死に物狂い

他人から影響を受けやすい人間のフィクション日記

自然なAI画像とは

 

 AI画像のニュースに触れて、確かにとても人間だなあと思ったのだが、一方でその容姿の存在を街中で見かけた時に、私はその人を人間だと認識するのかどうか、と考えた。

 

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 どの作例を見ても自然に見える。ただ、ここで言う自然とは何だろうか。

 そもそも、現代の私たちは、自然な写真なるものをほとんど目にしなくなっている。そのような言説を少し前から耳にするようになった。つまり、私たちがSNSその他で普段目にする画像等は、ソフトウェアの修正(といえばいいのか)が適宜に加えられていて、もはや現実を映してはいない。もともと商業媒体ではレタッチがあってなんぼの世界だが、そこにとどまらず一般の世においても、また利用者自身が意識しているか否かにかかわらず、私たちは常に修正された画像等を目にするようになっている、みたいな話である。

 実際にそうであるとして、私たちは今どのような(人物)写真を見て、それを自然と感じるのか。それは不気味の谷とは必ずしも同じ議論だろうか。自然ではない(けれども自然に見えそうな)写真をこれほどまでに多く見る機会は、(少なくとも私の場合)今までにでなかったわけであり、同じく今までになかった感覚を呼び起こされている気もする。

 そうしてなにか参考になるかと思い、amazonの写真集ジャンルを流し見ていた結論として、つまるところ人間の顔というのは、どこまでいってもそこまで綺麗で整ったものではないのではないか。だからある種整いすぎているAIの画像は自然に見えない(部分がある)。

 ところで、テッド・チャンが書いた『顔の美醜について』という短編がある。カリーと呼ばれる処置を受けることで、他人の美醜がわからなくなる。仮に私たちがカリーを受けたとしたら、AIで作られた画像をより現実のものと感じるようになるだろうか。