死に物狂い

他人から影響を受けやすい人間のフィクション日記

『Stray Sheep Paradise:em』を観てきました(あるいは、感想と考察めいた記述の羅列)

 昔から「観劇」には興味があった。特に、一年と少し前にWake Up, Girls!の舞台である『青葉の軌跡』を観て以来、他の演劇も観てみたいとの想いは強く持っていたものの、とはいえ縁もゆかりもない舞台に赴くのも憚られ、やりたいことリストの後回しにしていたところ、奥野香耶さんと永野愛理さんが出演された『Stray Sheep Paradise(以下、「SS_P」という。)』が再演されることを知った。

 SS_PはWUGのラストツアー中であった、昨年12月に公演されたのだが、当時公式サイトを訪れた私は、「抽象的で哲学的な精神世界が繰り広げられるのでは…?」と尻込みしてしまい、そうしている間にチケットは売り切れ、結果的に観ることはなかった。次の機会があれば、と後悔していたのだった。

 というわけで、『Stray Sheep Paradise:em』(2019年8月17日昼公演)に行ってきた。以下は、その感想と若干の考察が入り混じった読みづらい文章である。また、公演のネタバレを含むため注意されたい。さらには、パンフレットや資料集、その他インタビュー類を一切確認しておらず、たった一公演観ただけの記載であるため、お読み頂ける場合には、「なんか言ってるよこいつ」程度に処理していただければ幸いである。

 なお、記載内容について、一度も公演を見たことのない方にはさっぱりな部分が多いと思われるが、何かの弾みで本記事に迷い込まれ、SS_P自体に興味を持たれた方は、8/30にニコニコ生放送で大千秋楽の内容が配信されるそうなので、そちらを確認されたい。また、初演はBD化もされている。

store.odd-inc.co.jp

 

それではよろしくお願いいたします。(22000字程度)

会場に行く

 相変わらず、現地についてよく下調べもせずに出発したのだが、今回の会場である"あうるすぽっと"は、東池袋駅に直結していて好立地。いつものことだが、駅から近いと、それはそれで物足りなさを感じるので贅沢なもんである。そしてトイレがきれい。トイレがきれいなのはいい会場である。

 

前説

 開演約10分前に現れたのは、フレームメイドの6人。正式な説明は知らないが、フレームメイドとは、劇中の演出において様々な「フレーム」(=木枠等)が用いられるにあたって、黒子としてそのフレームを持ったり動かしたりする役割を果たす方々である。黒子としてだけではなく、モブキャラとしても舞台上に登場する。黒子として動く際には、頭巾の代わりにVRゴーグルのようなものを装着している。モブとして登場する際には素顔を見せている。

 彼女たちが公演上の注意点を教えてくれるのだが、その内容がかなり徹底されており、「ここまで言うのか!?」と少々驚かされた。とはいえ、特におかしな内容ではない。携帯の電源はオフに、飲食は禁止、ビニールのガサガサ音やファスナーの開閉音にも注意、前かがみに座らない、帽子は取る……等々。それはそうだろうという事項である。

 面白かったのは咳に関する注意である。「こんな季節だからが仕方ない部分もありますが…」と前置きをしつつ、静かに咳をする練習が会場全体で行われた。咳が出るのはどちらかと言うと冬ではないか、というのはクソリプだが、ここまでやるのは過去に何か問題視されたのだろうか…と思いながらハンカチを口に当て、小さく咳をした。

 加えて、携帯電話については、観客に対し、頭上に掲げながら電源を消すように求めていた。慣れた観客も多かったのか、その求めに応じない(携帯を掲げない)方もいたが、それに対して「皆さんのこと信じてますからね」とまで言う徹底ぶりである。

 観劇における注意喚起が、一般的にどの程度のレベルで行われるかを知らない上で言えば、ここまでの徹底は、ある種諸刃の剣だと思われる。というのは、それだけこの点を重要視しているのは理解するものの、数回に亘って公演に足を運び、その度に同じ注意を聞いている人に対しては、「また言ってる」と注意の効果が薄くなる可能性があろうし、初めての人に対しては(おそらく)必要以上の緊張を強いることになる。

 もれなく後者であった私は、以降の150分間、お尻に襲うしびれ・痛みと格闘することとなった。体勢を変えようにも、その際に何かしらの音が生じるのではと怖く、動けないのである。そんな私と同じ状況に置かれていたであろう諸氏が編み出した技は、章の切り替わる、少し舞台上が騒がしいタイミングで体勢を整えるというものだった。

 

 「舞台上の世界と客席は一続きの世界である」と二度に渡って忠告されたのは、「だからお互い協力して演目を成功させよう」というメタ的な主旨であるとは思うが、本公演を終えた後に思ったのは、それは文字通りそういうことなのではないか、ということだった。つまり、観客もまた登場人物の一人だったのではないか、と思うのである。

 

開演

 終わってみれば、「こんな話だとは思っていなかった」というのが正直なところで、これはひとえに、公式サイトが醸し出す雰囲気にしてやられたと言える。シンギュラリティ後の世界である事実を、メイド服が覆い隠しているのだ。この世界はファンタジーではない。魔法は存在しない。むしろ科学技術が高度に発展しているはずの世界である。しかし、見ているとその事実をつい忘れてしまう。その錯覚がとても気持ち悪くて気持ち良い。

 また、当初持っていた「抽象的で哲学的な精神世界なのでは…」という不安は全くの杞憂だった。少なくとも表面上は、とても親切で、気を使ってもらっているというか、非常に分かりやすく、スッと頭の中に入ってくる。説明が多くなされるわけではないのだが、キャラクタの造形は私たちにとって馴染みのあるもので、その点においてある程度コンテクストを共有していることが大きいのか、戸惑いが少ない。有り体だが、150分とは思えないほどに、時間は早く過ぎ去っていった。(ただし身体は痛い)

 座席は比較的後方であり、舞台上の細かい表情までは読み取れなかったが、ある意味過度に人間らしさを感じずに済んだ点においては、この席でよかったと思う。加えて、演出面についても、近距離だと分かりにくかっただろう箇所が多々あったため、舞台に近い席というのも良し悪しである。言うまでもなく、一番理想的なのは、近い席と遠い席で二回観ることだろう。

 

世界観についての感想等

 公式サイトを見てもらうのがてっとり早いが、ここでも簡単になぞっておく。いわゆるシンギュラリティが起き、AIによって人間は労働から解放され、働かなくとも生きられるようになった。しかし、そうして保証されるのは必要最小限の生活であり、豊かな生活のためには結局働く必要があるが、ほとんどの仕事はAIによって処理されているから、高高度の仕事しか残されておらず、そのために"才能"が求められた。結果的に持つものと持たざるものの格差が広がっている……と、あまり楽しくない未来の世界である。

