キャラクターが目の前に現れたらその姿はどのように映るのだろうか。ここで言っているのは純粋に外見の話であり、「キャラクター」とは人型のキャラを指す。この点、2.5次元の舞台や、コスプレを見れば自ずと答えは導かれるのではないか。高品質な衣装を身にまとい、鮮やかなメイクと立ち振舞いにより、私たちの暮らす世界にキャラクターが顕現する。「まるで画面の中から出てきたよう」と表現されることさえある。しかし、それはあくまでも現実の人間がキャラクターを演じているだけであり、キャラクターそのものではない。画面の中から出てきたように見えるだけであり、実際に出てきたわけではない。
では、3Dのモデルであればどうか。VRゴーグルを被り、仮想空間の中で3Dのキャラクターを見たとする。それは「目の前にいる」と言えるだろうか。形式的には存在する。しかし、実質的にはどうか。そのとき、私が認識しているのは、あくまでもGPUが描写するポリゴンである。それはキャラクターそのものであってそのものでない。
そのような認識を持つのはどこか変だ。よく言われるように、人間もタンパク質の塊でしかなく、釈迦曰くは糞袋である。しかし、私たちはその塊を見て、それらが自分と同じ人間だと認識する。それであれば、キャラクターも同じではないか。キャラクターとはすなわち、私たち人間の想像による産物であり、それらは本来的には実体を持たず、イラストや3Dモデルとして具現化される。人間が有機生命体である一方、キャラクターは無機物の集合体である。だから3Dモデルであれ、Live2Dであれ、私たちの視覚がその姿を認識している以上、キャラクターは目の前にいると言えるのではないか。
この説明に納得できないわけではない。しかしまだ、私は少しばかりの違和感を覚える。その前提にあるのは、キャラクターに(我々が持っているのと同様の)人間性を見出しつつも、(種族として我々と同じ)人間であるとは捉えていない微妙な感覚である。
私たちが存在する世界とキャラクターの存在する世界は異なる。これは異論なく受け入れられている。事実として、私たちは実生活の中でキャラクターに会うことはできない。この地球上のどこへ行こうとも、キャラクターの生活する空間は存在しない。
キャラクターがいるのは創作上の世界なのだから当たり前だろう、と捉えるのは不正確だ。創作物の世界が人間の頭の中だけにしか存在しないからではなく、文字通りそれぞれの世界の次元が違うがゆえに、私たちは決して出会うことができないのである。
ではもしも次元を越えられるとして、越えたとして、キャラクターは私たちの目にどう映るのだろうか。
ARはその答えになるだろうか。ディスプレイを通して見れば、私たちの世界に3Dモデルが現れる。彼ら/彼女らはそこに立っている。しかし、これはVRと同じ議論になる。ARは相互に次元を行き交うものではなく、異なる次元を仮想的に重ね合わせるものであり、そこで見るキャラクターの姿は、未だ元の次元に存在している。
キャラクターの実写化はその答えになるだろうか。それが次元の壁を越える試みと言えるかは明確でない。キャラクターが次元を越えて私たちの世界を訪れたとしよう。その際、次元を越えることの作用によって、キャラクターは私たちと同じような外見へと変化する、と私たちは思い込んでいる。しかし、現実には定かではない。もしも反対に、私たちが壁を越えたらば、私たちの外見はキャラクターのようなそれに変わるだろうか。鏡を見れば、そこにはキャラクター然とした容姿の存在が映っているだろうか。そうであれば、私たちは次元の壁というフィルターを通しているがゆえに、お互いの姿を異なるものと認識しているだけで、その実は同じ構成要素の生命体であると言うことができる。
しかし、そうであるならば、「お遊戯会」といった揶揄は生じ得ないのではないか。この表現は、一般的にキャラクターの「再現度」が低い場合に用いられる。
再現するという行為は、同じ次元の存在を対象としても行われることがある。例えば、アイドルがライブで着た衣装をファンが再現する。しかし、仮にその再現度がいかに低かろうと、そのように評されることはない(ないこともないかもしれない)。
それは、自分たちと同じ世界に存在するものとしない(とされる)ものとの差であろう。つまり、私たちは、この世に存在しないものについて存在すると仮定し、それが目の前に現れたときにどのように映るかを想像して具現化を試みる。次元の向こう側を、こちら側とは異なる世界だと捉えている。
はたして、キャラクター側も同じ感覚を持つだろうか。結局これはキャラクターに聞いてみなければわからない。彼ら/彼女らの目に、私たちはどう映っているのか。自分たちと全く違う外見に見えているのだろうか。そして私たちが次元の壁を越えた時、お互いをどのように視認するだろうか。何よりも、それを確かめられる日が来るだろうか。