死に物狂い

他人から影響を受けやすい人間のフィクション日記

ピアノと落語とVTuberと

姪のピアノ

 善良な叔父(当人比)というものをやっていると、姪の晴れ舞台にお呼ばれすることがある。今回はピアノの発表会だそうだ。独身男性でも、このようにして子育てのよい部分だけを享受できる。まことにありがたいことである。

 小さなピアノ教室主催の発表会とはいえ、舞台に立つのは総勢数十人と、規模はなかなかに大きい。未就学児から大人まで、様々な世代が一同に集まり、入れ代わり立ち代わりで演奏を披露していく。それに応じて、客席ではスマホやカメラを持つ手が挙がっては降ろされていく。見ているのは基本的に親類一同だ。この子の親御さんがこの一団なのだなと一目でわかる、アットホームな空間である。

 さて、我らが姪はきらびやかなドレスに身を包み、緊張な面持ちで登場した。深々と客席に礼をして、椅子に座る。舞台上には彼女一人である。ここから演奏を終えるまでの間、全てを自分だけの力でやり切らなければならない。その状況に気づいた時、私は非常によい経験だなあと他人事ながら感じたのだった。

 人前に立つ経験は早ければ早いほど、そして多ければ多いほどよいと個人的には思う。年を重ねるに連れて、そのような機会は増えていくばかりだからだ。中でも、スポットライトを浴びて人の目が自分にだけ集まる状態はその極地であるし、滅多に経験できるものでもない。それでいて、仮に失敗しても(長い目で見れば)いい思い出になる。習い事が子どもの可能性を広げるのは、単に技術を習得できるからだけではないのだ。

 出番が終わると、緊張はすっかりほぐれ、あたりににこやかな笑顔を振りまいていた。解放感を得るのもまた一つの経験だろう。人生もまた緊張と緩和の繰り返しである。このようにして人は成長していくのだなと、はからずも自分としてもよい経験になったように思えた。子どもに教えられるというのはこういうことなのだろう。自分の子でないところは大目に見てもらおう。

 

落語を見る

 何事も思い立ったが吉日であり、普段は目を通さないメルマガに誘引され、久々に生の落語を見に行った。メルマガが宣伝方法として有効であることがよく分かる。足を運んだのは第47回東西落語名人選。6人の落語を聞けてチケット代は6000円。ついでに言うと、寄席ならこの半額以下。タイパがどうかは分からないが、落語は常に安いと思う。

 好きではあるが詳しくはない。私と落語の距離感はそれぐらいである。この日も知らない噺、知っている噺が混ざり、楽しい一日だった。覚えている限りで軽く振り返ってみる。

湯屋番」(柳亭小痴楽。以下敬称略)は、道楽者の若旦那が銭湯の番台をする噺。近くの花街からやって来た女性客が、自分を見初めるのではないか……と声に出しながら番台の上で妄想を巡らせる。人としてのどうしようもなさが垣間見えるが、嫌味がないのがよい。そして、何と言っても語りの立体感である。若旦那は想像力をフル稼働させていて、周りのことなど気にしていない。そんな中、男湯の客が登場する。彼らは、番台の上で身体をくねらせる若旦那を見て驚き、楽しむ。その瞬間、観客の頭に銭湯の風景がありありと浮かび上がるのだ。変なやつが変なことをしている。それを聴衆が見ている。そのような空間を、俯瞰的に私たちが見ている。あるいは、私たちもまた、男湯の客の一人になる。まくらでも言われたように、落語とは観客の想像力に頼る芸であるが、実際そうであると思わされる時間だった。

「狼講釈」(露の新治)は、まくらが最後の最後に効いてくる構成。さげを聞いて「うわー!」となれる。それはさげ自体への驚きではなくて、このさげを理解させるために、まくらで本当に自然に、観客へ知識をインプットしておく技術への驚きである。講釈パートの迫力もあって、噺を聞いている間は完全に忘れているのに、さげを聞いた瞬間に全てを思い出す。それが気持ちよすぎて笑ってしまう。

「葬儀屋さん」(笑福亭福笑)は、個人的に創作落語へ求める要素が全て入っているような噺。ややこしくなく、こんなやつらおらんやろと思うけれども、誰しも日常的にこんな会話をしている気もする。悪いやつはいないが、アホなやつはおる。お腹を抱えて笑ってしまった。今でも情景を思い浮かべるだけで顔がにやけてしまう。

