ひきわり算盤

他人から影響を受けやすい人間のフィクション日記

プロジェクト・へイル・メアリーを見て考える世界の危機における文系の立ち位置

 プロジェクトへイルメアリーを観てきた。もう原作をあまりちゃんとは覚えていなかったこともあって、映像化に際してよくある違和感みたいなものもなく、とはいえおぼろげな記憶に照らしていろいろとカットしていることには気づきながら、しかしまあ物語としてのエッセンスを取り出したらこういう感じかと納得をして楽しく見たのだった。 

 こういった作品を見たり読んだりしてよく思うのは、世界の危機に際して、我々文系・事務系の人間は何か貢献できるのだろうかということだ。残念ながら重力加速度の値すら、そのほか何やら難しそうな数学・物理学の概念はもちろん、工学・生物学の分野についても当然のごとく全くの素養がない私は、科学者や技術者たちの邪魔にならないように粛々と冷静に日々を過ごすことぐらいしかできないのであろうか。

 そこで一旦、いやいやストラットがいるじゃないかと思うわけである。しかし、ストラットを基準に考えるとそれはそれで難しい。たしかに彼女は科学者でも技術者でもないが、かといって科学者たちから言われたことをそのまま鵜吞みにするでもない。専門分野外の事柄であっても、完全な無理解というわけではなく、一定の素養はあって、だからこそ最終的な意思決定者としての立場に居るんじゃないだろうか。

 そうすると、私もブルーバックスに書かれているような事項は知識として持っておくべきか、と勇んで講談社のホームページに行くと発行巻数に圧倒され、そもそも自分の専門分野ですら危ういのに、他分野に触手を伸ばしている場合なのかとそっとタブを閉じて有斐閣と日本評論社に向き合うことになる。しかし、だからといって日本法の理解を完璧にしたとしても、国際協調のもと一大プロジェクトをやっていくぞという時に、それらの知識がどの程度活かせるかは微妙なところである。

 そういった個別分野の詳細な知識というかは、学際的な教養に加えて、「合理的」に意思決定ができるだけのメンタルと思考回路が備わっている方が重要で、それは経験と教育によって習得されるものだろう。ストラットがどのような経緯でそれらを得たのかはわからないが、自分が同じ過程を経るのは相応以上に難しいに違いない。そもそもストラットを基準に考えるからおかしくなるのだ。我々が目指すべきはストラット自身ではなく、その指示に基づいて動く組織の構成員としてうまく物事を回す方、実地的なオペレーションとロジ周りを滞りなく担当できるようにしておくということだろう。グレースが連れてこられた船上の会議体、あの会議を準備しているのが我々である。

 しかしそれでもなおよく言いすぎているというか、どうして自分がそんな検討の中心地にいる前提で話をしているのか。これはたしかに自分を高く見過ぎている。まず言語の問題すらクリアできていないのに、国際会議の場でロジを担当するも何もないであろう。もっと規模を小さくして、視線を近くに向けてみよう。結局は日本から出ず、日本の中ではたして何ができるか、という考え方になるのではないか。

 それをさらに言い換えてみよう。仮に日本を舞台にしたスピンオフが制作されるとして、グレース博士たちが侃侃諤諤の議論をしているなか、日本では多分同じように議論や検討をしていると思うので……いや何もしていないかもしれない。もはや単一国家でどうこうする問題ではないので、アストロファージを借り受けた研究機関が稼働しているぐらいで、そのほかは情報統制も敷かれてみんなよく分からない状況な気もする。

 そんな中で私は一体何ができるのか。科学者たちがその頭脳を存分に活用できる組織作りを……ルールメイクを……とこれはこれで、自分が急に政府機関に身を置けている状況が想像できないので、結局ふつうに生活することだけではないか。文系であろうが理系であろうが、専門分野に関係なく、自分が身を置いている場所で考えよう。私は一市民である。しかし、社会の不安が大きくなりつつある中で、一市民がふつうに生活するのは難しい。難しいし、そうすることが望ましいとも言い切れない。概してパニックは避けるべきだが、パニックを無理に起こさないというのも変である。社会の構成員全員が自暴自棄になってしまうのはよろしくない。かといって、本当に何も起きていないかのように過ごすのも違うであろう。

