死に物狂い

他人から影響を受けやすい人間のフィクション日記

歌唱における二面性の表現について(あるいは、奥野香耶さんの歌う『ド屑』から得た感覚について)

 音声コンテンツは映像コンテンツと比べ、それを楽しむのに要する消費カロリーは少ないはずである。相対的に受け取る情報量が少ないからだ。映像は聴覚と視覚を用いるが、音声は聴覚だけで済む。だからその分必要なカロリーが少ない。疲れてほとほと倒れそうなときには、テレビを見るよりもラジオを聞くほうが楽だろう。そもそもそんな状況ではコンテンツを楽しめないかもしれない。

 さりとて、音声であれば必ず映像より消費カロリーが少ない、ということもないだろう。例えば落語を音声だけで楽しむ場合。特に、想像力を働かさせられるような噺であれば、映像で見るよりもかえってカロリーが高くなることもある。

 加えて言うと、世の中には聞くだけで身を削られるような音声コンテンツもある。実際にあった。最近、耳からエネルギーをごっそり持っていかれたコンテンツがあった。それはある方の歌唱だった。

 

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 歌うのは声優の奥野香耶さん、の変名であるkayaさん。たったの1分58秒。にもかかわらず、聞き終えた時に、どっと疲れる感覚に襲われた。これは何だろうか。もう一度聞いてみようか。しかし、ためらってリピートボタンを押せない自分がいた。何をそんなに恐れているのか。分からない。ただきっと、少し間隔を空ける必要がある。そうして静かにブラウザのウィンドウを閉じ、ベッドに寝転がった。

 

 

 早いもので、それから二ヶ月弱が経った。そろそろ聞けるかもしれない。そう思った自分がおかしく感じられた。「聞けるかもしれない」とはどういうことか。別にこの歌を聞いて、胸糞が悪くなったわけではない。何かから逃げようとしてるわけでも、怖いわけでもない。しかし、今日に至るまで聞けなかったのである。なぜか。分からない。よく分からないままに、私はyoutubeの検索欄に「ド屑 kaya」と入力した。それが何であるのかを知ろうとしたのだった。

 

 

 あらためて耳にすると、前回の体験が嘘であったかのように、特に差し障りなく1分58秒が過ぎた。聞き終えて心に若干のざわつきはあるものの、リピート再生も難なくこなせる。一回で慣れたのだろうか。少なくとも、あの時には何らかの理由があって、変に感情が揺り動かされたはずなのだが。

 例えば、歌に感情が乗っていて驚いた、というのはどうだろう。この歌を聞いて、多くの人は「歌に感情が乗っている」と思うのではないか。私はそう思う。しかし、それができる人は、多くはないが珍しいわけでもない。もとより、奥野香耶さんは声優である。声のプロフェッショナルからすれば容易いのであって、驚くことでもないのではないか。

 では私の感情は何によって動かされたのか。それを知ろうとするために、私はまず『ド屑』という曲自体について知る必要があるのではないか。ならばひとまず、原曲を聞いてみるのがよいだろう。聞こう聞こう。そういうことになった。

 

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 ボカロ曲の知識といえば、メルトとワールドイズマインと牛乳飲めで止まっている程度の浅学さなので、その方面で語れることは特にない。しかし、そんな私でも、ボカロ曲に考察が付き物なのは知っている。とはいえ、本曲の世界観がどうか、という話もしない。というかやはりできないので、ここで考えたいのは、シンプルに「なきそ氏の調声を受けた歌愛ユキはこの曲をどう歌い上げているか」である。それがこの曲のオリジナルの表現であり、kayaさんの表現がそれとどう異なるのかを見ることで、何かのヒントに繋がる可能性がある。

 ということで、音楽理論・表現理論を知らない人間が、自分の認識を感覚的に捉えてみた図が以下のとおりである。なお、以降の図中に記載された歌詞は、上記動画の概要欄から引用したものとなる。

 

 

