死に物狂い

他人から影響を受けやすい人間のフィクション日記

腹痛とエレベータ

 人類の歴史とは腹痛との戦いに等しい。過言かもしれない。しかし私にとっては過言ではない。

 いつ何時腹痛が襲ってくるか分からない。そして、往々にしてそれは、容易にトイレに行けない状況においてやってくる。なぜ、的確に電車に乗った私を狙ってくるのか。どうしてトイレの汚い駅で狙ってくるのか。腹痛は常にその機会を窺っている。

 一時期は薬を飲んでいたこともあった。原因は精神的なものらしい。歳を重ねればマシになると言った医者はさすがに医者だったのか、今ではほどほどマシになった。社会に対する耐性が、少なからず付いたのだろう。お腹が弱すぎる青年から、お腹が弱いおっさんになった。

 そうは言っても、お腹を下しやすいことに変わりはない。腹痛は消えたわけではない。奴らはいつだって近くにいるのである。

 

 その日、例によって腹痛を抱えながら電車を降りた私は、会社へ向かう道から外れ、商業ビルへと足を踏み入れた。昔からよくトイレを使わせてもらっているビルである。 

 オフィスと飲食店が同居しているため、朝早くから開いており、かつ警備を掻い潜る必要がなく、なんと言ってもトイレがきれいである。個室数も多いので、先客とバッティングすることもほとんどない。お腹よわよわ人間にとってオアシスのような建物だ。

 

 はやる気持ちでエレベータを待ちながら、私はふと数日前に起きた地震のことを思い出していた。もしもこの体調でエレベータに乗り、途中で止まったとしたら、一体どうなるのか。

 答えはシンプルだろう。しかし、予想される未来は、意外とすぐには訪れないかもしれない。不思議なもので、腹痛というのは、それ以上に深刻な事象が生じた場合、空気を読んで奥に引っ込む習性がある。

 とはいえ、常に最悪を想定するのが危機管理の基本である。閉じ込められている間、恐怖と不安は消えないだろうが、時間の経過とともに、ある種の慣れが生じてくることも想定される。その時、私は腹痛の存在を思い出すだろう。ただでさえ気が気でないのに、心配事が一つ増え、なおのこと心かき乱される自分の姿を想像するのは難しくない。改めて考えると、腹痛時にエレベータに乗るという行為は、空腹状態で乗るのと同様にリスクのある行為と言える。

 それでは、そもそも腹痛時にはエレベータには乗らないべきとまで言えるか。しかし、そうすると、今度は単純にトイレに間に合わない可能性がある。上階に進むにあたり、階段にしろ、エスカレータにしろ、逼迫した状況においては、無闇に身体へ振動を与えたくない。それほどに切羽詰まっているのもまた事実なのである。

 

 悩ましい問題である。こういうときには一歩目に立ち返るのがよいとされている。結局のところ、腹痛時における最悪の事態とは何なのか。トイレに間に合わないことか。間違いではないが、少し足りないように思われる。すなわち、間に合わないことによって他人に何かしらの迷惑をかけることこそが、最悪の事態と言えるのではないか。

 そうすると答えはシンプルになる。「他者と居合わせるときにはエレベータを避け」ればよい。単独搭乗であれば、閉じ込められたとしても、困るのは私だけである。したがって、閉じ込めリスクと腹痛リスクを比較して後者を優先する。一方で、同乗者がいる場合には、最悪の事態を考慮して、搭乗を避ける。こうすることで初手のリスク回避が可能となる。

 問題は途中で人が乗ってきた場合だ。このときは、腹をくくるしかない(腹痛だけに)。もとい、この時点では腹痛がピークに達していることが想定されるため、「人が乗ってきたら降りよう」などという思考を働かせる余裕はおそらくない。

 

 だから万が一の場合には仕方ない、と開き直ってしまってよいのだろうか。プロは最悪の状況の更に最悪な状況まで想定して対策を立てるものである。難解な問題の解決には、発想の転換が必要だ。トヨタのやり方に則ろう。なぜなぜ分析である。

 なぜ腹痛同乗時にリスクが認められるのか。それは万が一トイレに間に合わないかもしれないからだ。なぜ腹痛時にエレベータに乗る必要があるのか。それは万が一トイレに間に合わないかもしれないからだ。なぜ間に合わないことを恐れるほどの腹痛に見舞われるのか。それはそういう体質だからだ。なぜそのような体質になっているのか、それはストレスに影響されているからだ。なぜそのようなストレス状態にあるのか。それは日々の仕事によるものだ。

 