 AIによって管理されているものの、まだ人間の行える仕事が残っているという点は、少し考えても良いところかもしれない。完全無欠のAIでもこなせない仕事があるものだろうか。あるとすれば、「まだ人間の優位が残っている」と捉えられるかもしれない。または、結局AIを管理している人間がいるということか。しかしこれは希望的観測で、AI自身が合理的に考えた結果、人間に任せたほうが適当と判断している可能性もあるだろう。適材適所的な意味かもしれないし、あるいは、「人間からすべてを奪うべきではない」という合理的な判断かもしれない。

 ともあれ、豊かな生活のためには仕事が必要で、仕事に就くには"才能"が求められる。そして、"才能"のある女性はメイドと呼ばれ、社会的地位も高く、誰彼からも羨望の的である。それでは男性の場合はどうなのだろうと思う。本世界における「メイド」が、私たちの世界と同等の意味を持っているのであれば、人間界ではまだ男性優位なのであり、メイドも誰からか使役されることを前提にあるのでは、と思われる。この点は、第2章で綴られるファムのエピソードで、その片鱗をうかがえる。

 取り巻く環境については不透明な部分が多いのだが、何にしてもこの世界の女性の多くは、メイドになることを目指す。そのためにメイド養成学院である『セブンス・パスクゥム』へとやって来るのである。

 セブンス・パスクゥムとは、AIである羊飼いを学長(?)とするメイド養成機関である。在校生には、「卒業すればメイドになって外の世界で活躍できる(=豊かな生活を送れる)」との共通認識が持たれている。

 

〔メイドについて〕

 「メイド」は才能のある女性の総称と謳われており、単一の職業を示すものではない。これは、私としては非常に混乱する点で、どうしても「メイド」と聞くと、主人に仕える者とのイメージが浮かび上がる。もちろん、「ご主人様」というワードが登場する以上、そういった関係性は皆無ではないのだろうし、何ならすべてのメイドはAIに仕えることになるとも言えそうである*1

 しかし、メイドは、そのような被用者としての属性に固定されないとも考えられる。個人事業主*2的なメイドがいてもいいはずだ。

 このように書いたのは、「セブンス・パスクゥムを卒業しなければメイドにはなれないのか」と疑問に思ったからである。卒業したら何らかのライセンスを貰えるわけでもなさそうだし、この場に拘る必要があるのだろうか。

 この点は、公的なライセンス制度はないにしても、セブンス・パスクゥムを卒業した経歴が、事実上の資格要件になっているのだと思われる。つまり、学歴そのものである。セブンス・パスクゥム卒の女性であれば、一定以上の"才能"があると客観的に保証される。その保証がなければ、使役する側は雇用しないとしないというわけだ。

 となると、やはりメイドは単なる被用者なのだろう。能力者ではなく労働者なのだ。実際のところ、最序盤において、雇用者向けの品評会のような場が舞台上に現れる。それはよく言えば人材ドラフト、悪く言えば人間オークションに感じられる。セブンス・パスクゥムを出た女性は、そこで雇用者に選ばれていく。正直、あまり幸せな光景とは思えない。

 メイドが被用者である前提だと、セブンス・パスクゥム=AIが行っているのは人材のスクリーニングである。それは何のためであるのか。AIが人間をスクリーニングするのは、人間のためなのか、それともAI自身のためなのか。AIが「管理」しているということをどう捉えるかで、この点は解釈が変わりそうだなと思う。

 なお、この品評会の場においては、登場人物全員が客席の方を見据えており、そのバックでセブンス・パスクゥムの説明がなされる。この時、観客たちは雇用者の立場に置かれている。先述した「観客もまた登場人物の一人だったのではないか」というのはこのことである。そしてそう感じた時、私はとても居心地が悪くなった。

 

〔セブンス・パスクゥムについて〕

 寄宿学校的な謎の多い閉鎖空間と少女の組み合わせに、私は『エコール』を思い出した。それにイメージが引っ張られた部分があり、例えばセブンス・パスクゥムの校舎に関して、ついつい古めかしい木造建築物を思い浮かべてしまうが、実際には扉が機械制御されていたり、やたら深いところまで迅速に潜れるエレベータがあったり、さらには個人識別できるシステムが構築されていたりと、かなりハイテクノロジーな空間である。そのくせ、スコップで破壊できる程度の扉があったりする。近隣は自然に包まれているらしいので、『GOSHICK』の聖マルグリット学園のような感じだろうか。あんなに広い敷地だろうかとも思うが、「才能祭」と称された学祭の規模は結構大きそうで、加えてあちらこちらでフレームメイドが演じるモブキャラが登場することから*3、あながち大きくイメージを外していないようにも思う。

 ところで、当たり前に流しているが、そもそも「パスクゥム」ってなんだ。検索をしてもSS_P関連しかヒットせず、多少表記を揺れさせても、関係のありそうな結果は得られない。造語かもしれないが、ストレイシープが聖書由来であるから、そういった方面の言葉かもしれない。「セブンス・パスクゥム」で一つの固有名詞ということだ。そうであれば、私には太刀打ちできないのでその方向で考えるのはやめておこう。

 セブンスは素直にとればseventhと思われ、少なくともfirstからsixthまでのパスクゥムもあるのかと思う。

 セブンス・パスクゥムが"唯一"のメイド養成学院だとは言われていないし、変に一箇所に集めるのは非合理で非効率だろう。何事も一極に集中しすぎるのは良くないし、メイドの養成とは、先述したとおり、一義的にはAIによる、価値ある人間のスクリーニングであるから、その母数は広く多いことに越したことはない。門戸は狭く、裾野は広くだ。

 単一国家が形成されている雰囲気もないので、各国で人材の獲得競争が激化しているのではないかとも思われる。一つの国に"才能"を持つ人間集まれば、世界のパワーバランスが崩れてしまう。そこも含めてAIが管理しているのかもしれないし、純然たる競争が行われているのかもしれない。

 AIが世界を管理しているのは事実としても、単一のAIが全世界を管理していると決まったわけでもない。各国が各国においてAIを開発し、それぞれにメイド養成機関が設けられている可能性もあるのではないか。ただ、もし上記のようにパスクゥムが複数あるとしても、それらは同一国家の内部にあると思われる。というのは、他国の養成機関と似た名称の機関を設立するとは考えにくいからだ。メイド養成機関だけは超国家的組織なのかもしれないが、AIと人間の関係性が明らかにならない限り想像の域を出ない。「そもそも全て想像の域でしかないのでは」と言われれば反論の余地はない。

