『都市伝説解体センター』をクリアした。少し前のことである。以下はネタバレを含む感想である。なお、タイトルで問いを投げかけているが、本記事に明確な答えは含まれないことを先に明記しておく。
主人公である福来あざみは無垢である、と言ってよいか。最初の時点で、実はちょっと苦手な方のキャラクタかもしれない、と思ったのだった。センター長である廻屋に言われるがまま、流されるがままに調査員となり、何やら危険な現場に繰り出すことになる。さすがに流されすぎではないか、と思っているうちに友人に対する気遣い、身勝手な世論に対する義憤、独断専行のふるまい、良かれと思ってやったことが裏目に出る感じが見ていてつらく、どうしてそうまでして要らんことをしてしまうのか、と感じたのである。
あざみの行動原理は、いたって純粋であるように見える。本気で他人を心配する。正しいと思うことをやる。そして騙される。はたして、福来アザミは無垢であると言えるか。きっとそうであろう。では、なぜ福来アザミは無垢でなければならなかったのだろうか。
福来あざみの正体は本編ラストで明らかにされる。すなわち、SAMEZIMAの管理人であった廻屋渉、の正体である如月歩、の別人格である。主人公の割にほぼパーソナリティが開示されず、私生活も不透明であり、センターとの出会いも不自然と言えば不自然であった。そういった当初からの違和感がラストになって結実するのは、プレイしていてとても気持ちがよかった。ラストシーンは「そいつがルパンだ!」を地で行く感じで(まったく嫌味な意味ではなく)笑ってしまった。
あざみという人格が作られた理由については、端的には廻屋の立場から見て、自分以外の狂言回しが必要だったからと推測される。しかし、仮に本作におけるあざみのポジションを廻屋自身が担ったとして、何か不都合はあっただろうか。あざみがいなくても、センターとSAMEZIMAは無関係と評価されていただろうし、また各事件についても、結局すべては廻屋の自作自演であるわけだから、5ソサエティの面々を痛い目にあわせ、拉致までするのに影響はないであろう。
そのうえで、一つには上野天誅事件の解体(これはネット上に配信されていた)をドラマチックにして、聴衆に印象付けるためとの目的が思いついた。秘密は自ら開示するよりも、他者によって暴かれる方が印象的である。ただ、このときの廻屋とあざみとのやり取りが、客観的にどう映っていたのかはよく分からない。廻屋が世に問いたかったメッセージは、あざみではなく廻屋自身から発せられていたように思える。であれば、廻屋の声を聴衆に届ける必要があるが、それはどうやっていたのか(なお、この疑問は他の解体時にも同様に適用される)。
しかしこの点は深く考える必要はない。要は録音した音声でも、生成AIとの会話でもよいのである。なぜなら廻屋は天才ハッカーでもあり、またあざみは廻屋に実質的に操られているのだから、たぶん何とでもできる(元も子もない)。重要なのは、そのように割と何とでもできるはずなのに、わざわざあざみを作った点にある。はたしてあざみがいなければどうなっていただろうか。
言い換えれば、あざみがいなければできなかったことは何であるか。そして、なぜあざみは無垢でなければならなかったのか。また、逃亡後のあざみは、まだ無垢なままであるのだろうか。この記事ではそれらの問いを投げかけて、特に回答は示さずに終わる。なぜなら、私自身が答えを持っていないからである。
このような留保をしたうえで、突拍子もないことを一つ思い浮かべるならば、廻屋は第4の壁の向こう側にメッセージを送ろうとしたのではないか。SNSで友人の擁護を試みるあざみを見て、プレイヤーはどう感じただろうか。多くがジャスミンと同じ感想を覚えたのではないか。そんなことはしなくていいし、むしろすべきではない。しかし、よく考えてみれば、あざみの行動は何もおかしくない。親しい友人が敵意を向けられている。何も知らない人間が、安全圏から、消費活動の一つとして石を投げつけている。それに対して、抗議の声を上げることは正当であろう。
とはいえ、あざみの行動は短絡的とも言える。ネット上で有象無象に反論を行っても友人を守ることにはつながらない。そして我々は、その抗議がどのような結末を呼ぶかを知っている。数多くの事例を通じて、知ってしまっているのである。だからジャスミンのような態度をとる。
そのような「冷静な」態度が是とされる世界において、廻屋は、如月は、あざみをとおして我々プレーヤーに対して問いかけたかったのではないか。誰しもが本来あざみのように物事を捉えていたはずであるにもかかわらず、今となってはそれを無垢であるなどと評して、ある種の特別視をすることははたして妥当であるのかと。自身の属する世界が、我々の目に留まるだろうことを見越し、自らの目的を達成するのにあわせて、その身をもって質しているのではないか。
上記のようなとらえ方は荒唐無稽である。しかし、如月歩にとってみれば、必ずしもそうとは言えないだろう。なぜならば、ひとえに如月歩が天才だからだ。持ち前の推論力をもってすればいかようにもできてしまえるのではないか。もちろん、理由付けとしては非常に弱い。キャラクターを万能にしすぎてしまうと何でもありになってしまう一例といえるかもしれないが、そうであるからこそ、このような解釈もできるのではないかと思われた。