 なんてことだ。原因を追求した結果、全ては労働が悪いという結論に至ってしまった。働くことでストレスがたまり、腹痛を呼び起こし、万が一のリスクも生じうることとなる。労働自体が危難を呼んでいる。根本的な解決に至るには、労働自体をやめる必要がある。単純明快にして灯台下暗し。アイデアというのは複数の問題をいっぺんに解決することだと、かの宮本茂も言っている。これはまさにソリューションに至るためのアイデアであろう。あとは形にするだけだ。退職届を書いて会社に提出すればよい。善は急げ、鉄は熱いうちに打て。やると決めたら走り抜けることが重要だ。今すぐネットでテンプレートを探し、文面の作成に取り掛かろう。

 

 

 というように割り切れれば、世の中もっとやり易くなるのだろうが、世界はそれほど単純ではない。そう認識できるようになったのも、歳をとって得たものの一つと言える。何事もやれる範囲でやるしかないのである。適度な運動・十分な睡眠・バランスの良い食事。ヤクルト飲んで、今日も労働に勤しむとしよう。2022年度もやっていきましょう。

キャラクターとの別離

 実在性というワードで語らなくとも、キャラクターはそこにいる。ただ、「そこ」というのは、私たちの住むこの世界ではないかもしれない。文字通り次元が違う。しかし、何かをきっかけにしてこちらと繋がることがある。そうして私たちの目の前に顕現する。

 おそらく混同してはならないのは、顕現をもってキャラクターが生まれたわけではない、ということだ。キャラクターは、私たちが目にする前から存在している。生きている。それがたまたまあるタイミングで、クリエイターたちの意識と手を介し、私たちの眼前に現れただけなのである。

 

 一方で、キャラクターとの別れはどう捉えられるか。そもそもキャラクターとの別れとはなんだろうか。

 例えば、創作物の中でキャラクターが命を落とす場合。たしかに、死は別れの一形態であるが、実際上、我々とは関係がない。なぜならば、それはあくまでもキャラクター世界における出来事であるからだ。同じ地球上であっても、遠い地の悲劇には現実感を持ちにくい。いわんや次元が違えばをやである。

 言い換えれば、私たちの世界に顕現し、関わりを持ってしまえば話は変わる、ということでもある。これも、現実世界とさして考え方は変わらない。程度はあれど、もはや全くの他人ではないとなれば、すべての出来事は我が事となりうる。親類縁者でもないのに、有名人が亡くなると多少なりともショックを受けるのはそういうことだろう。一方通行な感情であるとしても、惜別の悲しさや寂しさは覚えてしまうものである。

 

 

 昨月にゆうちょ銀行の決済サービスであるmijicaが終了となる旨告知された。

www.watch.impress.co.jp

 

 原因は過去に生じた不正利用事象である。結果として、サービスの改善ではなく、そのものを刷新することが選択された。

 私自身、mijicaを利用してはいなかったし、また一企業の判断にどうもこうも思わないのだが、一点だけ気になることがあった。

 

「みじか」はどうなるのだろうか。

 

www.yurugp.jp

 

 郵便局に行くたびに、私はみじかを認識していた。かわいいね。その姿も今後は見られなくなるのだろうか。

 mijica廃止以降のみじかの処遇について、特にリリースは見つけられなかったのだが、みじか自身は別にmijicaがなくても、「身近なサービスを提供する」云々のフレーズで活躍できそうなので、普通にこれからも居そうな気もする。

 

 仮にmijicaとともに、みじか自身も姿を消すことになったら。だとしても、それはキャラクターが死を迎えたわけではない。単に私たちの目の前からいなくなったというだけで、自分の世界に戻っただけである。つまり、「みじかは今日も平和に暮らしています……」という話になるのだが、惜しむらくは、もはや私たちが、そのように平和に暮らしているみじかの姿を見ることが叶わない点にある。

 もしも、みじかが私たちと同じ世界の住人であったなら、日々の生活で出会う可能性は、たとえ0に等しくとも、無ではない。ゆうゆう窓口で対応するみじかに、ばったり出くわすかもしれない。「おっ、元気そうにやってんな」と感じ入る場面があるかもしれない。そもそも、そのような感情を得たいというのは自己満足にほかならないわけではあるが。

 いずれにしても、みじかの本拠はこの世界ではない。したがって、郵政の判断によっては、かなりの高確率で、今後その姿を見ることはないだろう。それは結局、私たちの世界における別れと、大きく意味は変わらないのかもしれない。

 

 

 と、キャラクターの行く末などという話題は、特に新しいものでもなく、実際私も、古今東西、様々なキャラクターと出会い、別れてきた。そのたびに思うことはあったが、今になって改めてごにゃごにゃと考えているのは、潤羽るしあさんの件があったからだ。

 契約解除が発表されたタイミングでは、日々の通りがかりに、まだ彼女が出演予定だったイベントの広告を見ることができた。彼女も他のタレントと同様、行き交う人々に笑顔を投げかけている。そんな姿と、彼女の最後のツイートを見比べて思ったのだった。つまるところ、キャラクターとは一体何なのだろうかと。