 同一国家内に複数のパスクゥムがあるとして、それぞれのパスクゥムには、セブンス・パスクゥムと全くの同存在としての羊飼いがいるように思われる。一方で、ラシェルはそうではない。ラシェルは「教育の"才能"」を持つ"人間"であるからだ。そして、「同一の才能を持った人間は外の世界に二つと要らない(以下、「同一の"才能"ルール」という。)」らしいので、この時点においてラシェルは唯一無二の存在である。だから、パスクゥムが複数あったとしても、羊飼いと違い、ラシェルはセブンス・パスクゥムにしかいないはずだ。

 その一方で、セブンス・パスクゥムにおいて、教師はラシェルしかいないのだろうか。セブンス・パスクゥムがよほど大規模な機関であることを念頭に置けば、ラシェル以外にも教師は存在すると思われる。しかし、それでは「同一の"才能"」ルールに反するのではないか。この点は、後述する"才能"の考え方にも関わるが、いかようにでも解釈ができるだろう。例えば、同一の"才能"ルールとは、外の世界でのみ適用されるものであり、セブンス・パスクゥム内では除外されるのかもしれない。あるいは、元も子もないが、「教育」の才能がなければ教師になれないというものでもないだろう。さらに言えば、教育を細分化させた"才能"の持ち主がいることも考えられる*4

 そうすると、教育長的役割を果たす人間によって、各パスクゥムの志向や教育方針が異なることはあるかもしれない。ただ、そんなよくある感じの設定はとらない気もする。安直だしね。

 ここまでごちゃごちゃと書きながら一番疑問に思うのは、やはりセブンス・パスクゥムが誰の意思によって運営されているのかということだ。作中において、AIと人間の関係性について多くは語られないところ、確かにこの世界はAIによって「管理」されているのだろうが、それを「支配」とまで見てしまっていいのかは疑問がある。

 上述の通り、セブンス・パスクゥムがAIによる人材スクリーニング機関だとして、そうするのはAIによる合理的な判断に基づくものなのか。それとも、スクリーニングされた人材を求めている人間が、AIにそうさせているのか。言い換えれば、AIの立ち位置はどこにあるのか。その点によって世界の見え方が変わってくるように思われる。

 

〔"才能"について〕

 リゼッタの発言から、セブンス・パスクゥム(以下、「学院」という。)には誰でも入学できるわけではないことがうかがえる。しかし、裕福さや家系で判断されるわけではなさそうだ。全ては学長たる羊飼いの目に留まるかどうかである。

 生徒たちは皆、何かしら羊飼いの目に留まるレベルの"才能"を持ってやってくる。そして、羊飼いは生徒に対して、彼女たちに何の"才能"を見出したのかを直接告げる。その後はそれぞれの"才能"を磨く方向で学びを深めることになる。学院生活を通して自らの才能を探すのではなくて、見込みのある人間だけを引き上げていく。エリート教育らしい思想だ。主にはメイド服のせいで家政学部的な雰囲気を感じるが、詳細なカリキュラムは不明である。

 羊飼いは、「○○の"才能"」という形式で本人に"才能"を告げる。例えば、リゼッタは「嘘つきの"才能"」であるし、ラシェルは「教育の"才能"」である。『うえきの法則』のように複数は保有できず、あくまでも単一である。ただし、ヒジリの「万能の"才能」のように、"才能"自体が複数の要素を持つことはあり得るようだ。また、「○○」に入るのは名詞だけではなく、ノゾミの「火を起こす"才能"」とのように動詞が当てられる場合もある。

 自身の"才能"をどのような性質のものとして解釈するか。また、どのように活用するのかは、比較的柔軟に本人に委ねられているように思われる。というのは、羊飼いが告げるのは、あくまでも「○○の"才能"」という一単語だけだからだ。例えば、「嘘つき」と言っても、単に「詐欺的手法に長けている」ということではない。劇中、リゼッタは良い嘘・悪い嘘を使いこなして、様々な問題を解決していった。また、レイナは「風を読む"才能"」の持ち主だが、これは事実として風向・風況を読める意味合いもあれば、慣用的に「状況を読む」といった軍師的な動きができると示唆しているのだと解せるのではないか。この点、羊飼いの想定する"才能"の使い方(解釈)と、本人のそれが一致しないこともありえ、そのために悲劇が生じることがあるが、一致しないことも前もって把握した上で、羊飼いは物事を差配している気配がある。

 

〔才能試験について〕

 「試験」という名称ではあるが、定期的に行われるものではなく、タイミングは羊飼いのさじ加減による。とはいえ、羊飼いの中では、一定の合理的な理由付けのもとに実施判断されていることがうかがえる。

 当該試験に合格することが卒業、すなわち外の世界へと羽ばたくことにつながる。試験の内容は、各学生の"才能"に沿った内容となっているが、"才能"と同じく、やはり細かな条件まで語られることはない。結果がすべての世界である。

 また、試験内容がどのようなものでも、生徒側に変更権はない。一方、万が一試験に失敗しても、強制退学のようなペナルティがあるわけではなく、また複数回の受験も可能である。ただし、次回の試験がいつになるかが不明瞭なため、基本的に学生は、得たチャンスを逃さないように努める。

 反対に、一度合格したからといって卒業資格を得るのかは定かではない。

 

〔外の世界〕

 少女たちの一義的な目的は、学院内で"才能"を磨き上げ、羊飼いから課せられる『才能試験』を突破して学院を卒業し、メイドとなって外の世界へと羽ばたくことである。しかしながら、この"外の世界"について、劇中ではあまり言及されない。断片的な情報によれば、この世界には(AIに支配されているにもかかわらず)戦争があり(またはあった)、また、そもそも"世界"という概念が残っていることから、国、少なくとも地域の概念もまた残っていると思われる。

 外の世界、もとい外の人間については、劇中のファムのエピソードにおいて間接的に知れる。ファムは一度学院を卒業しており、外の世界で働いていた経験があり、その際のモノローグとしてファムの雇用主らしき人物が描かれる。

 ファムの雇用主は、声からすると男性っぽいので、まだ両性は存在しているようだ。また、ファムが雇用主に対して、「そのようなやり方では世間から納得が得られない」と助言していたことから、ある行為に対して納得を得る・得ないとか、反感を買う・買わないといった概念は残っているようである。つまり、人間がそういった感情を抱く場面があり、かつ抱くことを許されている。

