死に物狂い

他人から影響を受けやすい人間のフィクション日記

おいおいおい涼しすぎへんか夜道(2020夏)

 ある日の帰宅途中、最寄り駅の改札を出たところでとてつもない違和感に襲われた。その違和感は聴覚を経由して引き起こされているのだと気がついた。鈴虫が鳴いていたのだった。

 

 いやいやそんなわけはあるまい。ついぞ数日前まで、この時間帯の支配者は圧倒的にセミだった。日が暮れてから鳴くなんてルール違反だろ、と毎日のように悪態をついていたことを覚えている。セミは朝に鳴いてこそだからだ。直射日光に身体を晒して、ミーンミンミンミンのサウンドを頭に響かせながら出社する。それが私の夏だからだ。

 

 しかし、セミの声はもうどこにもなかった。まだひぐらしも聞いていないのに、彼らは姿を隠してしまった。いや、私が気づいていなかっただけかもしれない。すでに朝の風景からもセミたちはいなくなっていたのではないか。夏が終わってほしくないがゆえに、私は幻覚を見ていたのではないか。

 

 ともあれ、現実に聞こえてくるのは鈴虫の声である。いや、鈴虫だけではないだろう。しかし私は鈴虫ぐらいしか分からないのでそう表現する。と言いつつ、私が「鈴虫の鳴き声」として認識しているものは、本当に鈴虫の鳴き声なのか。とてもじゃないがリンリンリンリンとは聞こえない。そう思って調べてみると、リンリンリンリンと表現しているのはかの童謡ぐらいで、ジーンジーンとかリリリリリといった表現が一般的であるらしい。なるほど、そうであれば鈴虫なのだろう。もとい、現代は鳴き声ぐらいならYoutubeですぐに調べられるのだから聞き合わせてみればよい。惜しむらくは、鈴虫のフォルムが虫虫しいため、深呼吸しながら画面をスクロールする必要があるところだ。

 

 スマホから再生される虫の声が、現実のそれと混ざり合う。虫の声に囲まれがら虫の声を聞く。よく分からない状況に私はうふふと笑った。

 

 

 翌日、慣れたルーティーンをこなすかのようにまたもや駅の改札を出たところ、昨日よりも虫の合唱が大きくなっていた。意識を向けるようになったがゆえに、そう感じられたというだけかもしれない。しかしこれはもはや大合唱である。とはいえ均衡は取れていない。それぞれが思い思いに歌っているのだろう。

 

 それはそうとまた新たな違和感を覚えた。今度は耳ではなく、皮膚からである。おいおいおい涼しすぎへんか夜道。半袖のシャツを着ている私がアホみたいではないか。駅のホームに降り立っただけでは案外分からないものだ。しかし道を歩けば、季節がもはや秋であることを強く実感させられる。ああ終わった。今年の夏は終わったのだ。

 

 虫の声は涼しげで聞き心地がよい。しかし、一方でどこか物悲しい。それは静寂を前提にしているからだろう。涼しさとともに寂しさを運んでくる。秋が寂しいのか。それとも秋を取り巻く要素が寂しいのか。きっとどちらも正しい。ああ嫌だなあ。寂しいのも、寒いのも嫌だ。だからといって嫌いなわけではない。これはこれで人間らしいのではないか。人間らしさとは何かと問われれば、ようは知らんけど。
 


 翌朝、通勤途上でセミの声を聞いた。普通に鳴いていた。何だ、まだ夏は終わっていないじゃないか。額の汗を拭いながら、内心高らかに労働へと向かった。