 クッソ汚い字は大目に見ていただくとして、黄色部分は声の調子が下がる(低音であるだけでなく怖さ・病み成分が出ている)ところ。赤色部分は反対に調子が上がる(高音であるだけでなく怒り・詰問成分(謎)が出ている)ところを示す。

 意外と語調の平坦な部分が多い。この点は意外だった。歌詞と譜割りと曲調から、先入観があったのかもしれない。例えば、「何で」や「お願い」を連呼する部分は、自分だったら一言ずつ語気を強めていきたくなるところだが、そういった表現はしていない。ラストのたたみかけも、他の箇所と比べると強まっているようには思われるのだが、曲調とのギャップが感じられる程度に歌唱上は冷静である。

 全体の起伏がなだらかであることによって、言わずもがな、黄色・赤色部分がアクセントとして光ることとなる。曲を聞いた後で心のざわつきが残るのは、このアクセントがしっかりと効いているからだろう。つまるところ全ては緊張と緩和なのかもしれない。音楽もまた落語である。

 

 分かったような口をきいたところで、さらに訳知り顔で話を進めていこう。次に見たいのは、インターネットの住人たちはこの曲をどのように歌っているのか。この点を調べることで、kayaさんの表現の特徴がつかめるかもしれない。そして私の心がざわつく原因も明らかになるかもしれない。

 

 

 世の人気ボカロ曲の例に違わず、本曲もインターネット上で様々な人に歌われている。そのすべてを把握することは不可能なので、さしあたりYoutube上で再生回数の多い方数人の歌唱を順に聞いてみることにした。

 

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 根本的にボカロと人間とでは表現の仕方が変わるのだろうが、ともあれ原曲と比較して、フレーズ途中で感情をよく上下させていることが分かる。そのうえで、先の図で言う赤色部分がさらに強調されるように感情が発露されていて、その強さは「もうこれ相手を殴打しているのでは」と感じさせるほどである。

 ただ、だからといって、黄色部分をないがしろにしているわけではない。言い換えると、単に感情の強い部分が続いてるわけではない。しかし、黄色部分の最中にも赤色部分が見え隠れしており、原曲の黄色部分にあったアクセントの効果は薄くなっている。その影響か、聞き終えた時に精神的なざわつきというかは、物理的な身の危険を感じるような一曲となったように思われた。一体何があったのだろう。

 

 

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「お望み通りの末路です」までは原曲に近い平坦さがあるが、次の「なんで」連呼から早々にヒートアップが始まる。先述したとおり、そうする気持ちは非常にわかる。「なんで」と言いながら語気を強めていくのが、語感としてとてもよく合うからだ。ではなぜ歌愛ユキはそう歌わなかったのか。そこに何の違いがあるか。

 特徴的に感じたのは、1:21-1:33の「黙って私に従って」から笑顔が連想されるところである。諦めと怒りがないまぜになっているのか。展開としてはその直後、感情の爆発につながっていくのだが、ここはやけにポップに聞こえる。結果として笑いながら泣いている姿が思い浮かんだ。一体何があったのだろう。

 

 

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 超学生さんの歌唱が「強」に重きを置いているとすれば、Geroさんはその正反対に位置すると捉えるのがわかりやすい。でもそれって単に声質の違いなのでは、と言われると、そうかもしれない気もする。

 上記二つの歌唱例では、目の前に「あなた」がいると感じられる場面があった。しかし、この曲の登場人物は一人で、その目の前に「あなた」はいない。

 そう感じる理由は何だろう。感情の発露が最後までそう強くないからだろうか。自分の中でひたすら反芻しているように思われる。誰にぶつけるわけでもなく、心のなかでひとり、何とか解決しようとしている。一体何があったのだろう。

 

 

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 Geroさんのように弱めに意識を振りながらも、しかし振りすぎず、平坦を保つようにしているように感じられた。そうするとメリハリは弱くなるが、その副次的な効果として、「諦め感」が濃くなる。この点は、赤色部分の強調度合いと比例関係にあるのではないか。特定の人物に対して明確に意思を伝えようとするなら、その言動は強くなるはずだからだ。

 

 