 こういう書き方をするのは、依然として「AIに管理された世界」のイメージを掴みかねているからだ。本当に世界の隅々に至るまでAIの統治下にあるならば、そもそも人間が持ち得る感情すらも管理されそうに思う。そんなディストピアにまではなっていない、ということなのだろう。

 ヒヨクのエピソードから考えると、(表現を素直に受け取るならば)彼女は外の世界において仕事として人を殺めていたわけで、殺伐とはしている。また、ヒヨクは当時学院に在籍をしていたわけだから、仕事の受注は学院がしているはずで、じゃあ発注者は誰なんだという気はする。というのは、やはり「管理」という言葉からは、その存在(管理する側)が上位にいるイメージを持つわけで、上位存在であるAIが、下位存在である人間から殺しの依頼を承るなんてことがあるだろうか、と疑問に思うのである。それもまた、合理的判断のもと下された結論であるということか。あるいは、発注者も被害者ともにAIの可能性もあるだろうか。

 何にしても、外の世界について、あまり幸せには感じられないのが正直なところである。学院内にいるほうがよっぽどいいのではないか、と思う。しかし、学生たちは皆、外の世界からやってきているはずだから、そこがどのような場所であるかを知っているはずで、変な理想を抱いているとは考えにくい。何かに騙されているわけでもなく、世界の厳しさを十分に知った上で、なおも目指すということか。なら、まあいいか。

 

キャラクタについての感想等

 以下においては、キャラクタおよび一部キャストさんについて記述する。

 

リゼッタ

 学院を卒業してバラ色の人生を送るんだと豪語するが、何をもってバラ色とするのかはよくわからない。富か名声か。孤児院の出身であるがその原因は不明。やはり戦争だろうか。

 先述したとおり、「嘘つきの"才能"」と聞くと、人を騙す、どこか詐欺的な悪いイメージを持つが、劇中で彼女がついた嘘は、優しさを帯びたものばかりである。とはいえ、優しいだけ、というわけでもない。ただ、本質的に彼女自身が、他人を想える人間であることは明らかで、厳しい環境で育ちつつも、その点はまっすぐ育ったのだな思う。それはルクルが近くに居たおかげかもしれない。

 才能試験として「一年間嘘をつき通す」ことが求められ、学院内では貴族出のお嬢様を演じている。しかし、早々にヒジリに正体がばれ、またファムやノゾミたちの前では素に戻っている様子も見受けられるから、主要な登場人物の間では、完全ではないにしても、ある程度本性がばれているのではないかという気もする。

 ではどうして才能試験が終わらずに続いているのかと言えば、羊飼い自身が「ヒジリの試験のためにわざと見逃していた」と発言しており、それも理由の一つのなのだとは思う。しかし、それはそれとして、リゼッタは一年間、しっかりと嘘をつき通していたのではないか。つまり、「嘘をつき通す」ことの解釈もまた、様々な見方ができるのではないか。

 リゼッタは劇中、様々に嘘をつくことで問題を解決していく。羊飼いは、リゼッタがそういうことのできる人間であることを見抜いていた。つまり、「嘘をつき通す」とは、自分を嘘で包み込むのではなく、嘘を用いて、一年という期間内に生じる諸問題を解決していくことだったのではないか。それこそが、実際に課せられた試験内容だったのであり、羊飼いがリゼッタに期待していたのは、単に小賢しさを磨くのではなく、その力で学院内の学生を導くことだったのではないかと考える。

 だとすれば、劇中、学院内で最後についた嘘である「大嫌い」は、その時点において、試験開始からどれほどの時間が経過しているかは定かではないけれども、才能試験期間中最後の嘘でもあったとは考えられないか。あの一言によって、リゼッタはヒジリを救った。そしてリゼッタは、そうすることで、自身も試験を突破したのである。

 もちろん、仮にそうだとしても、結果的に彼女は自主退学*5するわけで、直接的に意味があるわけではない。しかし、才能試験の合格が、メイドたりうる能力の持ち主であることを示すならば、リゼッタはセブンスパスクゥム卒の学歴は得られなかったにしても、羊飼いから外の世界で活躍できるとのお墨付きは得たわけである。だとすれば、これからヒジリとともに世界を回るに段においては、十分なことではないか。

 

 奥野香耶さんの演技は非常にアニメ的で、コミカルとシリアスの振れ幅が大きく、見ていてとても楽しかった。お嬢様だと嘘をついている設定だから、あえてそうしているのだろうが、マリエレとはまた別方向で「無理をしてお嬢様然としている」雰囲気がしっかりと出ていて、ついにやけてしまった。奥野さんに関して言えば、私個人としては、甘い声よりもちょっとやさぐれた感じの声と演技が好きなので、そういうものが何度も見られたのは幸せだった。それと、相変わらず奥野さんは小さいのに大きくて、ステージの魔力を久しぶりに認識した。

 ヒジリに対する「大嫌い」は、様々な感情が入り混じった一言で重たく、言ってしまえばウソ800なのだが、同じギミックでも全く違う印象になるのだなと感銘を受けた。どのような表情で言ったのかと(そしてその時のヒジリの表情についても)、つい思いを馳せてしまう。

 余談だが、奥野さんがフレームレートの高い動きで階段に寝そべる姿を見て、何かに似てるなあと思っていたのだが、よくよく考えた結果、『SEKIRO』の獅子猿の動きだと結論づけた*6

 

ヒジリ

 「万能の"才能"」の持ち主である。万能の意味が「あらゆる"才能"をカバーする」ことなのであれば、同一の"才能"ルールが適用されるこの世界において、ヒジリ以外の人間は不要ということにもなる。ヒカリとセリが争う必要性もない。

 しかし、現実としてそうではなさそうなので、あらゆる種目で90点をとれるぐらいに解釈をしたほうが適切だろうか。では、仮に"才能"の練度を高めれば、90点以上を取れるのか。その如何によって、ヒジリに対する印象も変わると思う。つまり、ヒジリは一点突破のスペシャリストに勝つことはできるのか。 もし勝てないのであれば、ヒジリの前途は多難である。なぜならば、”才能”を持って外の世界に出た人間は、誰しもがそのようなスペシャリストであるはずだからだ。

 実際、ラストのシーンにおいて自分を追いかけてきたリゼッタに対し、ヒジリは「嘘つき…」とつぶやく。それは、挨拶代わりの一言だったかもしれないが、その時のヒジリの言い方からして、私にはヒジリが本心からそう言っているように思えたのだ。クライマックスシーンからラストシーンに至るまでの時間軸は不明であり、その中でどのような出来事があったのかもわからないが、ヒジリはリゼッタが来てくれるとは思っていなかったのではないか。その意味で、ヒジリはリゼッタに騙された。彼女の嘘を見抜けなかったのである。嘘をつく(あるいは反転して、嘘を見抜く)ことについては、「万能の"才能"」を持ってしても、ヒジリはリゼッタに敵わなかったのだ。

