唐突に自省録を読みたくなった。そういう作品を読んでおくとなんだか教養が深まりそうだからだ。毎度ながらこの考え方がそもそも無教養である。とはいえ、そのような単なる中二病の延長線心だけでなく、「自省するか~」の心持ちになったからでもあった。
自省録を読むのは初めてではない。最後に触れたのは数年前で、その時も同じように自省心が芽生えていた。しかし、その時は途中で読むのをやめた覚えがある。もとい、そもそも通読するタイプの作品ではないのだと思う。物語じゃないからね。
古典を読むには図書館に行くに限る。まず間違いなく所蔵しているし、高い確率で誰も読んでいない。そもそも書架に保管されていて表に出ていないことも多い。そういう書物を図書館で借りると特をした気分になる。案の定、自省録は誰にも借りられていなかった。
あらためて読むと、マルクス・アウレリウスも現代人さながら、同じことをぐるぐると考え続けている感がある。複数回似たような話が出てくるのを見ると、そうは言ってもなかなか実践できないんやろなという感じがする。
よく言及するテーマの一つに、人生はそう長くないという話がある。もう君は若くないのだからすべきことをしなさい、みたいな話である。程度は分からないが、そう何度も書くのだから、本人も人生に迷っていたのか。名言集によく引用される「一万年も生きるかのように行動するな」とか、やたらと過去でも未来でもなく今を見るように言うのも、裏返しから出た言葉だったのか……どうかはさておくとして、悩んでいるうちに人生終わってしまいますよ、今を見ましょうねというのは、マインドフルネス的な思考にも近しいし、漂流教室で窪塚洋介も言っている。とはいえ、現実的にはなかなか振り切れないところでもある。
今が永遠に続くかのような錯覚は、主に不幸を通じて覚めることが多い。身内が亡くなる。災害に見舞われる。当人にとっての衝撃が大きければ、それによって当たり前がないことに気がつく。気づいたほうが幸せなのかどうかは議論があろうが、錯覚したままよりかはよいように思う。ただ、一度そのように気づいたとしても、そのうち忘れてしまうことも多い。
かくいう私も忘れるのだが、図書館や大型書店に来ると少しばかりは思い出すことができる。目の前に広がる本をすべて読もうと思っても、おそらくそのような時間は私に残されていない。健康体で老いを重ねられていったとしても、また実際に読むかどうかは関係なく、物量的に不可能であると思い知らされる。友人が母にひぐらし業を見せた時に「老い先短い人間になんてものを見せるんや!」と怒られたらしいが、このような感覚は歳をとるとなお強くなるのだろう。
特別コンテンツ消費に限る話ではなく、一秒ごとに一秒老いているのは避けられない事実であり、そのたびに選択肢や可能性の幅は狭くなっていく。それこそ、どうこう言っても仕方がなく、すべきことをしようがしまいが時間は過ぎる。であれば、せめてもの悩む時間は少なくしたいところだが、そう簡単にもいかない。ただ、良くも悪くも、選択肢が少なくなることで楽になる部分もあるだろう。であれば、悩めるうちに悩んでおくのも、結果的にすべきことをしていることになるのではないか。一般悩んだ日々は決して無駄じゃない、と言う人もいるのだから。
そしてこんなことを書くのは一度目ではないので、その意味で人間は変わらないのである。マルクス・アウレリウスもそう思うよな?