死に物狂い

他人から影響を受けやすい人間のフィクション日記

『誰も悲しまない殺人』を読んだ

『誰も悲しまない殺人』を読んだ。以下ネタバレを含む。

 

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顔をつぶされ殺された被害者。犯人の目的は」と紹介文がすべてを語ってしまっているが、顔のない死体である。しかし、本作でよかったのは、読者の視線を、顔のない死体が持つ重要性から、あの手この手で逸らさせようとしてくる点である。章ごとに視点が変わる構成、各登場人物の語り、そして事件の舞台が持つ特殊性。様々な要素によって、現場で無惨に横たわる死体は、まさしく被害者本人であると印象付けられていく。読み進めるにつれて、知らぬ間に、疑いなくそう思い込んでいる自分がいた。

 読み終えて思うのは、「誰も悲しまない」とは一体誰目線でなのか、といったことである。閉塞的な村社会の描写は読むだけで嫌になるし、海外でも(悪い)田舎の概念は同じような感じなんだねと気づきを得る。被害者のリジーはそのような共同体において、確かに嫌われ者ではあったのだが、自分を愛する父親がおり、その点で彼女が死んで誰も悲しまないわけではない。

 一方で、エイドリアンはどうだろう。リジーインフルエンサーであるエイドリアンの置かれた環境に絶句する一コマがある。

「長年カッパーフィールドで過ごしてきて、嫌われ者の気持ちはわかっていたつもりだった。それでもこれは……」

「連絡先の登録は山ほどあるのに、マスコミと弁護士からの連絡しかない。」

(p385)

 排他的な共同体の中で排他される側にいるのと、尋常でない量の他者の悪意に囲まれているのとでは、どちらも身が悶える状況には違いないが、その性質は同じでない。例えば、リジーにはその共同体を離れる選択肢があった(結果的には採らなかったものの)が、衆目にさらされるエイドリアンはそうではない。

 どちらがより辛いかということではなく、仮にエイドリアンが死んだとしたら、悲しむ人がどれだけいたのか、と思うのである。インフルエンサーは概ね毀誉褒貶あるものだが、どのような人間にも親はいて、またどのようなタレントにもファンはいるものであるから、誰も悲しまないとは言い過ぎだろう。しかし、それは上述のとおり、結局リジーに対しても言えることである。

 なぜこのようなことを考えるかと言うと、本作において、リジーは2つの意味で殺しているからである。単に命を奪った点に加えて、エイドリアンの人格も乗っ取った形であるから、二重なのである。しかし、エイドリアンが死んだとしても、またエイドリアンが(人格的な意味で)エイドリアンでなくなったとしても、それを悲しむ人はいるのだろうか。原題は『NO ONE WILL MISS HER』であり、より直截的に思われた。エイドリアンがいなくなったら、誰かが寂しがっただろうか。