 こうなると、ヒジリの強みは弱みとなる。現代の事務系総合職と一緒だ。何でもできるが、何にもできない。それが分かっていたからこそ、羊飼いは10,000もの課題を課していたのかもしれない。

 そしてそんなヒジリにとって、彼女自身の夢を叶えるためには、やはりリゼッタは絶対的に必要な存在なのだ。もちろん、実利的な話だけではなく、精神的な面にしても。

 羊飼いは、万能の"才能"を持つヒジリを「AIに近い」存在だと称した。しかし、ヒジリにも勝てない相手がいる。とすれば、AIもどこまで完璧な存在と言えるのか。そこに、今後人間が生きていくにあたっての希望を見出せるのではないかと思う。

 

 青木志貴さんの演技は、特にマリエレとの比較において、ヒジリの持つ強さや凄さが強調され、彼女が絶対的な存在であることを感じさせられた。一方で、ヒジリは決して無感情ではない。普段凛としているからこそ、表情を崩すときの魅力が増幅される。リゼッタとの出会いによって、徐々に人間が柔らかくなっていくさまが活き活きと表現されており、他人の影響によって人間が変わっていく様子を楽しく見れた。やっぱりメイド服はロングスカートだよなと思える一時だった。

ルクル

 ルクルはとにかく元気で前向き、やたらと声が高く、そして少し抜けたところのある、そんな女の子だ。コミックリリーフと言ってしまっていいのか。リゼッタの幼馴染であり、所々で場を和ませ、またリゼッタを導いてくれる。SS_Pを観た人間の98%はルクルのことを好きになると私は思う。2%ぐらいはまあ、こういうキャラが合わないという人もいるだろう。ともあれ私は、講義するときの踏ん張ったポーズが好きだ。

 こういうキャラクタだとは全く思っていなかった。公式サイトのキャスト(キャラクタ)紹介を見ていただきたい。確かに、他のキャラクタと比べれば表情は柔らかいかもしれないが…こんなに爆発している人とは思わない。もとより、私にSS_P自体に対する先入観があったせいだろう。ハチャメチャとまでは言わないにしても、フルスロットルで壁にぶつかっていくような人が出てくるとは想定外である。SS_Pが、観客に対してついた嘘の一つと言えるかもしれない。

 彼女が持つのは「掃除の"才能"」であることがラスト前で示唆されるが、これも純粋に、汚れを取り去る"才能"と捉えるのではなく、漠然と「スッキリさせる」とか、何かを新しくするとか、そういう意味も含んでいるのではないかと思う。ルクル自身が純心だとも言えるか。あるいは、誰かの(何かの)不安要素を取り除くことにも長けているのではと、リゼッタとの会話を聞いて思ったりする。余談だが、掃除で辞書を引くと、二番目に「社会の害悪などを取り除くこと」と出てくるので、彼女が一番怖い存在かもしれない。

 

 永野愛理さんがルクルで新境地を開いた、といった感想は見聞きしていたが、(繰り返すようだが)ここまでとは思っていなかった。ダンスで鍛え上げられた肉体も、使い方を変えれば、こんなにも効果的にコミカルさを生み出せるのだなと感心した。前説での忠告もあったため、序盤は面白ポイントがあっても声を出して笑っていいのかわからず、何があっても堪えていたのだが、永野さんによる、勢いよく両膝を指差して「肘!」と言うくだりで会場が笑いの渦に包み込まれ、「笑ってもいいんだ」と私は心底安心した。その意味で、ルクルと永野さんはこの日の観劇における私の恩人である。どうもありがとうございました。

 

アリス

 最初亡霊かと思ったのだがそんなことはなかった。羊飼いが外の世界から連れてきた隻眼(と思われる)少女(と思われる)。細かな時系列は分からないが、リゼッタたちが入学するよりも前から学院内にいる。羊飼いがヒヨクに対して、「大切な人を殺す」との才能試験を課すための下準備として連れてこられ、反対に自らの手でヒヨクを殺した(と思われる)。その結果、ヒヨクの「殺人の"才能"」を引き継ぐ。

 どこか少年っぽさも残るのは、それだけ彼女が幼いことを示唆しているのか。アリスに限らず、本作の登場人物の年齢はさっぱり分からないが、アリスの場合は現実に幼いのか、それとも精神的に負荷のかかる出来事が色々あったがために退行しているのか、微妙なところである。終盤では子供っぽさが薄れている様子もあるので、後者な気はする。

 最終的に彼女は、ヒヨクの双子の妹であるレンリが扮するヒヨク(ややこしい)に諭され、殺人をやめる。そして、「園芸の"才能"」を磨いていくことになる。ここで思うのは、最初から殺人の才能なんてなかったのでは、ということだ。これも取りようだが、「園芸」には土を掘り返したり、球根や種を植えることも含まれるわけで、その延長線上に「人を埋める」ことがあったのではないか。だから本来的に彼女には、人を殺す必要なんてなかったはずなのだ。

 加えて言えば、この世界において、人間は二つの"才能"を持ったり、誰かから引き継いだり、または付け替えたりできるのか。ファムがあれだけ悩んでいたではないか。だから、そういったことはできないと考えるのが自然と思う。この点、"才能"をどう捉えるかの怖さみたいなものを感じる。あるいは、"才能"の本当のところは、羊飼いも分かっていないのかもしれない。

 

 佐藤日向さんの足踏みは怖い。レンリが「あの濁った目を見たら怖くて震えてしまった」みたいなことを言うのだが、それには心から同意する。でも、その狂っているときよりも、自我との葛藤でドタバタしているときのほうがより怖いと感じた。アヒャヒャヒャヒャみたいな分かりやすい狂気ではなくて、まともな感性が戻りかけている状況で、なお人を殺そうとしている姿がおぞましいのだ。だからレンリとの対話シーンは、本当に彼女を殺してしまうのではないかと、私はとても怖かった。言い過ぎだって? しかしそう感じさせるほどの光景が、舞台上にはあったのだ。

 

ファム

 一度学院を卒業したものの、雇用主に恵まれず(または職場が合わず)、別の才能を探しに学院に戻ってきた苦労人である。彼女が持つのは「正しさの"才能"」であるが、不幸にも彼女自身が考える正しさと、雇用主の正しさが一致せず、解雇の憂き目にあった。

