死に物狂い

他人から影響を受けやすい人間のフィクション日記

メタバースを知ろうとする

 バズワード化している(という表現自体ももはやバズワード化している気がする)『メタバース』について、概観できるものはないかしらと二冊の本を手に取った。ちなみに私は、Oculus Goを持っていたぐらいのレベルでしか、メタバースらしいものには触れたことがない(そもそもこれはただのVR機器である)。

 

 

 

 こういった書籍では、えてして強めのポジショントークが展開されるものだが、本書らもそうでないとは言えない。前者の著者はメタバースプラットフォームを提供する会社*1の経営者として、後者はメタバースの住民として、それぞれメタバースに関わる場所に身を置かれている。

 メタバースのポジティブな面が強調されているきらいはある。ただ、過度に礼賛しているわけでもなく、世間で過熱気味だったNFTの話も含め、どちらかというと目線は冷静である。少なくとも投機を煽る無責任ポジティブではない。「それは言い過ぎではないか」と感じるところもあるが、単に私が従来の思考に捕らわれているだけとも言える。いずれにしても、純粋に「この分野に発展してほしい」との熱量が感じられるのでよい。

 属性で言うと「サービス提供者」と「サービス利用者」という、対象的な著者による著述になるわけだが、それらの内容は概ね共通していたので、このあたりがメタバースの現在地なのかなと思った。

 

 印象的だったことの一つは、メタバースを現実世界に従属するものとして捉えていない、または現状は難しくとも将来的にメタバースの方が主になる(もしくはもう一段回踏み込んで主になるなるべき)と解している点である。

 メタバースもまた一つの現実である、という捉え方に全く違和感はない。今インターネットに触れている人間からすれば、当たり前の感覚であるようにも思う。このブログを書いているのも、○○という現代日本にける人間の中にある、謎のインターネット人格である。○○とそろばんやは同一人格ではないが、同一人物なのである。

 ただ、メタバースが主の現実となるというのは、今の私には想像できない。そうは言っても我々は今いるこの現実で生きてく必要があるのではないか、と思ってしまうからだ。仮想空間にダイブしていても、停電すればこちらに帰ってくる必要があって、それに大地震が来たら生身で避難しないとあかんわけやないですか(論点が違うとは思いつつ)。

 ということで、私も多数層(らしい)と同じく、比較的ARの方に魅力を感じる人間である。ただこれは、単に複数の世界が混ざり合っている感覚が好きなだけだ。余談ながらVtuberのライブは仮想空間上で見るのではなく、現実のステージ上に立っている姿を見れたほうが楽しい。顕現に魅力を感じるのだろう。あちらに行くよりはこちらに来てもらいたいと思うのである。

 

 経済圏についても包括的に語られている。メタバースではクリエイターを中心に経済が回る。プラットフォーム上でのアバターやアイテムが価値を持つので、目下はそれらを作れる人が「メタバース上で稼ぐ」ことができ、ゆくゆくは今の現実と同様にサービス業も生まれていくだろうとのこと。

 新しく産業が生まれるイメージはついた。気になったのは、メタバース上で稼ぐお金は、やっぱりドルや円なのだろうかということ。生身の肉体がある以上は生命活動をしなければならないわけで、そのために要する費用は現実世界で支払う必要があると思われる。経済活動の主従が逆転したとしても、そこに付随するシステムは旧来のままなのだろうか。将来的には、統一的な手段であらゆる決済ができるようになっているのだろうか。メタバース上の経済活動が活発になったとして、そこから生じる富は、どのような形式で人々に帰属するようになるのだろうか。

 

 アバターについてはアイデンティティの文脈でも語られる。メタバース上では現実の肉体・性別・年齢等に囚われず、なりたい自分になることができる。アバターを通して自分というものを表現できる。

 それは素晴らしいことだと思うし、純粋に楽しそうでもある。生まれ持ったもろもろに左右される必要がない。一方で、どこまで行っても、結局我々は何かに人格を固着させなければならないのだろうかとも思った。ネット上では、アバタールッキズムの観点について、すでに一定議論された感もある。場を移しても、視覚から得られる情報が多様かつ重要なことに変わりはない。

