死に物狂い

他人から影響を受けやすい人間のフィクション日記

コンテンツツーリズムの観点からみるWake Up, Girls!の立ち位置―『コンテンツツーリズム研究』および『地域 × アニメ ーコンテンツツーリズムからの展開ー』を読んで―

 先月末に飛騨地方へ赴く用事があり、ついでに高山市にも寄ってきました。高山と言えばそう、氷菓』ですね!(諸説あり)

  国籍を問わない大量の観光客に驚きながらも、晴天の下、短時間(30分)ながら楽しく散策できました。まるっとプラザさんの店舗内にあふれる氷菓グッズを見て嬉しく思い、また(豊郷の飛び出し女子高生さながらの)飛び出し千反田えるを発見したときには非常に興奮しました。

 かわいいね。

 時期も時期だったので、臥龍桜の前で「もう春です」などと言って一人ほくそ笑みたかったのですが、持ち時間的に叶わず。来年の目標にしておきます。

 さて、そもそも高山は観光地として有名で、また氷菓自体がTV放映から幾年経過していることもあって、「街の中に『氷菓』が息づいている」というよりかは、「街の一構成要素として『氷菓』を感じる」といった印象(言葉の綾な気もしますが)を受けました。もとより、高山市には「氷菓を使って街おこしをするぞ!」というような大規模な動きがあった印象はありませんでしたから*1、むしろいい位置に落ち着いているということかもしれません。

 ところで、従前に観光地としての素地がある場所が、さらにその魅力を高めるべくコンテンツを活用するのと、そうではない一地域が偶発的に(または故意に)コンテンツを活用する(しようとする)のとでは、事の性質が異なる気がします。コンテンツが主であるか従であるかの違い、と表現できるでしょうか。どちらが良いかという話ではないのですが、感覚として、前者は純粋な観光施策としての側面が強くなるように思われ、商業的にもあまり大きな成功を収めることはない印象があります。

 と、のっけからまとまりなく恐縮ですが、WUGに触れて以来そんなことを考える機会が増えたなあ…と思う中で、以下2冊の内容に言及しつつ、立ち返ってふらふらとWUGを考えてみたのが本記事です。よろしくお願いいいたします。なお、重ねて恐縮ながら毎度よろしく結論はありません(5000字程度)。

 ①

コンテンツツーリズム研究〔増補改訂版〕 アニメ・マンガ・ゲームと観光・文化・社会
 

 ②

地域 × アニメ ーコンテンツツーリズムからの展開ー

地域 × アニメ ーコンテンツツーリズムからの展開ー

 

 コンテンツツーリズムにおける成功と失敗の概念

 ①は「コンテンツツーリズム」に係る全76テーマを1テーマにつき(ほぼ大体)1ページで解説・論考する構成となっており、「そもそもどのような論点があるのか」を確認・総覧した上で、興味のある分野を個別に深掘りしていくのに適した1冊です。言い換えますと、本書はあくまでも入り口の入り口的役割であるため、さらなる理解を求める場合には、例えば個別に挙げられている参考文献を中心にたどっていく必要があります。(私のレベルであればむしろこれぐらいの密度の方が読みやすくて助かります…)

 ザッピング的に読み進めて思うのは、本分野に関わる方の多くは、コンテンツツーリズムに対し、従来のツーリズムが持つ以上の可能性なり役割なりを見出しておられるということです。すなわち、商業的な成功は言うまでもなく重要である(そうでなければ現実的に各種の取り組みを続けることも難しくなるわけであり)ものの、(そのために)単なる観光施策の一つとしてコンテンツを取り扱うのであれば、それは旧来のフィルムツーリズム等と性質を異にするものではなく、ともすれば一過性で終わってしまい、結果的に商業的な成功も逃してしまう。コンテンツが地域を訪れる・知るきっかけとなるのは喜ばしいわけですが、究極的には「そのコンテンツがなかったとしても」定期的に人が訪れる状態を目指すべきであり、そうするにあたっては商業的成功を最上位のお題目とするのではなく、地域資源の再活性化や新たな地域価値の創造を念頭に置くのが肝要になるわけです(ここまでは言っていないかも)。

 また本書では、24のコンテンツツーリズム事例が解説されており、その多様さには純粋に驚くばかりです。ただし、それらに関する安直な成功/失敗の判断には警鐘を鳴らされています*2

 そもそもコンテンツツーリズムにおける成功とは何であるのか。一消費者としては、どうしてもそれらの経済効果に目が行きがちですが、その点のみを追求した場合、必然的に短期的な特需に目が向いてしまう気がします。例えばコンテンツの制作陣やキャスト陣を呼んでイベントを開催して人を集める。そうすることで瞬間的に地域への訪問者数は増え、その段階における黒字化はありえるでしょうから、それをもって「成功」という評価を行うことはできましょう。