 それにしても、「正しさ」とは全くもって抽象的だ。しかし、だからこそ解釈の幅も大きい。自身の"才能"に悩むファムに対して、羊飼いは「学院内にいる、自分に"才能"のないことに取り組む間違った輩を、お前の正しさで導け」みたいな才能試験を課す。そうしてファムは、「"才能"がないのにアイドルをやっている」ノゾミたちの1stライブを中止させようとするのだが、結果リゼッタの一計によって決行される。

 試験は失敗だと泣くファムに対して、リゼッタは成功だと諭す。リゼッタの論理は、ファム自身が「正しい」と思えていないことを実行することこそが正しくない、というものだ。つまり、羊飼いの言う「才能がないことに取り組む輩」とは、自身の才能から逃げようとしているファムのことであり、ファムが自分の才能を認め、それを追求しようと思える状態に再び戻ることこそが、試験合格の条件であるということだ。と書いてみたものの、結局当該試験の結果がどのように判断されたのかは分からないので、その理論もまたリゼッタの優しい嘘でしかなく、ファムはまた次の機会を待つ状態になっているのかもしれない。

 このファムの外界エピソードは、外の世界を伺い知れる貴重な機会である。ファムの雇用主と思しき男性は、非常に居丈高で、端的に言えば「やな奴だなあ」である。才能があると認められた結果、それでもこのような存在の下で働くことになると思うと、メイドには夢がない。

 単に夢がないだけではなく、ファムのエピソードは色々と謎を生む。学院において、再入学は一般的なものなのか。特例ではなく制度化されているのか。外の世界には雇用者と被用者という関係が残っているのか。雇用者は人間なのか等々。無尽蔵に想像力をわき立ててくれる。ただし答えはない。そういうものである。

 

 遠藤瑠香さんの演技はアリスと同等に病的で、やはり人を壊すのは労働なのだということを教えてくれる。周りを優しく見守るかのような笑顔も、余裕がないからこその表情であるように感じられる。何度も出して恐縮だが、雇用主から批難を受けているさなか、なんとか笑顔を崩さずに応答しようとする姿は、本当に痛々しくて見てられない。とてもとても悲しい。

 そのせいか、第二章より後の笑顔が柔らかく感じられる。正しさなんてものを追求するのは大変なことだが、達観すれば、ただ自分の正しさを押し通すのではなく、他人が持つ価値観に沿った「正しい」助言ができるようになるかもしれない。でも、そうなったらファムではないようにも思うので難しい。どのように折り合いをつけていくのか。または、折り合いをつけていかずに済むほどの力を求めていくのか。いずれは、世界のルールを破壊するような存在になっていくのかもしれない。

 

ヒカリ&セリ

 同じ"才能"を持った二人。明言はないものの、恐らくは「ヴァイオリンを弾く"才能"」である。楽器全般ではないらしい。ヴァイオリンだけならば、他の楽器に係る"才能"を持った人間もいるのだろう。また、同じ"才能"を持った人間が生じうることが分かる。

 厳しいことに、彼女らは二人同時に同内容の才能試験を課せられる。より演奏の上手い方だけが試験合格となる構造であるため、恋仲に近い二人は、ともにメイドへの道からリタイアしようとするのだが、最後のにはヒカリがセリの本心を慮って自主退学する。本当はヴァイオリン続けたいと思っているセリのために、ヒカリは身を引いたのだ。リゼッタもヒカリの動向を見抜くことはできなかった。エピソード中、「メイドになれなかったらどうなるのか」が強調されるため、さてヒカリの行く末はどうなるのかと、気分が暗くなる。

 二次創作的に救済策を考えるのであれば、ここも彼女二人の"才能"に着目するのはどうか。先ほど私は、あえて「ヴァイオリンを『弾く』"才能"」と書いたが、羊飼いの言葉遣いからして、また一般的な日本語の使い方として、そのような言いぶりはしないように思われる。例えば、「あの子にはピアノを弾く才能がある」ではなく、普通は「あの子にはピアノの才能がある」と言うように思うのだ。

 そうであるから、羊飼いは彼女たちの"才能"を、「ヴァイオリンの"才能"」と評したのではないか。であれば、その"才能"が演奏に限られているとは限らない。極端には、「ヴァイオリンを作る"才能"」でもよいはずだ。

 というわけで、将来ヒカリはヴァイオリン職人として成功を収め、セリは彼女の作ったヴァイオリンを奏でるのだ。よし、これで不幸な子はいなくなったな。

 というのは低質な妄想にしても、二人には何とか幸せになってほしいものである。いや、二人に限った話でもないが。

 

マリエレ

 生徒会長であるマリエレは、周囲からその能力を褒めそやされる一方、ヒジリに対するコンプレックスを抱いている。特に序盤においては、根本的に余裕が感じられない。

 いかにもお嬢様然としたマリエレは、貴族の出身であるのかもしれない。上昇志向が強く、自身への好意をも、セブンス・パスクゥムの場にはふさわしくないと否定する。なにか切迫しているのか。例えば、貴族ではあるが、その一族内では地位が低いので見返したいとか、没落貴族の復権のため必死であるとか、そういう要素があるようにも見える。何にしても彼女は、プライドと現実の間でもがきながら、とにかく外の世界を渇望する。

 裁縫や縫製の類の"才能"を持つと思われるマリエレに、羊飼いが課した才能試験は、学内のエプロンコンテスト的な催しにおいて、最優秀の成績を収めることだった。ヒカリとセリの試験もそうだが、芸術・工芸系の試験は比較的穏当な内容になる傾向なのかもしれない。要はその分野においてトップを取れということだから、とても分かりやすい。

 容易かと思われた試験に立ちはだかるのは、やはりヒジリの存在で、彼女の作ったエプロンはマリエレのそれを凌駕していた。このため、マリエレはヒジリのエプロンをビリビリに破き、その罪をルクルになすりつけるという、単純に人として最低な行為をとる。何というか、ここだけはフォローのしようもない。

 結局マリエレの謀略は、リゼッタによって白日のもとに晒され、コンテストにも敗北し、そのショックからかしばらくの間不登校になってしまう。ただ、その後学院に復帰し、変わらず生徒会長を続けていることからすると、ことの真実は関係者だけが知っている状態なのかもしれない。「やられたらやり返す」けれども、必要以上には追い詰めないのがリゼッタ流か。

