死に物狂い

他人から影響を受けやすい人間のフィクション日記

FF5、ムーアの大森林

 幼少期のころ、近くに住む年の離れた兄ちゃんとよく遊んでいた。兄ちゃんグループに混ぜてもらっていた形だが、地域の子どもはみんな友だちみたいな雰囲気だったので、いろいろごちゃまぜである。

 兄ちゃんの家には色々なゲームがあった。大量というわけではないが、うちよりは多い。時は既にプレステ全盛期だったが、よく遊んだのはスーパーファミコンスーパーチャイニーズワールドだった気がする。セーブ機能があったかどうかもわからないが、毎回ニューゲームで始めて、そう長くないうちにゲームオーバーになり、リプレイするわけでもなく終わる。えらく難しかった記憶がある。

 ある日のこと、部屋に置かれたカートリッジが気になり、じっと見ていると、兄ちゃんが「貸そか?」と言ってくれた。これがFF5だった。当時でも、おそらくファイナルファンタジーというシリーズは認識したが、どの作品にも触れたことがなかった。だからこそ気になったのだと思う。ありがたい提案に乗っかり、家に持って帰って、カートリッジを差し込んで、電源を点けた。

 

 FF5の面白いところは世の中で様々に語られているが、当時の私はジョブシステムでもアビリティでもなく、「次はどんなステージなんだろう」という、原始的な冒険感を楽しんでいたのだと思う。これは今でも変わらない。私がゲームに求めているのは、次に何が出てくるのかのわくわくである。もちろんストーリーが面白いとなおよいし、システムが楽しければさらに嬉しいが、仮にそれらがなくとも、先に進みたいと思わせる何かがあれば問題ない。FF5にはそれがあった。

 そうして順調に進めていたのだが、あるダンジョンで完全に詰まってしまった。ムーアの大森林である。第2世界において、エクスデスの生まれ故郷であるムーアの大森林に赴いた主人公バッツ一行は、エクスデスの手による大火災を逃れたのち、「封印を守る者」と対峙する。

 こいつらが非常に厄介であった。何度やっても倒せない。日を改めても倒せない。ジョブを変え、アビリティを変え、試行錯誤を繰り返すもやっぱり倒せない。

 今思えば、もう少しレベルを上げればよかったのだと思う。意識的にレベル上げをしていなかった。そのようなRPGでも、力の源はレベルである。ボスに挑む時間を使って、経験値を稼げばよかったのである(それかもう少し執拗にぜになげをしていれば簡単に戦いを終えられたかもしれない)。

 しかし、当時の私はそれを良しとしなかった。というより、すでにポケモンを経てレベル上げの概念は理解していたにもかかわらず、頭になかったのである。もっとも単純で、かつ簡単な解決法に発想が至らなかったのだった。

 そうして完全にスタックした結果、私がとった行動は、「もう一度最初からプレイする」だった。同じ敵を相手にし続けることに多大なストレスを感じた私は、クリアではなく、ただ変化を求めたのである。そして同じようにプレイを進め、再びムーアの大森林に到達し、再び封印を守る者を倒すことができず、森の中に留まった。どうあがいても奴らを倒せない。ここでもう一度振り出しに戻る気力はなく、こうして私のFF5は終わったのであった。

 

 以上が本題よりも長い前フリである。

 先日、ピクセルリマスター版FF5をクリアした。こんな経緯だったので、いつかはクリアしなければと思っていたのである。しかし、昔のゲームをやるのには、そこそこ強い気持ちが要る。遊びやすさの面で、しばしば最近の作品と差があるからだ。特に、妙に時間がかかるのは厳しい。大変悲しい話だが、もはや何をするにも「こんなことをしていていいのか」という自問と戦う必要があるのである。作品の本筋ではないところで気持ちや体力が削がれていくと、誰も幸せにならない。