 そう考えると、程度の差はあれど多くの物事がそのように考えられるようにも思う。例えば今だってそうだろう。原油が運ばれてこない現実に、どう向き合うのがよいか。プロジェクトヘイルメアリー的状況の予行演習だと思ってみれば、少し景色は違って見える。そのうえで結論として、有事の際に一個人ができることはおおむねないとの現実を突きつけられている。できることといえば、日用品をちょっと気持ち多めに買うぐらいで、これも個人的な生活防衛策でしかない。これでは世界も社会も救うことはできないが、市井の人としては自分の生活を守るぐらいでちょうどよいのかもしれない。そしてそれが、最終的に世界を壊さないことへとつながるのであれば、願ったり叶ったりである。

ぽこあポケモンから感じる寂しさ

 いつからかポケモンとの間に距離が生まれ始めた理由は、その世界の在り方を自分の中で消化しきれなくなったからだ。どうしてポケモン同士を戦わせるのか。その目的がよくわからなくなっていた。もとよりそういうコンセプトの作品であるということであって、そこに目的も理由もないわけだが、何かの拍子に心に引っかかるようになったのである。

 それでもたまにポケモンに帰ってくるのは、その世界の在り方に魅力を感じてもいるからだ。やっぱり冒険がしたいのである。新しい街に訪れたいのである。ただ、そこにポケモン対ポケモンの勝負が伴う必要性は、やはりない。ポケモンを捕まえる必要性も、レベル上げという無用な目的のために野生ポケモンを痛めつける必要性もない。ポケモンがいてくれたほうが世界の彩は増すが、ゲームとしてそこに付随する要素はおおむねなくてもよいのである。

 ぽこあポケモンは、そういうポケモンであった。発売前は懐疑的であった。ポケモンだけの舞台も、それはそれで苦手なのである。ポケモンのバディは人間であってほしい。これは私が人間であるからこそのカルマである。感情移入の対象を用意しておいてほしいのだ。しかし、そのような懸念は杞憂であった。この世界にポケモンはいる。しかし、ポケモンを戦わせる、捕まえる人間はいない。ポケモンとは友達になればいいの。それでいて、冒険はある。メタモンが、私の代わりに冒険してくれている。

 パサパサこうやでゼニガメに出会った時、とても安心した。画面上に体力ゲージがなかったからだ。そういうUIがどこにも見当たらなかったからだ。まだチュートリアルだからかと、最初は疑っていた。どこかのタイミングで、急にハートのアイコンだったり、緑色のバーであったり、そういうものが出てくるのでないか。しかし、これもまた杞憂だった。

 メタモンは倒れない。疲れるだけだ。高いところから飛び降りても、その先に地面がなかったとしても、問題ない。非常に強い。傷つかないのである。そして誰かを傷つけることもない。その意味で平和な世界だ。その意味では平和な世界だ。

 しかし、ここでこの世界の在り方が際立ってくるような気もする。どうしてそのように平和なのか。それは結局、そこに人間がいないからではないか。人間がいないからこそ、結果的にポケモンたちは平和に過ごしているのではないか。

 一方で、本作に登場するポケモンたちは、それほど人間に悪印象を抱いていないように見える。人間に扮しているメタモンを見ても、怖がったり、非難したりすることはない。本来的に人間とポケモンの関係性はそうであったのかもしれないし、人間と良好な関係性を保てていた種だけが生存しているのかもしれない。人間も人間で、ポケモンを残して避難せざるを得なかったのだとしても、ポケモンを生存させるためにポケライフを構築しようとする気概を見せたわけである。ともすればポケモンによって星の環境が改善する可能性を見越していたのかもしれない。あるいは、自分たちだけが避難しようとする姿勢への言い訳かもしれない。それでも、行動で示すことは何よりも重要だ。

 そもそも異常気象は避けられない運命であったのか。ここに、現代を生きる我々は率直な疑問を抱く。そんなわけはないだろう。人間たちは自身の行いによって、その運命を引き寄せたに違いない。どうしてもそう思ってしまうが、これもまた定かではない。仮に人間が自ら招いた結果だとしよう。それでも、人間はポケモンを救おうとはしたのである。そこに人間の善性を感じることはできないだろうか。人間とポケモンはパートナーであったのだ。だから、人間はポケモンを救おうとした。そして、今度はポケモンによって、人間が救われるのである。

 そう思って、私は少し寂しくなる。なぜならば、現実世界にポケモンは存在しないからだ。あらゆる他の種族を地球に残し、宇宙のどこかへ避難するとしよう。その時、私たちは、人間以外の生物を保護するような仕組みを地球に残す、などということを試みるだろうか。できるできないの話を措くとしても、到底そのようなことは行われないように思う。そして、そうであるから、自ら積極的に人類を助けようとしてくれるパートナーも存在しない。幸運によって仮に遠い宇宙から戻ってこれたとしても、それを喜んでくれる相手は、どこにもいないのである。