 私は別に「どうあがいても外見からは逃れられないんだ……」みたいなことを言いたいわけではなく、つまるところ、人間って何なんだろうなと思ったのだった。自分を取り巻く多くの要素から開放された時に、そこに残るものは一体何であろうか。それを魂と呼ぶのだろうか。

 

 

 本筋ではないが、文章を介し、好きなものについて熱を込めて喋る姿が想像できてよかった。人はもっと自分の好きなものについて語っていけ(自戒)。やっていきましょう。

 

 

*1:我々としてはバーチャル丘フェスを通して馴染みあるクラスター社

胃カメラをのむ

 どうにも腹の具合が悪く、まあいつものことかと過ごしていたら、だんだん座っているだけでもしんどくなり、なにやら頭痛もし始めたので、胃カメラを撮ることにした。まだ定期的に撮るような年齢ではないが、検査を受ける決断の早さには昔から定評がある。

 検査全般がそうであるが、なかでも胃カメラというのは忌避されがちであるように思われる。たしかに機械を飲み込む行為は怖い。異物を口に入れてはならないと教えられ、育ってきた人間である。医療行為といえども、カメラをのむなんて当たり前にできることだろうか。下から入れるという点で、大腸カメラのほうがまだ自然と言える。言えるか?

 と言ってみたものの、実際のところ胃カメラを撮るのはそんな大層な話ではない。経験していないから怖く感じるものの一つであるように思う。やってみればあっさりしている。事前準備も簡単だ。大腸カメラのように、腸内からひたすらモノを出す必要はない。検査日前日の夜から検査終了まで何も食べなけばそれでよい。水分は摂ってもOKなので、この季節でも安心だ。

 ということで久々に胃カメラをのむことにした。よもや大きな疾患が見つかることなど……ないと信じているので、とにもかくにも早く楽になりたかった。検査をしたからといって治るわけでもないのだが。

 

 偉そうなことを言ったが、たかだか人生二回目の胃カメラである。昨今は鼻から入れることもできるが、前回が口からだったので今回も同様。もとい、行く医者が揃って「こだわりがなければ口からを勧める」と言うので、そういうものかと思う。

 口からの場合、鎮静剤を使うかどうかを選べる。寝ている間に検査を終えられる魔法の一つで、前回も使ったのだが、検査中に目が覚めてしんどかった。とはいえ意識を保ちながら管を入れられそうにはないので、今回も使うことにする。途中で目が覚めた話をしたら「じゃあ強めに使ってみますね」との返答。それはそれで別の怖さがある。

 

 検査当日、昼に予約を入れていた私は、盛大に腹を空かせた状態で病院に向かった。ちなみに、予約はやはり午前中の早い時間から埋まっていくそうである。

 熱を測り血圧を測り液体を飲む。これは胃の中を見やすくするための薬剤らしいが、いかんせん味がよくない。と悪態をつくだけの余裕はまだあった。

 検査室のベッドの上で横になり、腕に点滴の針を刺すとともに、喉の麻酔を行う。体を横に向け、マウスピースを咥えると、医師がニコニコしながら入ってきた。「強めにね!」と、笑顔で再確認を行う。これはこれで別の怖さがある。

 

「目をつぶって深呼吸してくださいね」と看護師に言われた後、腕に刺さった注射針から、冷たいものが流れ込んでくる感覚があった。ああ入ってきているなと、いつ意識が飛ぶのかを待っていると、喉の違和感で目が覚めた。

 またか、と取り乱さずにいれたのは私が冷静だったからではなく、薬でボーッとしていたからである。盛大に咳をすると、その振動によって、体内を通る管が殊更に意識された。すると、何かが体内に刺さっているその状況が不安に思われてくるのだが、看護師に背中をさすられながら深呼吸を促されると、背中の感触を通じて安心感が湧き出てきた。新型コロナから回復したボリス・ジョンソンは「社会というものが本当に存在する」と言ったそうだが、同じ感想だった。医療従事者のみなさんいつもありがとうございます。

 

 結局検査が終わるまで意識は保たれたままだった。ベッドに載せられたまま移動し、鎮静剤が抜けるのを待つため再び眠る。ある程度歩ける状態になったのを見計らい、診察室へと向かう。「やっぱり起きてしまいましたね」と笑いながら言うと、医者は「何でやろねえ」と不思議そうな顔をしていた。