 ところで、マリエレがこのような目にあったのは、ルクルとリゼッタが学院にいたからである。ヒジリも真相には気づいたであろうが、事件発生当時のリゼッタとの会話を聞くに、単に自分が被害を受けたからといって、マリエレにやり返すとは思えない。リゼッタとヒジリに面識が生まれていて、リゼッタの幼馴染であるルクルが冤罪をかけられ、リゼッタに嘘つきの"才能"があったからこそ、このような結果になったのである。

 したがって、この事件は最初から羊飼いがお膳立てしたものに他ならないと思われる。マリエレは、なかなか自分が才能試験を受けられないことに焦っていたぐらいなのだ。もちろん、入学からどれぐらいの月日が流れていたのかは分からない。マリエレのことだから、2,3ヶ月であっても「試験はまだなのか」と言いそうだ。しかし、生徒会には、ある程度の実績や能力がないと入れなさそうだし、その上会長に就くほどの存在なのだから、一定以上の時間は経っていると見ていいだろう。それなのに、このタイミングで試験が課せられたその理由はなにか。それは言葉通り、リゼッタたちが来たことで試験の準備が整った、ということなのだろう。

 とすれば、この試験はマリエレにとって完全な負け戦である。まともに戦えばヒジリには勝てない。ズルをすればリゼッタに暴かれる。罪をなすりつける相手がルクルでなかったならば、リゼッタも動かなかったかもしれない。しかし、羊飼いによって、それも計算されていたと考えられる。ルクルはよく居残りをしていて、自然と疑いの目がかかりやすい状態だった。

 では、マリエレはどうすればよかったのだろう。「どうしようもなかった」というのが答えだと思う。換言すれば、試験に失敗させることが、この試験の真の目的だったのではないか。結果としてマリエレは、中盤以降さっぱりとした様子で復帰する。その姿からは、前ほどの余裕のなさを感じない。一皮むけ、落ち着きがある。だから、マリエレにとってこれは、必要な経験だったのだろう。羊飼いは彼女を成長させるため、このような試験を課したのである。

 いやしかし、羊飼いがそんな優しい判断をするだろうか。そこまで私は羊飼いを信じられない。AIだし*7。だから、あるいは、単にリゼッタとヒジリの関係構築のために、羊飼いがマリエレを利用したのかもしれない。この一件は、二人の距離を近づける役割を果たした。羊飼いが、ヒジリの最終試験の前準備として用意したのだとしても、おかしくはないのだ。この点は、羊飼いの思考をどのように捉えるかで、判断が分かれる部分だろう。

 

ヒヨク&レンリ

 ヒヨクとレンリは双子の姉妹である。姉であるヒヨクは声が低く、ショートカット。「殺人の"才能"」の持ち主であり、過去の学院在籍時に、仕事として実際に殺人を請け負っていた(と思われる)。ある時、羊飼いからアリスを与えられ、徐々に親密な関係になっていった結果、羊飼いより「大切な人を殺せ」との才能試験を課せられ、その手にかけようとするものの、最後にはアリスに自分を殺すよう仕向け、絶命する。この際、「わざと自分の武器をアリスに奪わせる」シーンがあって、非常によくできた演出・演技だなと感じた。すごい。

 この一件によってアリスは精神的な傷を負い、壊れてしまう。ヒヨクは、アリスの命を奪わないという意味で、たしかにアリスを殺しはしなかったが、人として壊してしまったという意味では殺人に変わりなく、試験には合格したのだと捉えることもできるか。ただ、そうだとしてもあまり意味はない*8

 「人を壊すのも殺人ではないか」との考えから派生させると、「殺人」とは必ずしも命を取ることとは言えない。例えば、「社会的に抹殺する」という言い方がある。だから、ヒヨクが仕事として行ってきたとされる「殺人」が、実際にどのような性質のものであったのかには議論の余地がある。結果として、ヒヨクは最後まで、「命を取る」という意味で人を殺さなかったかもしれない。その場合、唯一の例外は自分自身だけである。

 

 妹であるレンリは声が高く、長髪の一つ結び。「医療の"才能"」を持ち主であり、ヒヨクが手紙に書き残した「アリスを助けて」との言葉に連れられ、学院にやって来た。ラシェルがリゼッタたちにレンリを紹介する際、ヒヨクに言及しようとしたことから、ヒヨクの存在自体は学院内でタブーになっているわけでもないらしい。

 ヒヨクの言葉がなければ、レンリが学院に来ることはなかったのか。容姿が一致していることから、彼女たちは一卵生双生児と考えられ、順当に考えれば、同時期に入学していてもおかしくないような気がする。ただ、そもそも入りたいからといって入れる場所でもないし、また能力はあったとしても、レンリとしては特に入学するつもりはなかったのかもしれない。であれば、レンリが来たのはヒヨクが原因であり、ヒヨクが原因を作った原因はアリスであり、アリスを連れてきたのは羊飼いであるから、ここにもその意図が見え隠れすることになる。

 狂ったアリスを見て、「彼女を救えないかもしれない」とレンリはたじろぐ。リゼッタは、そんなレンリに対し、相応の覚悟が必要になると前置きした上で、一つの提案を行う。それは、レンリがヒヨクとして生き、アリスを救うことだった。

 レンリは、体の震えを抑えながら、アリスに近づいて優しい言葉をかける。そんなレンリにリゼッタは、「嘘は最後までつき続けなければならない」との言葉をかけ、レンリは震えた声で反応した刹那、意を決したように、ヒヨクの声で再度言葉を発する。迷いと決断がありありと表現された、とても素晴らしいシーンである。

 ただ、これらのシーンは、直前までのテンポがよかったこともあるのか、「そんなにすぐに決断してよかったの」と心配になった。再三のことながら、レンリが決心をするまでにどれぐらいの時間を使ったのかは全く分からないのだが、アリスに怪我をさせられたヒジリが目を覚ました時点では、もう事が終わっていたことからすれば、3日も4日も使ってはいないだろう。学院に来てからも間もないはずなのに、そのような迅速な決断ができたのは、何故だったのだろう。

 アリスが近くにないときにはレンリの口調に戻っており、また四六時中二人一緒にいるわけでもないようだから、レンリとしての人生を完全に捨て去ったわけではない。しかし、そうだとしても、他人として生きる決断は並大抵の覚悟ではできない。実の姉のためとはいえ、レンリはどうしてそこまで自分を犠牲にできるのか。もとい、レンリはどうして実の姉のためにそこまでできるのか。いつかどこかで語られればいいなと思う。

