死に物狂い

他人から影響を受けやすい人間のフィクション日記

カメムシは喋らない

 他の地域に遅れをとらず、私の生活圏でもカメムシが大量発生している。多いな、と思うのは毎年のことだが、それにもまして多いのは報道からしてもそうらしい。カメムシが多いことにニュースバリューが認められるぐらいであるから、今年は本当に多いのだろう。

 いわゆる集合住宅で暮らす私も、ドアを開ければカメムシ。廊下を歩けばカメムシ。エレベータに乗ればカメムシである。とはいえカメムシは飛び回るわけでもなく、ただ壁や手すりや天井でじっと佇んでいる。こちらからちょっかいを掛けなければ、対人間では平和な奴らである。農作物は大変らしいが。

 夜に部屋で作業をしていると、やたらと窓の外から羽音が聞こえてくるのはやはりカメムシである。小さい身体の割には大きい羽音で、ブオンブオンと網戸に向かってやってくる。少し前まではカナブンの居場所だったそこには、毎夜2,3匹のカメムシが入れ替わり立ち替わりで休んでいく。もしかするとカメムシではないのかもしれないが、カメムシとしておくほうが安心できる気もする。不思議な感覚である。

 観察する分にはそれほど嫌な隣人感のないカメムシだが、それでも部屋の中に入られると別である。パーソナルスペースに踏み込まれるのは良い気がしない。一度天井からアレが頭上に落ちてきたこともあり、そのせいもあって敏感である。しかし、いかに開口部からの流入を意識していようが、入ってきてしまうのは避けられないから、とりあえず手の届く場所に殺虫剤を置いておくのが肝要である。殺虫剤の絵柄が常に目に入る環境で穏やかに過ごせるのかは議論がある。

 殺虫剤は伝家の宝刀のようなもので、撒いたら最後、油要素の掃除まで含めて行う必要が生じるから、そうやすやすと使いたいものではない。そもそも、理由もなく命を奪うのはよくない。私は見た目どおりに基本的な道徳心を持ち合わせている人間である。

 

 カメムシはお茶犬と同程度にどこにでも現れる。虫全般がそうかもしれない。作業中、何か痒いなと左腕を触ると突起物ができていた。そんな唐突に出来物ができるものだろうかと思って見てみると、カメムシがいた。虫と目が合うのは初めてのことだった。

 コンニチハと言わんばかりの気さくな表情でこちらを見てきたカメムシは、外での姿と変わりなく、特に何をするでもないまま私の腕の上でじっとしていた。そのカメムシの後ろには殺虫剤がある。面白い光景だな、と思える程度には心の余裕があった。最後に虫に直接触れたのはいつだったか。もとより触れるタイプの人間ではない。アルコールを入れて大声を出しながらだったら触れるかもしれない。素面では無理である。

 カメムシ相手に取り乱さなかったのは、呆気にとられたからだろう。お前はいつからこの部屋にいたのか。どうやって腕に乗ってきたのか。そしてその表情は一体なんなのか。普段では絶対にしないだろうに、私は指を近づけていた。すると、カメムシはゆっくりとした動きで登ってきた。警戒ゲージは溜まっていないのか、特に臭いはしない。近くで見るとカメムシはヤァなのかイヨウなのか、言ってはいないが、そんな風に見えてくるのは人間の勝手であろう。

 そのまま外に連れ出して、廊下の手すりに指を近づけると、カメムシはひとりでに移っていった。他のカメムシと同様に、やはり佇んでいる。明日もここにいるだろうか。いても区別はつかないだろうが。いてくれなくてもよいのだが。いたら「どうも」とは思うだろう。でももう家には入らないでほしい。