 しかし、地域の予算にも、人のスケジュールにも限界がある以上、そういったイベントを実施し続けるのは困難であり、流行りの廃りとともにコンテンツの持つ力は失われ、併せて当該地域に訪れる人も消えていく。そのような結末を迎えてもなお、(最終黒字であったとしても)成功したと言えるかは疑問です。この点、『輪廻のラグランジェ』と鴨川市の取り組みは当時「失敗」の烙印を押されたそうですが*3、放映から7年が経過してもなお、コンテンツを軸に緩やかに展開されており、逆に商業的な数字・効果は分かりませんが、少なくともこの現状を見て「失敗」と断じることはできないように思われます。

 結局は「どの側面から見るか」だけの問題ではあるのですが、経済的側面だけを追いかけるのは、ものすごく雑に言えば"面白くない"ということなのでしょうし、それはコンテンツツーリズムというものに対する大きな期待の現れであるようにも感じられます。

 

コンテンツツーリズムの特徴とは

 従来のフィルムツーリズム等と比して、「コンテンツツーリズム」が持つ特徴が「コンテンツホルダー、ファン、地元住民の三位一体構造からなる協業による発展」に求められることは、界隈におけるほぼ統一的な見解であるようです。端的に言えば『らき☆すた』の鷲宮モデルであり、これまでは一消費者としてしか捉えられていなかった旅行者が、自ら当該地へ訪問する価値を創造し、地元とともに新しい観光を生み出す存在になるということ*4。その場において、旅行者は消費者ではなく、当事者として存在します。

 「なぜ旅行者がそのような利他的な行動をとるのか」につき、一意見として「コンテンツに関する自分の価値観が肯定されたことに対する満足感」および「価値観を肯定してくれた他者との共有感」が挙げられています*5。これはオタクであるがゆえにより強化される感情である気がしてなりません。その昔、ガンガンWINGを読んでいただけで家族会議が開かれた経験のある身*6としては、オタクまたはそういうコンテンツに対して非オタク層が持つ忌避感を理解しているつもりですが、だからこそ私(たち)は、(商業的な必要性からくる態度だとしても)少なくとも排斥されない状況に安心感と心地よさ、そして感謝の意を覚え、何かお返しをしたくなるということなのでしょう*7

 しかし、鷲宮モデルとして現象を理論的に説明することはできても、それを人為的に再現するのは非常に難しいように思われます*8。というのは、故意に関係性を構築しようとした時点で、換言すれば旅行者の自発的な協力を外部から促した時点で、何か前提そのものが歪んでしまうように思うからです。

 一方で「常に旅行者の自発的な動きの高まりを待たなければならない」ということでもないだろうと思われます。純粋な鷲宮モデルの踏襲でなくとも、結果的に三位一体となればいいのではないでしょうか。つまり、ともすれば地域とコンテンツホルダー側に全ての責任を押し付けるかのような言い方になってしまいますが、いわゆる「あざとさ」が嫌悪されるのは、そこに協力姿勢(反対に言えば消費者を当事者とする姿勢)が見られず、旅行者不在であることが多いからではないか、と感覚的に思うのです。

 とすれば、少なくとも近時のアニメ聖地88のような動きは「あざとさ」がうかがえる、旅行者を消費者に固定する動きであるように感じられます。ただし、改めて申し上げれば、これは良し悪しの話ではなく、「そもそもの目的が異なる」との一言でまとめられるでしょう。この点、②における、『たまゆら』を題材とした風呂本武典さんの『外来型開発によるコンテンツツーリズムの課題*9』、および『朝霧の巫女』を題材とした谷口重徳さんの『広島県三次市の蔵プロジェクト*10』が非常に示唆に富んでおり、特に後者においては「経済的な効果に留まらないコンテンツツーリズム」の実例を垣間見ることができ、読んでいるうちに泣けてくる内容になっています。いや、論文を読んで泣くとはどういう状況なのか。私にもよく分かりませんが、つまりはそういうことです。*11

 

コンテンツツーリズムの観点から見るWake Up, Girls!の立ち位置

 WUGというコンテンツにおいて、当初に地域側の関わりがどの程度だったのか知るところではありませんが、現実の店舗や場所が作中に登場すること、またそれらがどこに在するのかについてコンテンツホルダーおよび地域側から積極的に発信していることを捉えれば、分類的には(どちらかと言えば)旧来のフィルムツーリズム的な側面が強かったのだろうと思います(ロケ地としての地域)。ファンたちが作中に登場した場所でキャラクタと同じような写真を撮るとか、作中に登場した店舗で食事をする点も、まさにそれに対応する行動様式でしょう。

