死に物狂い

他人から影響を受けやすい人間のフィクション日記

1月に読んだ本など

 どのような尺度であれ、頻度であれ、定期的に何かしらを振り返ったほうがよい。そうしなければ、あっけなく一年が終わってしまうだろう。それはそれでよいことでもあるが。

 以下、コンテンツの感想についてはネタバレを含んでいたりいなかったりする。

 

 

【1月に読んだ本】

三体 Ⅱ・Ⅲ

 Ⅰを読んだのが2年ぐらい前だった気がするが、定かではない。セールのときに購入したままになっていたのを、さすがにそろそろ読まないといけないのではと年明けにかけて読んだもの。Ⅰの内容を忘れていても安心。概ねなんとかなる。

 ⅢはどちらかというとSFファン向けらしく、Ⅱの方が(相対的に)読者からの評判がよかったらしいが、私もⅡの方が好き。もとい読みやすかった。私はSFの科学的な描写があまり得意ではないのだが……と言うとそもそもSFを読むなという話かもしれない。ただSFを読んだときの「なんかよくわかんけどすごい感」が好きで読む(ことがある)。言い換えると、メインは科学的な部分でない。したがって考証が云々と言われてもよくわからず、何だったら書いていることがよくわからないから読むのを途中でやめることもままあるのだが、Ⅱに関してはそんなこともなく、数時間かぶりつきとなった。一方で、正直に言ってⅢの後半はやはりよくわからないままに終わった。

 よくわからんけどすごい感は、面白さのほか、怖さを生む場合も多い。SFの読後感は、ホラーのそれと結構似ていると思うのだ。それは私が宇宙を(未だに)怖がっているからだろう。得体の知れない存在。ブラックボックスであり、そこには超自然的な何かがいるかもしれないし、いないかもしれない。あるいは、得体が知れそうだから怖いということもある。宇宙の怖さは、その圧倒的な存在感にもよる。SFを読むたび私は、遠い未来に、しかし必ず太陽が寿命を終える事実を思い出す。何をしようが、いずれ太陽系はなくなるのだろう? その前に人類は絶えているだろうが、種が継続しないことよりも、いまあるこの空間自体が死に至ることのほうが怖く思えるのである。それこそ、考えても仕方がないことではある。

 作中で提示された宇宙社会学の公理によれば、生存は文明の第一欲求であるが、結局のところ、どうして生存を追い求めるのだろうか。私個人で考えれば、当然ながらそう簡単に死にたくはないわけだが、種としての人類を永続的に生存させる絶対的な必要性はあるのか。そんな思考を誰でも一度は持ったことがあるだろう。作中で答えが提示されているわけではないが、そういった個人の想いの総体によって、種の生存本能が導かれるのかしらと思った。個人個人の「死にたくない」が集積して、種としての願望に繋がっていくイメージ。そういえば、本作では、死が何を意味するのかについて、特に言及がなかった気もする。三体人の攻撃に、あるいは上位存在の次元攻撃に人々は恐怖し、逃げ惑ったわけだが、どうしてそうまで怖がるのか。いかに科学技術が進歩しても、死の謎が解き明かされることはないのか、それとも解き明かされたからこそ、なお怖いのか。

 

 

ストーリーが世界を滅ぼす

 事実を事実として捉える、などということが現実的にできるのだろうか。そもそも、その事実は本当に事実か。私たちに伝えられる時点で、意図的であるかどうかにかかわらわらず、何らかの物語性を帯びてはいないか。そんなことを言い出すとキリがないのだが、キリがないと知っているだけでも少しはましだろう。

 人は情報を求めている、ように見えて、実際のところは物語を求めている。物語として情報を消化する。そうであるから、共感を呼ぶものでなければ、感動や怒りを呼ぶものでなければ、広がりを持たない。言い換えれば、そのような要素を持つ情報は、意図の有無にかかわらず、自然と伝播していってしまう。そこにおいて、真実性は問題とならない。となると、つまるところ情報とは何なのか、という気もしてくる。

 ファクトを伝えるのが大事と声高に叫ばれる世界において、そのファクトが単なるファクトでしかないのであれば、伝わるものも伝わらないとなってしまうのか。伝えようと思うのであれば(この時点で伝える側の意思がすでに含まれているわけだが)、そのファクトに何らかの物語性を付け加える必要があるとなろうか。そうすると、客観的な事実なるものは、存在すらできないのだろうか。そんなことはないだろう、と思う。ただ、客観的な事実を得ようとするならば、自分自身が現場に足を運び、現に情報を取得する必要があるところ、それこそ現実的な行いではなく、したがって私たちが客観的な事実を知るのは不可能だ、となりはしないか。