 この点、ピクセルリマスターは至れり尽くせりである。何よりも、獲得経験値を4倍にできる。これはつまり、私のように「とにかくクリアしたい」需要が現に存在することの証左であり、メーカー側もそれをよく理解しているということだろう。邪道であるのは理解しつつ、レベル上げのためだけに何十分も使っていられないと思ってしまうのも事実である。仕事から帰ってきて、その日にストーリーは何も進まず、レベルが5上がっただけ。これは実際のところ結構しんどい。

 ただ、そこまでくると、そもそもそうまでしてクリアする必要があるのだろうか。分からない。知識としてエンディングまで知っておきたい層もいるだろう。ともあれ、私はクリアしたかったのである。

 

 15.8時間をかけて、私はエンディングにたどり着いた。オメガも神竜も倒していない。ただ、ストーリーを消化しただけである。そう考えると、時間がかかったほうなのだろうか。しかし、経験値のブーストがなければ、この倍はかかっていただろう。そうなればクリアする意欲はなくなっていたかもしれない。

 この作品について分かったこともあれば、結局分からないままのこともある。ガラフが命を賭けた理由は分かった。ギルガメッシュがいい奴と言われるのも分かった。それ以外はどうだろう。そもそもFF5はあまり世界のことを語らない。

 私はFF5をクリアした。だからといって私の人生が変わるわけではない。しかし、クリアしてもしなくても同じだったとも思わない。忘れ物を取りに帰ったのだと、そう格好良く言ってもよいではないか。

 

 

 

「ンゴ」の表象

 図らずも時間の流れを実感してしまうことがあるが、これもそのワンシーンだろうか。いつものようにVTuberの配信を見ていた時のことである。

 

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 上記配信はいわゆる大喜利企画であり、その中で「大神ミオがよく使う語尾は?」とのお題が出された。なお大神ミオとは画面右上の黒髪のVTuberを指す。

 このお題に対して、猫又おかゆは「ンゴ」との回答を出した。なお、猫又おかゆとは、画面右下の紫の髪をしたVTuberを指す。

 この回答を見て私は「懐かしいンゴねえ」との感想を抱いたわけである。ンゴといえば元プロ野球選手のドミンゴ・グスマンを指したネットスラングであろう。猫又おかゆも古のネット民であるがゆえ、そこから引っ張ってきたに違いない。しかし、チャット欄を見て驚いた。誰もが私と同じンゴを想像している、わけではなかったからである。もちろん私と同じ感覚のチャットも見られるが、それと同様の規模、あるいはそれ以上の割合で別の存在を想起していたのである。

 時代を経て、ンゴという語尾がネットサーフィンを嗜む者以外にも使用されるようになったというのは知られた話である。しかし、現代においてンゴは、語尾という言語上の機能として認識されるのではなく、その使用者または特定の人物自体を想起させる語句となっているのである。

 すなわち、『アイドルマスターシンデレラガールズ』のキャラクターであり、「んご」という語尾を用いる辻野あかり。そして、「ンゴちゃん」という相性を持つVTuberの周央サンゴである。

 特に周央サンゴは、上記配信の主体である大神ミオらと同じVTuberであることから、おかゆの回答を見た視聴者が、「同じVTuber業界にいる周央サンゴを文字って回答したんだな」と認識しても何ら不自然ではない。

 ただ、ここで忘れてはならないのは、大喜利のお題はあくまでも「語尾」に関するものということである。たしかに周央サンゴはンゴを自称に用いるだけでなく、語尾としても使用する。しかし、チャット欄を見ると、もはやンゴ=周央サンゴであり、語尾としてのンゴから周央サンゴを想起したというよりかは、ンゴという語句から直ちに周央サンゴを想起したように思われるのである。

 すなわち、ンゴはネットスラングとして生まれてから一定の変遷をたどった結果、特定の人物を指し示す文言となった。そして私は歳をとった。こういった何気ない事象から加齢を実感させられるのであった。

 同様の事象は「っピ」との語尾にも見られる。穴久保幸作ポケットモンスターのピッピの語尾として認識されていたそれは、今となってはタコピーの語尾だと認識する人が多いだろう。世代は変わり、言葉は変遷し、人は老いてゆくのである。