 アリスがレンリの嘘に気づいているかは、一つの論点だろう。そこを捉えて、羊飼いが試練を課してきそうな気もする。例えば、レンリにとってもアリスが真に「大切な人」になった時点で、レンリに対して「大切な人の治療を終える(または「治療を完了させる」)」といったような課題が提示され、彼女の治療を終えるには、ヒヨクの亡霊から卒業させる=レンリの嘘を明らかにする必要があって…みたいな話である。アリスが真実を知ったとき、「本当は分かってた」となるのか。それとも再び発狂してしまうのか。何にせよハッピーエンドがいいな。

 

羊飼い

 学院の管理者であり学長でありAIである。彼/彼女の存在が、AIの姿形をぼやかしている。どうしてこんなデザインなのか。科学の権化であるAIが、キリストを象徴する羊飼いの姿をしているというのは不思議である。自分が神だとでも言うのか。合理的な判断をした結果そうなった、自身をそのように表現しているということか。神もAIも、人間が作り出した絶対的な存在と考えれば、近しいものだとも考えられる。

 もとい、この世界があくまでもAIに「管理」されているだけで、「支配」されているわけではないとするならば、このようなデザインは人間によるものであるとも考えられるか。いずれは神と同等の存在になる=完全にAI支配されることを暗示しているようにも思える。または、生徒が彼/彼女をご主人様と呼ぶ以上、すでにそうなっているのかもしれない。

 感情はないらしいが、「"才能"のない者に興味はない」と言ったりするので、人間らしい一面がないとは言えない。笑いもする。AIだけど。

  

ノゾミ&レイナ&ユズ

 アイドルユニット・メイドレスの三人。それぞれ、「火をおこす"才能"」「風を読む"才能"」「穴を掘る"才能"」の持ち主。ノゾミは自分を評して、「アイドルの"才能"」がないと言うが、彼女たちの"才能"については、例えば「熱狂させる」「時機(流行り)を読む」「物事を追求する」といった概念に置き換えられるように思え、実にアイドルにとって必要不可欠な"才能"を持っていると解することもできるのではないか。だから、彼女たちの進む道は間違っていないと思われるが、純粋に「アイドルの"才能"」を持った人間を目の前にしたときに、どれぐらい渡り合えるかは試練の一つかもしれない。それ以前に、セリとヒカリの一件を念頭に置くと、外の世界においてそう何人もアイドルになれるのか、という疑問はわく。この点、ノゾミたちの口から「外の世界でアイドルとして成功したい」とは聞いた覚えがないので、実際に目指している道は少し違うのかもしれない。

 ノゾミが自分の夢としてアイドルを追い求める一方、レイナとユズはノゾミのためにアイドルをしている。この点は、今後の彼女たちの関係に綻びを生じさせるうるように思う。でも最後には和解する。そんな三人であってほしい。

エツコ

 AIのようだが人間である。変態性を抜いた畑ランコのような、「諜報の"才能"」を持つ女の子である。羊飼い・ラシェルと並んで謎が多いというか、劇中で掘り下げられない、数少ないキャラクタである。会話中にダジャレを織り交ぜてくるのだが、「アクセスするのにあくせく」が個人的には大ヒットだった。スピンオフでメインを張ってくれたらとても楽しそうなので、是非ともそんな日が来てほしい。

 何も知らないように振る舞うことがあるが、実際のところすべてを知っているのではないかとも思う。何と言っても諜報の"才能"だ。そして、依然としてそのような"才能"を活用しうる世界であることに、少し気分は暗くなる。そもそも、学院にいるのも何かの諜報活動の一環かもしれない。だとすれば、「諜報の"才能"」と見抜かれているのは致命的に思われるけれども。

 

ラシェル

 「教育の"才能"」を持った教師。先に書いたとおり、学院内に教師的存在が何人居るのかは分からないが、羊飼いの隣りにいることから考えれば、教頭的な学院No.2の役割であることは間違いないだろう。若そうに見えるが、実は「メイド」という概念が一般化する以前から活躍しているような、そんな存在であるようにも感じられる。

 ラシェルは学院の卒業生なのだろうか。また、外の世界を経験したのだろうか。ただこの世界において、学院以外の一般的な教育機関が存在しているかは怪しい。学院はあくまでも"才能"を磨く機関であるから、基本的な教育は別の機関で実施されているとも考えられる*9が、AIの管理下でもなお、そのような制度とっているかは疑問である。つまり、ほぼすべてのことをAIが処理している世界において、人間に等しく教育の機会を保証することはあるのかということである。

 ラシェルはいつでも生徒たちの味方であり、羊飼いに対して反駁できる実力も持っている。そんな彼女の目を通して、AIに管理された世界はどう見えるのか。私はただ純粋に気になる。

 

違和感の正体を暴けるか

 くどくどしく書いてきたが、立ち返ると、「AIに管理されている」という事実について、観劇時から、それが何を意味するのかをずっと考えている。仮に組み分け帽子的な存在が才能を見抜き、幻想的な学校で"才能"を磨くことにしても、面白いかは別にして、物語として破綻することはない。しかし、SS_Pはそんな世界ではない。

 とにかく、どうして科学技術が進んだ世界の中で、女の子たちがファンタジックな衣装を着て、手作業で服を仕立てるなんてことをやっているのか、ここのアンバランスさが私の中でうねうねしている。「それはそういう設定だから」と言われるかもしれないが、そんなことは分かっている。その上で、ごちゃごちゃと考えたいのである。

  ということも含めて、ほとんどの疑問は設定資料集を読めば解決しそうなので、懐が暖かくなったらば、是非ともそうしようと思う。読んだ上でやはり分からなかったら、そのときは……またごちゃごちゃと考えるのだろう。SS_Pはきっと、私が認識しているよりもずっと多く、私に嘘をついている。

 幸せなことに、SS_Pの世界は今回で終わるわけではないそうだ。どのようにして展開していくのか、今後の動きを楽しみに思うとともに、このような楽しい世界を作り上げていただいた皆々様に、感謝の意を述べて本記事を終えることとする。本当にありがとうございました。

*1:事実、羊飼いは「ご主人様」と呼ばれる。

*2:個人事業主とて他人に使われる立場ではあるが、ここでは主体的に動く存在を示す言葉として用いている。HUNTER×HUNTERのハンターがより近いか。

*3:フレームメイドは、それぞれが特定の個体を演じているわけではなく、主要な登場人物たち以外の生徒を総体的に演じているものとして理解している

*4:「○○を教える"才能"」みたいな

*5:自主退学が許されるというのもAIの立ち位置を考える一つの材料になるかもしれない

*6:落ち谷の1戦目の方

*7:AIだからこその判断とも言えてしまうけれども

*8:ヒヨク生存説はありえるかどうか

*9:教育もまた必要最低限の生活を送るために必要な要素だとすれば