 

 

人工知能で10億ゲットする完全犯罪マニュアル

 刊行時の改題が話題になっていたな、との記憶から購入し積んでいたもの。内容からすると、改題後の方がマッチしていると思う。原題はたしかにかっこいいが、かっこよすぎである。今ぐらいの軽さがよい。そして題名が軽くとも、本作がSFであることに変わりはない。

 三体と同じく技術的なことはさっぱりわからないが、読書中は、派手な映像が頭の中に映し出されていた。正しく解釈はできてないと思う。そこは措くとして、読み手に場面を想像させる・させやすい文章だと感じた。作中にスーパーマンはいないはずなのに、もとい主人公について言えばただの元会社員であるにもかかわらず、アクションシーンに違和感がない。なんかすごそうなことやってんな! かっこいいな! で読み進められる。映像化したら楽しそうな作品になると思った。ただ、実写でやるとカーチェイスのシーンが安っぽくなってしまいそうだから、アニメのほうが良いか。しかし、三ノ瀬を二次元化すると地味になる気がするから難しい気もする。要らぬ心配である。

 

 

安保論争

 タイトルを空目し、1959年当時の安保闘争を論じた本だと思って積んでいたらそうではなかった。半分以上は安全保障自体を論じる構成で、いわゆる安保闘争はあまり関係がなかった。一番おもしろかったのは、安保法制の変遷を辿るⅣ章の1。

 折しも、発刊時期(2016年)の近さから、2014年のロシアによるクリミア併合に言及されており、今が当時の延長線上にあることを認識した。

 安全保障の考え方が時代の経過とともに新しくなっている、との説明のリード文として、下記のように延べられていたのが印象的だった。

日本人の多くにとっての戦争のイメージは、七〇年以上前の太平洋戦争時代の経験で時計の針が止まってしまっている。それは、一国の軍事力や経済力を総動員する、総力戦であった。また、徴兵制により国民を大規模に動員して戦場へと送り、地獄のような戦争を経験させた。さらには、東京などへの大規模な戦略爆撃と、広島と長崎への原爆投下によって、一般市民が犠牲になる悲惨を極めた戦争であった。

細谷雄一.安保論争(ちくま新書)(p.173).筑摩書房.Kindle版.

 過去のものとなったはずの古くて悲惨な戦争が現在進行系で生じている。いかんともしがたい気持ちになった。

 

 

ウクライナ戦争

 その流れで話題の本を読む心意気となった。小泉悠氏によって、開戦当時から近時に至るまでの流れが丁寧に記載されたもの。今も昔も世界情勢には疎いが、当時バイデン大統領がしきりに警告していたイメージだけが残っている。正確な情報をつかんでいる(つかめている)と明確に提示することによって、開戦を踏みとどまらせる試みだったと認識したが、ついぞそれは実を結ばなかった。この点、最近では台湾関係で、同じような話が報道に出てきている印象だが、どうなるだろうか。

 

 

引きずらない人は知っている、打たれ強くなる思考術

 いつかのセール時に積んだ本。おそらく、何かを引きずっていたのだと思われる。目次だけ読めば十分。読まなくても十分。

 

 

Another 上・下

 アニメが放送していた頃に積んだと思われる。積読消化強化月間として読んだ。なおアニメは未視聴である。

 謎が提示され、悩み、解決されるが、また新しい謎が生まれる(あるいは最初から一本通しで存在する)。一連の流れがきれいで、読み進めるのに苦にならない。主人公の恒一が読者と同じように悩んでくれるのがよい。そうそう、それ気になってたんだよ、と思いながら鳴の話を聞く。怪談から始まり、きっとその怪談が何かしら意味を持つんだなと思っているところで意味深に鳴が登場し、夜見山市自体の謎が頭に残りつつ、鳴って実在するの? しないの? してほしいなあと祈りながらページをめくる。鳴の正体が明らかとなっても、次は恒一自身の存在について疑義が生じ、最後には人狼的展開が待っている。

 ミスコミュニケーションによって生じた、ある種のイレギュラーが真相を覆い隠してしまう。この特殊な空間では、何か超常的なことが起こるのではないか。起こってもおかしくないのではないかと思う。それ自体が目眩ましであって、我々世代的にはオヤシロさまとか園崎ブラフに近しいもの。蓋を開けてみればなんてことはなく(なんてことがある部分もあるが)、鳴ちゃんややこしくなるからあんまり意味深なこと言わないでよとも思ってしまうが、何が奏効するかわからない中では致し方なしである。

