死に物狂い

他人から影響を受けやすい人間のフィクション日記

脇目も振らずにイージーモードを選ぶ

 ゲームの話である。難易度が選択できる場合、ノーマルモードを選ぶ。ノーマルと呼ぶぐらいなのだから、それが開発者側の基準であり、作品を一番楽しめるはずだという感覚である。

 しかし、それはもう昔の話で、今となってはイージーモード即決である。一旦ノーマルで遊んでみて、でもない。少し前まではそうだった。一旦開発者の基準たるノーマルで進めて、ちょっとしんどいなと感じた段階でイージーに切り替える。最近は、途中で難易度を変更できない作品も少なく、その点で特にリスクもない。賢い戦略のように見える。ところが、いつからか「じゃあ最初からイージーでええやん」と思うようになった。心境の変化である。

 ゲームの進行が滞ることに強いストレスを感じるようになった。これはありそうな理由である。そしておそらくそうである。一方で、試行錯誤が嫌なわけではないし、簡単すぎるのも好みにあわない。近時においては、「物語を楽しみたい方向け」として「ストーリーモード」が用意されている作品をよく見かける。そしてそれは、段階的にはイージーのもう一つ下に置かれているような印象である。進行停滞のストレスを考えるのであれば、このようなモードを選ぶのが最適解であろう。しかし、それはそれでどこか憚られてしまう。確かに私はストーリーを楽しみたくてゲームをやっている節はあるが、それだけではない。もとい、それだけであれば、わざわざ可処分時間を消費する媒体にゲームを選択する必要がない。

 そうすると、ゲームに何を求めているのか、との話になる。ストーリーがないゲームはあまり魅力的には思えない。しかし、ストーリーだけを楽しみたいからゲームをしているわけではない。何かを操作して、そこから得られる体験を求めている。

 目的が、ゲームをプレイすることそれ自体から、クリアすることに傾いてきたような感覚がある。終わりを迎えて、一区切りをつける。一区切りをつけて、満足して作品をアンインストールする。その一連の流れに心地よさを感じる。積みゲーを「消化する」ことに重きを置く。それはまたそれでよいのかという感じもする。一方で、膨張したSteamのライブラリから未プレイ・未クリア作品が減っていくにつれて、どこか体が軽くなる気がするのも事実である。

 逆に難易度設定ができないゲームの場合には、昔の感覚でプレイしていると言えるだろうか。そのような作品も多々ある。例えばエルデンリングをプレイして、もっと簡単にしてくれとは思わない。用意された材料で、攻略方法を習得し、それで壁を乗り越えるのが楽しい。そういった感覚を忘れたわけではない。選べるなら簡単な方を選ぶのと、簡単な方を選べない作品を選ばないのは違う。

 結局、作品のコンセプトによるということだろう。難しさが、作品がもたらす良い体験を損ねているかどうか。うまくマッチしているのであれば、停滞を停滞と感じない。それも含めてのゲーム体験だからである。ジャッジアイズでやたら戦闘の難易度が高くても困る(リアルさは増すかもしれないが)。

 

『情報セキュリティの敗北史』を読んだ

『情報セキュリティの敗北史』を読んだ。

 

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 こんな時代だし遅ればせながら何か情報系の資格を一つぐらい取っておくかと、IPAの情報セキュリティマネジメント試験を受けた。その学習のさなか目に止まったのがこの本で、結局読んだのは試験の後のことだった。結果として、学んだ概念や用語が数々登場し、非常に読みやすく、それだけでも試験を受けた甲斐があったというものである。

 セキュリティをいかに自分事と捉えられるか、あるいは自分事と捉えさせられるかという点は難しい。過去において、自分には盗まれて困るような情報などなくシステム上の脆弱性を悪用されても明確な被害がない、といった感覚から、多くの人が、情報セキュリティとは専門家のもので自分には関係ない事柄だと認識していたという。それは正直よく分かる。セキュリティを気にすることが、いかに自分に利益をもたらすかをイメージできないのである。それどころか、逆にセキュリティを、面倒くさく難しいできるだけ触れたくない存在だと感じてしまう。

 あらゆるソフトウェアがユーザーによって使用される以上、ユーザー自身においてもセキュリティ的に好ましい行為をとってもらう必要がある一方で、誰もがそのような行為を選択してくれるかは分からない。そうすると、ユーザーに左右されず、基本的にセキュリティが確保されるように設計を行うのが望ましい(セキュリティ・バイ・デザイン)。このあたり、マイクロソフトにおける、開発上で何を優先するかに係る思想の変遷は面白い。あるソフトウェアにおいて、それを使用する人口が多ければ多いほど、開発側が果たすべき責任も大きくなる。

 そのように設計側が努力を重ねた結果、攻撃の対象がユーザー側に戻ってくるのは当然とも言える。その間、ユーザー側のセキュリティ意識も向上はしてきただろうが、感情的な部分は正直どうしようもないという気もするのである。誰だってフィッシングメールを見たら焦るし(特に迷惑メールフォルダに入っていないやつ)、SMSが送られてきたらビビる。そこで「そんな連絡が来るはずない」と思えるかどうかは、もちろん知識によるところも小さくないものの、そこに加えて心の持ちよう、つまり余裕があるかどうかみたいな話にも思える。そうすると、そもそもそういうメールやSMSが目に入らないようにしてもらうのが一番、と話しが戻ってくるので、ユーザ教育がセキュリティを確保するための両輪を成すのは変わらないにせよ、仕組みの方でどう安全を担保するかが重要なのは変わらないように感じた。