『のあ先輩はともだち。』を単行本で読んでいる。面白く楽しい。
のあ先輩を「かわいい」と無邪気に評していいものか。1巻を読んだ時から思案しているが、今に至ってもなお同じ感情である。
のあ先輩は悪い人ではない。情緒が不安定で、束縛癖があり、浪費癖もあり、人の話を聞かず、自制ができず、片付けもできず、生活ができないが、それらをすべて自覚している。自覚していてなお、というところをどう見るかはあれど、決して悪い人ではない。そして日常生活において、特に会社内では、そのような自分を見せぬよう常に努めて気を張り続けている。そういう努力ができる人間なのである。
そんなのあ先輩と、(のあ先輩によって)半ば強引な形で友人関係となったのが、主人公の理人である。23歳入社2年目。27歳ののあ先輩とは、半ば上司部下の関係に近い仲であるから(直属ではない)、作中のような展開になるのは(現実的には)いささか怖いところがあるが、両者ともあまり気にしていない。それどころか、理人は省エネライフを至上にしていたにもかかわらず、1巻を終えるころには、早々にその思想を忘れてしまったかのようである。適度に文句は言いつつも、次第にのあ先輩対応に生活の中心が置かれるようになり、それに対してそこまで疑問を感じていない。ゆえに本作も『その着せ替え人形は恋をする』と同様に、主人公のもとに都合の良いヒロインが現れたわけではなく、どちらかと言えばその逆なスパダリ作品といえるだろう。
理人がどうしてのあ先輩に付き合うのか。現状、そこに性愛はないように描かれる。庇護欲はあるかもしれないが、メインは尊敬にある。理人にはインターン時代から、のあ先輩と関わりがあり、のあ先輩を「仕事ができる人」と認識している。理人からしてみれば、ギャップ萌え(古語)とまではいかずとも、長らく尊敬していた対象の真の姿たる謎ムーブを見ているのであって、それで幻滅せず、むしろいとおしく思っても特段違和感はない。
ただ、ここで読者と理人の間には、認識の食い違いが生じているようにも思われる。つまり、理人がのあ先輩を尊敬する具体的な理由が、こちらには今ひとつ伝わってこないのである。若くしてアートディレクターの地位にあるらしく、周囲からもバリキャリと評され、「仕事ができる人」とされてはいるものの、描写はそこまでに留まっている。また、時に仕事ができる具合がデフォルメされた表現とともに描かれる。例えば「BARI CAREE」「バリ…」などの効果音がのあ先輩の周囲を包む。言い換えるなら、それだけ仕事ができる人としての描写が記号化されているともいえる。
上記の点に係り、近時においては、理人がのあ先輩を尊敬する理由について、フォローが行われている。具体的には、5巻ではインターン時の様子、また6巻では理人に業務上で様々な改善点を指摘する姿が描かれるなど、業務におけるのあ先輩の一面が描写されている。しかしながら、それらを見てもなお、のあ先輩のすごさが明瞭には分からない(ただし、自分も同領域で仕事をしていたとすれば違った感想になる可能性がある。そもそもどういう仕事なのかあまりはっきりと想像ができないだけともいえる)。このため、理人がこうまでしてのあ先輩に付き合うのはなぜなのかがよく分からず、違和感として残ってしまっているように感じるのである。
これは、理人から性愛が除かれていることのほか、物語が理人とのあ先輩の1対1の関係を中心に展開されるためでもあるだろう。理人以外からののあ先輩の評価が見えにくいのである。ただ、この点も比較的早期からフォローが見られ、他の同僚や、のあ先輩のオンライン友達である葱衛門を介した描写がなされている。しかし、そうはいっても上記の1対1関係が作品のメインとなっているため、課題はそれらの描写の比率であろう。理人以外によるのあ先輩の評価を描くことで、理人ののあ先輩に対する想い・感情がもう少し整理されるのではないか。その意味で、本作の鍵を握るのはのあ先輩ではなく、理人自身なのである。
最後に、のあ先輩の年齢を27歳にするよう提案した担当編集氏は本当に慧眼と思われる。これが当初の25歳設定であったなら、理人とは2歳差であり、のあ先輩自身の状況にも切迫感が薄くなる。つまり、25歳時点のパーソナリティが、30歳に向かうにつれてだんだんと丸くなっていくのは現実にもありそうだが、27歳となると、そろそろ“今後も変わらないかもしれない”という予感が漂い始める。のあ先輩自身が自覚しているとおり、なんだかとても危ういのである。そしてそれが本作の魅力の一つにもなっている。楽しいコメディの裏に、今後もどうしようもないのではないかという緊張が、常に漂っているのである。