 「Anotherなら死んでた」をようやく実地で体験できた。バーベーキュー用の鉄串が登場した場面では、誰もがアカンと思ったことだろう。時間差攻撃だったので余計に笑ってしまった。

 「特殊な空間である」こと自体についての種明かしもあるかもしれないと身構えていたが、杞憂だった。願わくはITみたいにならないでほしい。みんな平和に暮らしてください。

 

 

システム・エラー社会: 「最適化」至上主義の罠

 世界は段々とよくなっている。これは事実である。といった言説(というか事実)は、ファクトフルネスが流行った頃によく見た覚えがある。そして、世界の改善には間違いなく技術革新が寄与している。特に、ビッグテックと呼ばれる会社群は、人材と資金を集め、絶え間ない開発競争でしのぎを削り、その競争の恩恵を我々一般市民は受けている……のだろうか。そのような問題提起だと認識した。

 資本主義社会において、数値で測る行為はすべての土台となっている。測れないと改善のしようがないからだ。良くなったのか、悪くなったのかがわからない。そもそも悪い状態だったのかもわからない。というか、良いとか悪いとかってなんだろうか。本来はそこから、もとい、そこをこそ時間をかけて考えるべきなのに、競争環境がそうさせてくれないし、イノベーションとの天秤では、その問いに自体に魅力を感じない。

 手段と目的が混濁している。そう簡単に言ってしまってよいものかは分からないが、技術革新や最適化は、あくまでも世の中をよくするための手段であり、それ自体が目的ではない。そうすると、例えば人と簡単に繋がれるようになったことは、自分の好みにあわせて最適な提案をしてくれるようになったことは、世界をよくしたと言えるだろうか。この点は『測りすぎ』にも通ずるテーマだと感じた。

 いずれにしろ一刀両断するような話ではなく、そうは言ってもいいこともあったでしょうと、TwitterのTLを見ながら思う自分がいる一方で、これらが本質的に私たちの世界の何を改善したのだろうかと考えると、あまり明確な答えを持ち合わせていないのも事実なのだった。

 

 

【1月にプレイしたゲーム】

Hotline Miami 2: Wrong Number

 こんなに難しかったか? と途中でさじを投げたり拾ったりしながらクリアした。1よりもステージが広く、見通しが悪くなっていて、死んで覚える側面が大きくなっている。とにかく見えない。突然撃たれる。突然死ぬ。全員倒したと思ったら犬が残っていた。甘えかもしれないと思いつつ、中間セーブがほしくなった。リスタートまでが高速なので、プレイに集中しているうちは流れでなんとかなるのだが、ふとした瞬間に「私は必死になって何をやっているんだ」となる。これは死に覚えゲーの宿命である。

 慣れてくると、多少なりともスタイリッシュに立ち回れるので、終わったときには良かったねとなる。いい塩梅なのだろう。でもやっぱり難しいが勝つので、手心を加えてはもらえないだろうか。そう思いながらリプレイをし、二週目の頭でロックオンの機能に気づいた。ちゃんと説明は聞きましょう。

 

 

クラッシュ・バンディクー ブッとび3段もり!

 こんなに難しかったか? と1ステージごとに唸ったり唸らなかったりしながらプレイしている。幼少期に1と3をクリアしており、2は未プレイ。せっかくなので1から始めたが……こんなに難しかったか? 小学生でクリアできるものなのか? すごいな当時の私。単に、ワンミスで死に至るアクションゲームをプレイするのが久しいせいだとも思うが、それにしてもよく死ぬ。私のせいでクラッシュくんが天に召されてしまう。アクアクという救済措置はあれど、体力性に慣れた身体には刺激が強い。特に1では、コース中、常に緊張感がまとわりついてくる。気を抜くと落ちるぞ。気をつけろ。

 身体だけでなく、脳の方も、平気で攻略情報を見てしまうほどにはやわくなってしまっているが、同じところで数時間悩むよりはよいだろう(という納得の仕方)。そうせずにカラーダイヤを見つけられた自信はない。

 現在は2をプレイしており、新鮮な気持ちである。パワーストーンを見て、コロコロで連載していた漫画版を思い出す。お元気ですか川嶋亜理先生、と調べてみると2011年に亡くなられていたとの由。そうだったのか。1巻だけは持っていたはずだが、どこにやってしまったか。もう手放してしまったか。

