死に物狂い

他人から影響を受けやすい人間のフィクション日記

キャラクターとの別離

 実在性というワードで語らなくとも、キャラクターはそこにいる。ただ、「そこ」というのは、私たちの住むこの世界ではないかもしれない。文字通り次元が違う。しかし、何かをきっかけにしてこちらと繋がることがある。そうして私たちの目の前に顕現する。

 おそらく混同してはならないのは、顕現をもってキャラクターが生まれたわけではない、ということだ。キャラクターは、私たちが目にする前から存在している。生きている。それがたまたまあるタイミングで、クリエイターたちの意識と手を介し、私たちの眼前に現れただけなのである。

 

 一方で、キャラクターとの別れはどう捉えられるか。そもそもキャラクターとの別れとはなんだろうか。

 例えば、創作物の中でキャラクターが命を落とす場合。たしかに、死は別れの一形態であるが、実際上、我々とは関係がない。なぜならば、それはあくまでもキャラクター世界における出来事であるからだ。同じ地球上であっても、遠い地の悲劇には現実感を持ちにくい。いわんや次元が違えばをやである。

 言い換えれば、私たちの世界に顕現し、関わりを持ってしまえば話は変わる、ということでもある。これも、現実世界とさして考え方は変わらない。程度はあれど、もはや全くの他人ではないとなれば、すべての出来事は我が事となりうる。親類縁者でもないのに、有名人が亡くなると多少なりともショックを受けるのはそういうことだろう。一方通行な感情であるとしても、惜別の悲しさや寂しさは覚えてしまうものである。

 

 

 昨月にゆうちょ銀行の決済サービスであるmijicaが終了となる旨告知された。

www.watch.impress.co.jp

 

 原因は過去に生じた不正利用事象である。結果として、サービスの改善ではなく、そのものを刷新することが選択された。

 私自身、mijicaを利用してはいなかったし、また一企業の判断にどうもこうも思わないのだが、一点だけ気になることがあった。

 

「みじか」はどうなるのだろうか。

 

www.yurugp.jp

 

 郵便局に行くたびに、私はみじかを認識していた。かわいいね。その姿も今後は見られなくなるのだろうか。

 mijica廃止以降のみじかの処遇について、特にリリースは見つけられなかったのだが、みじか自身は別にmijicaがなくても、「身近なサービスを提供する」云々のフレーズで活躍できそうなので、普通にこれからも居そうな気もする。

 

 仮にmijicaとともに、みじか自身も姿を消すことになったら。だとしても、それはキャラクターが死を迎えたわけではない。単に私たちの目の前からいなくなったというだけで、自分の世界に戻っただけである。つまり、「みじかは今日も平和に暮らしています……」という話になるのだが、惜しむらくは、もはや私たちが、そのように平和に暮らしているみじかの姿を見ることが叶わない点にある。

 もしも、みじかが私たちと同じ世界の住人であったなら、日々の生活で出会う可能性は、たとえ0に等しくとも、無ではない。ゆうゆう窓口で対応するみじかに、ばったり出くわすかもしれない。「おっ、元気そうにやってんな」と感じ入る場面があるかもしれない。そもそも、そのような感情を得たいというのは自己満足にほかならないわけではあるが。

 いずれにしても、みじかの本拠はこの世界ではない。したがって、郵政の判断によっては、かなりの高確率で、今後その姿を見ることはないだろう。それは結局、私たちの世界における別れと、大きく意味は変わらないのかもしれない。

 

 

 と、キャラクターの行く末などという話題は、特に新しいものでもなく、実際私も、古今東西、様々なキャラクターと出会い、別れてきた。そのたびに思うことはあったが、今になって改めてごにゃごにゃと考えているのは、潤羽るしあさんの件があったからだ。

 契約解除が発表されたタイミングでは、日々の通りがかりに、まだ彼女が出演予定だったイベントの広告を見ることができた。彼女も他のタレントと同様、行き交う人々に笑顔を投げかけている。そんな姿と、彼女の最後のツイートを見比べて思ったのだった。つまるところ、キャラクターとは一体何なのだろうかと。