ひきわり算盤

他人から影響を受けやすい人間のフィクション日記

脱臭された人間性を楽しむこと

 創作物を好きな人間は、程度はどうあれ人間のことが好きであるように思う。人間というと広いから、感情といったほうがよいかもしれない。さらにいうと、創作物といっても色々あるのであって、ここで思い浮かべているのは、何かしらの意思を持った登場(人)物によって展開されるタイプのものである。と、書いてみたものの、これでもうまく説明できている気がしない。つまり、創作物において、人であれ人外であれ何かしらのキャラクターによって展開される物語であれば、何らかの形によって感情描写がなされるはずでだろう。そして、その感情描写によって物語は進んでいくだろう。

 創作物を楽しむ場合、多かれ少なかれそれは物語を楽しむのと同義である。なぜ物語を楽しむのか。それは、現実にないような話を楽しむのか。それとも、あるような話を楽しむのか。例えば、創作物上で繰り広げられる人間ドラマが、現実にもあってほしいという、憧憬の心があるのか。それとも、自分の経験に重ね合わせての感情移入の結果なのか。いずれにせよ、それらは現実の人間が持つ感情表現を映し出したものである。

 一方で、人間という存在自体に忌避感を覚える人もいる。私を例にすると、全くもって人間嫌いではないのだが、最近でいうと、配信者がカメラで自身の顔をアップにしているような場合、そのような映像がそこそこ苦手である。画質がよければよいほどに苦手である。超A&Gみたいなガビガビ画質であれば問題ないのだが、1080pはあまりに圧が強い。そこに生命を感じるからである。何だか生々しいのである。ただ、これが例えばライブBDの映像であれば特に問題ない。あまりしっかりと見たことはないが、ミュージカルや演劇の映像も大丈夫と思われる。思うに、作られているものと、作られていないように作られているものの違いであろう。創作物として見る人間は大丈夫。しかし、現実の生物としての人間は見るのがしんどい。重すぎる。

 人間を見るのがしんどいのに、ある種の人間像が織りなす物語を好ましく思うのはなぜだろうか。これは、私が創作上の「人間性」に惹かれているからだと思われる。それが本当の人間性であるかどうかは関係がない。人間性のようなもの、人間性だと捉えられる気がするもの。現実の人間が持つ要素を凝縮して濃縮して再構成したようなもの。現実のそれではない。インスタントなもの。

 現実世界で人間を見すぎている反動なのかもしれない。実生活でアホほど関わっているから、せめて現実以外では人間を見たくない感覚がある。しかし、格ゲーマーの配信なんかは普通に見て楽しんでいるので、それほど有力ではない。結局は、見たいものと見たくないもののラインをどこかに引いていて、何らかのポイント制によって、コンテンツがその境界線のどちらに行くかが決まるのだろう。

 そのような人間が最近よく魅力に感じるのは、面白いのは2次元のキャラクターが現実背景に溶け込む映像である。実写合成。20年ぐらい前に、ニコニコ動画で、縁日の屋台を歩きながら様々なキャラクターとすれ違う、みたいな映像作品があった気がするのだが(実写合成ではなかったかもしれないが)、それ以来のように思う。そういう世界の交錯の仕方には、今もなお、言いようもなく魅力を感じる。

 最近で言えばビビデバがもちろん挙げられるだろうが、改リ氏の作品を見てあらためてそういう感情を思い知ったのだった。

 

 

 例えばだが、これを現実の人間がやっていたら、私はよく見れないだろうと思う。結局は好みの話ではあるだろう。と留保したうえで、深夜に人間がこのような動画をわざわざ撮っている、というその人間の思惑に拒否感が現れてしまう気がするのである。なぜならば、私基準で、それはあまりにも人間的すぎるからである。

 しかし、本作品のように二次元キャラが介在することによって、その人間性は薄まる。そのうえ、「こういうことをする人って実際にもいるよね」と、なぜかこの時はかえって、現実の人間に思いを馳せて楽しむことができてしまうのである。

 本作品は、虚構(2次元キャラ)と現実(背景)が交差する瞬間を作っている。このとき、人間性は虚構の方から現れるが、それが現実の舞台に置かれることで、まるで現実に人間性が滲み出てくるように見える。すなわち、現実そのものを見るには重すぎるが、虚構を媒介することで、私は現実を楽しめるようになるのである。

 しかし、はたしてそれは「現実」なのだろうか? 虚構を介して滲み出してくる人間性は、やはり虚構なのではないだろうか。もちろん、だからといって問題ではない。ただ、一点明らかなことがある。それは、私が人間性を追い求めているということだ。現実の生に若干の忌避感を覚える一方で、いわばインスタントで脱臭された生を求めている。

 

 直近でいうと、マクドナルドのいまだけ月見食べ美もそうであろうか。

 

 そしてこの「虚構を介して人間性を脱臭する」という構図は、映像作品に限らず、VTuberにもそのまま当てはまる。二次元的な外見によって現実の生々しさを和らげ、濃縮された感情だけを楽しめるからこそ、私は彼ら/彼女らを心地よく受け止められるのだ。つまり、実写合成映像とVTuberは同じ仕組みで成立している。虚構の人間性を現実に置くことで、現実をインスタントで耐えやすい形に加工して提示してくれるのだ。だから私はその表現に強く惹かれているのだろう。

 ただ、このインスタントな人間性は、結局誰かの生身を削って抽出されたものにすぎない。本来あるものを蒸留して、ろ過して、精製して。だから軽やかに受け取れるのは消費する側だけで、提供する側にとっては、それは決してインスタントではないのだろう。その矛盾ごと私は享受している。