 

 

【その他】

行政書士試験

 無事に合格した。法令138点+一般知識52点の合計190点だった。合格基準+10点のギリギリさ加減であり、ほぼ一般知識で受かったようなものだから、一般知識を持っていてよかった、と喜んでおくことにした。受験勉強はこういうときに役立つ。

 勉強を始めたのは昨年の3月頃で、市販の問題集を3周+合格道場なるウェブサイトの練習問題を概ね3周した。周回途上で全問正解できるようになったわけではないが、落としてはいけない問題を落とさずに答えられるようにはなった、と認識すればよいのだろう。資格試験におけるアウトプットの重要性をあらためて理解できたので、今後も同様の方針でやってみることとする。

 法学系の資格には、間がなくて困ると感じる。正しくは勝手にそう感じているのだが、というのは、行政書士の次に何を受けるかと考えた時、一足飛びに弁護士が来てしまうからだ。宅建は業界が違うし、社労士は微妙に職種が違うし(とはいえ労働法等の知識は持っていて損しないが)、弁理士はもう完全に職種が違うし、司法書士に手を付けるなら(勉強量的に)いっそのこと弁護士でよいのではないか、となる(しかし、いっそのことで目指すような資格ではない)。ビジ法一級で間を埋めんとするのが現実的かなあと思いながら、久々にTOEICに立ち戻ったりしている。ふらふらしながら学んでいくことになるだろう。初心にかえって、ITパスポートでも取る?(唐突)

 

 

以上、2月もやっていきましょう。

 

 

読書負債、図書館の魔力、積読の消化

 いつからか積極的に図書館を使うようになった。本を買っても読まないからだ。セールが来れば意気揚々と電子書籍を購入する。しかしダウンロードされることはなく、あるいはただ電子端末のストレージを圧迫するだけで、本本来の機能が果たされることはない。読みたいと思ったから買ったはずなのに、本当にそうであったのかよくわからない。一冊一冊は安いといえども、塵も積もればである。さらに言えば、電子書籍はその原理上、いつ読めなくなるとも知れない。そうであるからこそ、早々に読破していくべきであるのに、いかんともしがたい。誰も損はしていないが、無駄である。無駄であることは必ずしも悪ではないが、懐にはよくない。よくないことはしないほうがよい。

 とはいっても、読みたくないわけではないのだ。タイトルを見て、表紙を見て、面白そうに感じる本はたくさんある。活字を目で追っている時間は何にだって代えがたい。ただ、読んだ内容を覚えているかは、私の場合保証されない。何よりも、まとまった情報を読む行為が大切なのだ。それが意味のある読書なのかと言われたら返す言葉はないが、意味のないことは必ずしも悪ではない。悪ではないことはしてもよい。

 そういうわけで一周回ってたどり着いたのが図書館であった。住民税の回収にもなる。利用しなければ損だ。払った税金の一部で陰謀論の本が買われていてもそれはそれである。そして、図書館の返却期限たるシステムは非常に有用で、当然ながら返すまでに読む必要が生じる。それは一種の締め切りである。期限が過ぎても返さなければどうなるのか。司書さんに怒られる。仮にそれが予約本であれば、次を待つ市民にも迷惑がかかる。これはよくない。よくないことはしないほうがよい。

 ところで、図書館では無料で本を借りられる。当たり前である。そうするとどうなるか。絶対に買わないだろうなと思う本も手に取れるのである。Web漫画と一緒だ。お金がかからないのであれば、心理的障壁が低くなる。とりあえず読んでみようと思える。新刊コーナーなどは宝の山だ。そこに並べられているのは、本当の意味での新刊ではない。早くとも、出版から1ヶ月は経っているだろう。しかし、私にとっては、本屋ではまず出会わなかったであろう本でもある。

 そうしてポイポイ借りていくと、読書ペースは半ば自転車操業めいてくる。借りた以上は返さなくてはならない。返す前には読まなくてはならない。返しに行くと新顔に出会う。言わずもがな、積読など許されない。その状況はさながら読書負債とも呼べるもので、常に期限に追われることとなる。どこかで一区切りすべきなのだ。一旦借りている本をゼロにすべきなのだ。何より新刊コーナーに行ってはならない。予約をしてはならない。しかし、期限があるからこそ読書が滞ることもなく、そうしていくうちに一年は終わる。