「代り目」(三遊亭小遊三)は、女房の一撃に心を掴まれた。噺の終盤も終盤、女房を使いに出して、自分以外に誰もいなくなったと思い込んだ男が一人でのろけていると、実は女房はまだ家の中にいて、その一部始終を聞いていた。これも湯屋番と同じで、女房という第三者の視点が登場することで、家の中でアホなことをやっている人間の姿がはっきりと浮かび上がる。バチッと情景の定まる瞬間が気持ちよい。

吉良上野介の立場」(春風亭小朝)は、忠臣蔵の噺。吉良上野介って実際はそんなに悪い奴でないのではとの論を少しずつ解き明かしていく。が、残念ながら私は忠臣蔵を知らない世代である。まさしくまくらで言われたように、「忠臣蔵が放映されなくなってきた」という話題のみでしか認知していない。調べてみると、元は菊池寛の小説らしい。こういう落語もある。落語は自由である。

井戸の茶碗」(桂福團治)は、繁昌亭で一度見た記憶がある。とても面白くありながら、結構簡単に泣いてしまう。登場人物の極端な意固地具合に笑いつつも、こういう人たちばかりであれば世の中もっと平和になるのだろうに、という類の感動である。冷静に考えると、身振りだけとはいえ、簡単に人を切ろうとするのはどうかと思うのだが、純真さの現れと言われればそうかもしれない。トリで演じられると、大団円の多幸感に包まれながら終幕を迎えられるため、とても満足度が高い。拍手の音も自然と大きくなる。

 生の舞台から得られるエネルギーは心身ともに健やかにする。やはり定期的に赴くべきであろう。

 

VTuberと落語

 落語をするVTuberは多くはないがゼロではない。検索をすれば個人勢から企業勢まで、様々な動画がヒットする。とはいえ盛んと言うほどでもない。

 落語は音声だけでも楽しめるが、概ね「一度映像(現地)で見たことがあれば」との留保がつくように思う。仕草や表情まで含めてのパフォーマンスだからだ。声からだけでは得られない情報がある。

 落語とVTuberは相性がよくないように思う。Live2Dの可動域と表情変化では、できる範囲でどれだけなめらかに動かそうとも、ぎこちなさが強調される。3Dにしても同様で、Live2Dと比べれば身体の動きは自然になるものの、表情の問題は同様で、かつ声色とのアンバランスさも含めて、かえって違和感が大きくなるように感じられる。2Dであれ3Dであれ、落語で行われるような動きを想定して作られてはいないだろうから、当たり前ではある。表情は喜怒哀楽でわかりやすくプリセットされていて、中間的な感情はなかなか表現しにくい。無表情な表情が端から用意されていなかったりするし、シームレスな変化も難しい。

 細やかに表現できないからというかは、ある程度表現できてしまうことが問題なように思う。言い換えれば、演者が表現しようとする内容と、その出力との乖離が、観客の想像力に対するノイズになるのである。それであればむしろ、音声だけの方がよく、2Dも3Dもなくてよい。噺家はメガネをかけないほうがよいとの意見を聞くことがあるが、それと同じである。

 そのように考えていくと、つまるところ、VTuberという媒体(と言ってしまってよいか)は落語に向いていない、わざわざこの媒体で落語をする必要性はない、といった結論に近づく。しかし、そう言い切ってしまうのもおかしいだろう。落語は想像力を基にする芸である。壇上でただ一人座布団に座り喋っているだけなのに、聞くとなぜだか頭の中に様々な世界が広がっていく。どのような媒体であったとしても、その作用は同じであるはずだ(加えて言えば、視聴者側に一定の想像力を求める点ではVTuberも同様であり、翻って落語との相性が良いと言う余地もあるのではないか)。

 と、このようなことを考えているのは、この度ホロライブプロダクション傘下で、儒烏風亭らでんさんがデビューしたからだ。名前のとおり(?)趣味嗜好に落語が含まれるという。落語とVTuberという表現媒体とを、今後繋げていってくれるのではないか。もちろん、個人勢でもそういった趣向でやられている方はいる。しかし、(身も蓋もないが)資金力と規模のある大手でしかできないことも多いだろう。しっかりとした音響と映像の設備(の今後の発展も含め)のほか、本腰を入れてもろもろのリソースをつぎ込めば、違和感のない落語の表現がいつか可能になるかもしれない。色々言いつつ、私はただキャラクター的な外観を持った存在が、いきいきと落語をしている姿を見たいだけなのである。