 そのような要素も含めて考えると、WUGというコンテンツが三位一体の構造を取れていたようには思えません。私の知る限りでは、「光のページェントクラウドファンディングに係るワグナーメッセージ企画*12には協業者の片鱗を感じるものの、基本的にはコンテンツホルダー側からの提案を楽しむ消費者の位置を脱していないように思われます*13

 しかし、確かに三位一体にはなっていないにしても、WUGを通じて震災後の東北に興味・関心を持ち、今もなお複数回に亘ってその土地々々を訪れている方が多数いる(≒当該地のファンになっている。イベントがなくとも日常的に訪れる。)現状を見て、単に「フィルムツーリズムの延長」でしかなかったと総括するのも、また違うように思うわけです。ワグナーは鷲宮モデルで言う協業者までにはなっていない。しかし、仙台ひいては東北地方全体を自らのサードプレイスのように考えている*14きらいがある。もしかするとそれは、解散に伴う寂寞感に基づく残滓かもしれませんし、もはやコンテンツツーリズムの枠組みで考えることではないかもしれません。

 いろいろな論点を一まとまりにして考えようとすることがまず不適切なのでしょうが、ともあれ何とかしてそれらを紐解くことで、最後の一年間において多くのワグナーが感じていたであろう「当事者性」が何であったのかを説明できる端緒となるのではないか、との期待を持っています。協業者とは言えなかったワグナーが、特定の期間において協業者たり得たのはなぜか。「みんなでWUGになる」との言葉を、どうして私(たち)は自然に受け容れ、またその感覚を疑わずにいられたのか。そして蛇足的に言えば、そこにおいて私(たち)は本当に協業者であったのか。全く野暮な気もしますが、まだWUGは生きているのですから、今後を見据えてもそのように考えることは無益ではないだろうと思うのです。(単純にごちゃごちゃ言うのは楽しいですしね。)

 と、客観的なデータが何一つない、言いっぱなしの投げっぱなしジャーマンですが、今後とも一消費者としてコンテンツ展開の動向を見守るとともに、「諸々の研究対象としてWUGはいかがでしょうか」とどこ向けかわからない慫慂の言葉をかけつつ本記事を終わらせます。おつかれさまでした。

 

余談

 特に解散を発表した2018年以降における声優ユニットとしてのWUGの展開には、ファンツーリズムの様相も色濃く現れていたと感じています。ツアー名がHOMEと銘打たれていたことや、メンバー自身の故郷を巡るツアーになったことも相まって、その土地々々に想いを馳せるファンが(私の観測範囲内だけですが)多くおられました。自分の推しが生まれ育った土地を深く知ろうとしたり、自分の推し情報を媒介に地元の飲食店主とコミュニケーションをとったり、ライブもないのに後日会場周辺に訪れたり。他現場では何が一般的なのかは知りませんが、「ライブだけではなくその土地自体を楽しむぞ」との気概を持って行動していた方が多かった印象を持ちます。(そして結果的にその土地自体に親近感を持つようになる)

 この点、①においても、コンテンツツーリズムとファンツーリズムの交錯は論じられており*15、また「声優がtwitterで呟いたことは即座にツーリズムの対象となる」との説明*16は笑いながら頷くところです。WUGにおいては、アニメと声優ユニットを密接不可分とするのが原則と思われますが、声優ユニットが解散を発表した2018年5月以降においては多少なりとも別離が生じており、だからこそ比較的はっきりと2つのツーリズムが両立したのではないかと(漠然と)考えています*17

*1:個人的印象。高山市公式観光サイトではしっかりと氷菓が取り上げられており、カンヤ祭のような取り組みもあったため、小規模とも言えないでしょうか。

*2:P.120-121

*3:P.148-153

*4:P.204-207

*5:P.206

*6:主に『まほらば』目当てで買っていた。家族的には『D線上のアリス』がアウトだったらしい。

*7:オタク的なものが多少なりとも一般化していくにつれ、その傾向がどうなるのかは若干気になるところ。

*8:P.207

*9:P.158-169

*10:P.210-228

*11:本記事以上にまとまらないので、また別に書くかもしれない。

*12:当時非常に感動しました。

*13:ここについては過去を知っている方からの反論が十分にありえるだろうと思っています。

*14:そんな規模の大きなサードプレイスがあるかいなとツッコまれそうですが。

*15:P.171-172

*16:P.210-211

*17:制作側の意識は知らないのですが、そもそも「ハイパーリンク」とは言いつつも、コンテンツの作りとしてアニメの7人は声優ユニットの7人だとはしていない(現実の7人はアニメの7人を演じて舞台に立っているわけではない)ので、必然的な結果と言えるかもしれません。