしいが、そういった文化とはまったくご縁のない業界であるので、"くん"と"さん"は必ず引っついてくる。

 とはいえ私の周りにも、自分より下の世代を呼び捨てにする人間はいるし、別に珍しい話でもない。しかし、そうやって誰かが誰かを(そしてそれは概ね年齢か立場が上の人間が下の人間を)呼び捨てにする光景を見るたびに、ちょっとした違和感に襲われるのである。

 根本にあるのは、そもそも呼び捨てって失礼なのでは、という感覚だ。もちろん、親愛を込めて呼び捨てにすることもあるだろう。しかし、その用法が示しているように、そこにはよっぽどのポジティブな関係性の構築が前提となっているように思われる。それこそ、幼馴染であるとか、思春期に同じチームで切磋琢磨したとか。だから私は、仕事中、若手が呼び捨てられているのを聞くたびに思ってしまう。「そんなに親しい間柄なんですか?」

「芸能人のことを"さん"付けで呼ぶか」という些末な論点がある。時に「さん付けで呼ぶと『何だよお前知り合いか何かかよw』っていう感じがする」と言う人がいる。しかし、個人的な感覚としては逆で、むしろ一定の壁があることを意識しているからこその"さん"付けなのではないか。そして私もそのように呼ぶ。ただ、芸能人に対し、自分との間に一定の壁があると殊更に意識しているのも、我ながらそれはそれでちょっとアレな気はするな。