死に物狂い

他人から影響を受けやすい人間のフィクション日記

人間、時に爆音を聞き、デカい建物を見て、何か大きいものを感じよ

 人間なるもの、たまには何かデカいものに触れるのがよいと思う。人間社会はあまりにも人間に最適化されすぎているため、さも人間のために世界があるかのように思えてしまう。そのような感覚がいかに傲慢なものであるかを感じるのが必要だろう。だから人は山に登るのである。

 とはいえ誰彼も簡単に山に登れるわけではない。時間も体力も装備も必要である。現代人にとっては準備するだけで一苦労だ。明日も明後日も明々後日も休みなのであればよいが、そうでなければ易々と選択はできない。今日の疲れは明日の疲れ。明日の疲れは明後日の死である。しかしながら、そんな現代人にとってぴったりのデカいスポットがある。言わずもがな、大阪・関西万博である。

 大阪メトロ中央線夢洲駅に着けば、早速デカい、わけではない。改札を出ると、エスカレーターと階段がある。ここも小さくはないが、大きくもない。しかし、地上に上がって目にする光景はデカいと思う。入場者列用のデカスペース。初日などはここに人が詰まったのだろうか。詰まっていなければ、ただ遠回りが必要な感じのデカ通路だが、万国旗がはためくなか、だだっ広い平面を歩くというのはそれだけで楽しいものである。

 ドキドキの荷物検査を通過すれば、そこもまたそれなりのデカスペースである。遠足できたであろう子どもたちが並んでいたりする。先生方は本当におつかれさまである。それらの集団を横目に、ミャクミャク様の御座像を見れば、あたりにはもう大きな建築物が現れ始める。

 山はおおむねデカい。しかし、山は自然の産物である。人がいようがいまいが、地球と大気と水とその他があればおそらくそこに存在する。しかし、建造物はそうではない。わざわざ作ろうとしなければ存在しないのである。しかも万博では、これらに明確な用途がない。ここに住むわけでもなく、生活をするわけでもない。ただ人を呼び、自分の国を紹介する。そのためだけに、これらのサイズのものを作っているのである。展示内容がどのようなものであれ、その建物がある。

 デカいといえば、言うまでもなく大屋根もそうである。本当にデカい。想像していたよりも数倍大きい。遠くから見てもそうだが、近くで見るとなおデカい。上を歩いてみてもデカい。円周の対角線上を見て、やはり大きいと思う。ただ、こんなにデカいものながら、デカいことが最もデカい存在理由になっている。上を歩くことができる。下で休むことができる。しかし、こんなに巨大である必要はなかったかもしれない。何のためにこの大屋根を作ったのか、私にはわからない。しかし、現にこのデカさをもって目の前に存在しているのである。ならば、それを見て「デカい」と感じることがわざわざここに来た人間としての所作であろう。どうして人はこのようなものを作るのか。そしてそれを壊すのか。わからない。しかし、大屋根が大きいという事実は、その背景がどうであれ常にそこに存在し、誰にも否定することはできない。

 大屋根の内側には様々なパビリオンがあるだろう。私はその1割も行けていない。いや、1割は行けたかもしれない。分からない。ただ、おそらくいろいろなところで、デカい音を聞けると思う。万博はサイズだけではない。音のほうのボリュームもデカい。建造物は視覚的なデカさを訴求するが、音は物理である。空気中を伝わる波が身体にぶつかる。時に人はライブに行く。クラブに行く。映画に行く。そして爆音をその身体で受け止める。そのとき、なぜだか人は生きている心地がするのである。目には見えない身体的接触を介して、人はむしろ身体性を獲得するのだ。

 万博は規模もデカい。建造物がどうとか、本来的にはそういう話ではないはずである。万博とは万国博覧会である。様々な国籍の人間があの人工島に一堂に会しているという、その事実を感じよ。国が違ってもお互いに母語ではない英語でコミュニケーションが取れるという事実に触れよ。言語が通じなくてもコミュニケーションは取れると実感せよ。デカい声でしゃべれば何とかなる。いかに小さい経験だとしても、そうして普段自分がいかに狭い世界で生きているかが分かるのである。

 デカい池で行われる噴水ショーを見よ。私は屋根の上から見た。長大な蚊柱にまとわりつかれながら見た。意外とユスリカは人に留まらないという気付きがあった。ユスリカはただそこを飛んでいるだけである。ともあれショーを見よ。高所に足をすくませながら、噴水と炎の威力を見よ。裏からでもプロジェクションマッピングはちょっと見えます。噴水ショーを見たなら、せっかくなのでドローンショーも見よ。言わずもがなデカいと言っておく。空を飛んでいるから分からないが、きっとデカいはずだ。

 デカいデカいと言っている。何事も大きいからといって、何もかが素晴らしいわけではない。必ずしもデカくある必要はない。ピラミッドや古墳が作られた時代とは違う。ただ、そこから人間の営為を感じ取れてしまうのもそうである。ドデカいものを見たら、一次的に素直にすごいと感じてしまう。二次的には様々な感情が生じる。はたしてその様々を感じ入るほどの余裕はあるのかとも思う。そこまで含めての体験だ、とも自信を持っては言えない。ただ、デカさに触れることは重要だと思う。だから人間、時に爆音を聞き、デカい建物を見て、何か大きいものを感じよ。そして自らの小ささを知れ。