 業界柄か男性ボーカルの例が多くなってしまったが、他にも様々な方が歌っている。ただ、いずれにしても性別の違いはあまり問題とならないように思われる。いくつかの歌唱例を聞いた結果、『ド屑』を歌うにあたっての表現上の選択肢は、分類として次のような事項になると考える。

 

(1)原曲で明確に感情が上下に振れる箇所をどう歌うか

「自ら望んだと言ってんじゃん」や「ド屑」のように、原曲内で明確に声色が変えられている部分をどう表現するか。聞いた限り、ここは原曲を踏襲する方が全てだ。振れる程度の大きさについては、人によって若干アレンジの幅はあるが、大きくは変わらないと捉えてよいだろう。

 

(2)(1)の箇所以外の感情の振れをどうするか(振れを生じさせるか否か)

 結局この点に集約されるのではないか。歌愛ユキのように、キメの部分以外は概ねなだらかに歌うのか。そうではなく、適宜に感情の幅をつけて歌うのか。原曲どおりに歌うのであれば、それはモノマネである。モノマネがアカンという話ではなく、歌唱をインターネットに流す人々の主目的は、(おそらく)自己表現にあるのだから、原曲+αで何かしら自分の感情を乗せる、あるいは引き算するのが通常だろう。そしてそこに個々人の特徴が現れる。

 

(3)(2)における感情の振れをどう表現するか

 これは何かを言っているようでその実何も言っていないのだが、一応説明を試みると、原曲どおりに歌わないとの選択を採るとして、では具体的にどう歌うのか、との観点である。現実的には(2)の観点に包含されると考えてもよいだろう。

 

 

 以上を念頭に置いて、再度kayaさんの歌唱を聞いてみよう。先ほどと同様に、私の認識を下記に図示する。なお、黄色と赤色部分の趣旨は先ほどと同様である。

 

 (1)は特に気にする必要がないから、(2)と(3)を検討する。

 まず(2)の観点において、kayaさんもまた原曲どおり歌うことはしない。これは当然と言えるだろう。

 残る(3)の観点はどうだろうか。端的に言って、kayaさんは「二面性」を強調しているように思われた。AからBに移り変わっていく様子を描いているのではなくて、最初から最後まで二面性が残っている。そんな感覚である。

 特に初っ端の「待ったをかけた」→「ちょっとためらった」の遷移が絶妙だと思うのだが、開始早々にかつ短い間隔で声を使い分けることによって、全編にわたって二面性が意識させられることとなるように感じられた。

 勝手なことを述べると、二面性の表現はkayaさんの十八番である。それはこの曲を聞くとわかりやすい。1コーラス目と2コーラス目で明確に声が使い分けられている。

 

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 ド屑においても、のっけから表と裏を意識させられた後、コンスタントにテンションの上げ下げが挟まる。黄色部分の多さを見てほしい。この緩急にはなかなかついて行けない。ぐっと引き込まれた後、早々に突き放され、戸惑っているうちにまた引き戻される。しかしそれらは本来的に一体のものなのである。これを繰り返されることで感覚がぐらつき、一種の不安感を覚えた結果として、私は当初、大きな胸のざわめきを覚えたのではないかと思った。

 また、ラストに近づくに連れてかなしさを覚えるのも原因の一つではないか。ヒステリックともヤンデレとも違う、純粋に不憫に思える感覚。最後が低音の「お願い」で終わるのは、原曲とも他の方とも変わらないのだが、あれだけ悲痛に「お願い」と連呼していた子は最終的にどうなってしまったのか、と不安に感じられるのである。これもまたざわめきの一因だろう。

 

 以上が真実なのかは分からないが、世の中は納得感で回っているのものだ。少なくとも、私の中では一定の整理をつけることができた。ならばそれでよいだろう。

 

 また私は、このような表現力を持つ奥野さんに、もっといろいろな楽曲を歌ってほしいなと思ったのだった。優しいものはもちろんのこと、優しいだけじゃないようなものも。かっこいいのもよい。うにゃうにゃと考えた挙げ句、これが一番言いたかったことなのかもしれないね。